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暁山禅師 法話『井上義衍老師 最後の提唱 ~ 参禅工夫の玄旨』 2016年12月18日(テキスト版)

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2024.12.20 更新

 2024年現在 91歳の、和歌山県紀ノ川市「玄燈庵」の暁山禅師(井上哲玄老師)は、大悟徹底された禅匠です。【座らないオンライン禅会】がありますので、一人でも多くの方に、直接、正法に接して頂きたいと思います。

 本投稿は、暁山禅師の2016年12月18日の動画から、その師匠で実父の井上義衍ぎえん老師による1980年9月5日の提唱部分を含めて、筆者の勉強のために文字に起こしたものです。

 動画に以下のコメントがあるので、哲玄老師がテキスト化したものも購入できそうです。

 法話の内容は『夢想 第5集』に「参禅工夫の玄旨」として収められております。『夢想 第5集』のご注文 ) は、xxx からお願いいたします。

YouTube 上のコメント

 なお、この下の目次とテキスト中に示した "時間 + 小見出し" は、筆者が便宜上追記したものです。よく聞き取れない部分には推定で文字を当て、また、全体に、理解し易いように文章を調えています。




0.26 ☘️ 哲玄老師 前説

 まずはですね、師匠、井上義衍老師の、これは昭和55年の10月、亡くなる半年前の、全国の信者を一同に集めた、約200名くらい寄っていた時の、最後の、そういう大きなところでは最後のお話です。そういうことがあるので、ちょっとしっかり聞いてほしい。

 たぶん、本人もそうだし、私どもも、この日でたぶん終わると思ってました。なぜなら前日から出血がひどくて、前日3時過ぎには病院に行ったんです。救急車で来てくれっていうのを、もう人も集まりかけてたんで、こっそりと行って。

 病院、お医者さん的には、もう重症も重症、ベッドから動くなんてとんでもないっていうことなんだけど、よくわかっていたので、病院の側は万全の体制でちゃんと準備してくれたんで、まあ、行ってきてくださいということで、朝、病院抜け出だしてきたんですね。

 だから、多分この日で終わると、終わりになるなということで、私ども対処してたんですが、なんとそれから半年生きました。そういう時の法話なんで、ちょっと聞いてほしいです。



 以下、義衍老師の法話部分をテキスト化したものです。


3:01 道本円通~宇宙いっぱいの道

 道元禅師の「道本円通どうほんえんづう、いかでか修証しゅしょうらん」ということが言われておりますが、この道と言われるものは、元来これから作り事をするものではないということですよね。

 作る必要のないものを、人は、今から作ろうとしておる。そういうところに根本的な誤りがあるということを、申し上げてみたいんです。

 それは、道元禅師が、「本来本法性ほんらいほんほっしょう天然自生心てんねんじしょうしん」といいますか、ご自分で大悟をしてご覧になって、そしてその上から始めて申された言葉です。

 それから、道本どうほんということが、皆さん自身ですね。皆さん自身その人が、すでに道であるということなんです。道以外の存在ではないんです。

 それで、どうしてそういうような言い分からですね、、、それから、仏が大悟せられてから、、、(板書の音)、、、え~、如来でしょ、え~如来の、、、徳相を具有するとあります。こういうふうなことが、みんな言われておる。これを簡単に申し上げますとね、何も難しい異なったことを言うのじゃないです。

 別な場所のことを言うのじゃなくて。私どもはどういうわけですか、この人間としてのものが生まれてきたら、これ自体が、環境といつでも一つにならなければ、動くことができないようにできているのかということ。それが問題なんです。そうでしょう。

 これも、人事関係を抜きにして、あっさりと皆さんの方で考えてみてください。人事関係も何もみんな入っても頓着はないんですけど、そういうようなものに支障を感じるところが、きっとありますから。

 それで、ただ環境の、宇宙としての環境全体のあり方と、そして、人間の上になぜ宇宙全体の環境としてのものが、この上になければならんか。ね、そうでしょ。

 私がこうやって立ちますと、皆さんがこういうふうにおいでになりますけれども、私はなぜ、皆さんを受け入れてですね、そして、そのまま別に受け入れたとも離れたとも、思いもどうもしないのに、なんでそういうことがなければならんか。不思議なことじゃないんですか。

 こういう大きな、根本的な問題があります。この問題を本当に自分で見極めてもらうと、それで終わりです。


6:42 刻々と現れては消える作用体

 他に、仏法といって学ぶべきものは何にもないんです。金剛経のお経の中にも、三世心さんぜしん不可得ふかとくともあります。過去の心も、現在の心も、未来の心もですね、心として、いわゆる「心の考え方」じゃないんです。今のように、「必然」なんです。

 これを私がこうして持ち上げると、皆さんがどういうわけか、これが皆さんのところに皆ある。思わんでも、不必要だと思うてもある。それで下ろすとそのまま、すぐに立ち消えてしまう。そういうようなことの連続です。

 よう考えてごらんなさい。そうしたら、皆さんの心のね、どこかを捉えてどうかしようなんて絶対に不可能です。そういうことができるものではないように、これ自身が出来ておる、その状態を、道元禅師は「道本どうほん円通えんづう」と言われたんです。

 それから、いかでか修証しゅしょうらんというのは、「修行してどうのこうのいうような問題じゃないよ」とおっしゃったんです。それで、釈尊がこうやってお悟りになって、「一切の衆生は、如来の知恵と徳とをみんな備えている」と。

 そうなんです。私の知見を開く言うのは、ただこのことです。仏の知見を開くということはね、根本において何にもない。何にもないのに、どういうわけか、なにもかも、みんなこれが一緒になって動くようにできあがっているその「作用体」、それが皆さんの本性です。そういうことを、お示しになったんです。


8:44 環境と一体 ~ 因縁性のコノモノ

 それからこういう大きな問題がありますから、これをただ皆さんが、ご自分で体験をなさる。体験すると、どうもせんでいいでしょう。

 そこを見ただけ、聞いただけ、動いただけ。

 そういうようなことで、宇宙と言って大きいように聞こえますけども、環境とこれが一つになって、否応なしに動く状態があるんです。そういうことで、経験をなされるんです。

 ひとつも難しいことじゃないです。あんまり当たり前すぎて。ところが速度が速すぎて、人間の考えとしての◦◦◦◦◦◦心の動きでないから、思いもよらんことがもう四方八方からですね、いっぺんに、このものの上に動き出すんでしょ。あっちからも、こっちからも。

 そういうふうに、速度が速すぎるために、それがなかなかハッキリしないんです。だから、皆さんの現実の存在そのものに、ただ本当に、自分でそれに対して「ああそうか、これで良かったのか」と、気がつかれればいいんです。

 皆さんの日常の生活をご覧になっても、気にかけずにそこら辺り歩いていて、一切のものが、千変せんぺん万化ばんかきわまりないものが、みんなまなこに入り、耳に入りしながら、別にどうしたんでも、こうしたんでもないのに、それっきり、有ったり無かったり、有ったり無かったりしている。それっきりですよ。

 その通りに、あなた方が自然にです。「心をどうかせにゃならん、今からどうかせにゃならん」ような、必要がないようにできているんです。そのことを知る必要があるんです。

 それをしばらく、「因縁いんねん所生法しょしょうほう」とも言うたんです。


10:50 一顆の明珠 ~ 対象なし

 因果の関係といいますと、「これ」と、「物という対象」があるように見えるんですけど、実際には、内容においては「対象」も何もないです。一切のものに「対象」らしいものは一つもないんです。「対象」らしいものなしに、自由に、これが本当~に、不思議に動くようにできているんです。

 そういうような状態ですから、それで古人が「一顆いっか明珠めいじゅ」と、「ひとつの玉ですよ」なんて表現したのもそうでしょう。

 ひとつの玉をごらんなさい、色彩にしても何にしても、受け入れようとしたのでも、捨てようとしたのでもないのに、必ず自然に入ってきて、自然にこう逃げていく。

 こう音がしたって、自然に入ってきて自然に消えてる。そんなに、みんなもう解脱の人です。そんなにうまく出来上がっているのに、なんで「考え方」で、これをわたくししてですね、そして、「これをどうかせにゃならん」て、いたずらせんでもいいんです。

 仏法というものはね、人間があまりにも自分勝手なイタズラをすることを、全部やめなさいと言うことなんです。それを本当にやめさえすれば、それでもう終わりなんです。他に何も用があるんじゃないんです。

 そうすると不思議に、どの縁にも、どういう環境にもうまく準じて、それに抵抗する考えが人間から離れてしまうんです。そしたら、余計、楽になるんです。

 で、私が起きるとね、今ここで何かを言われてやろうとしておっても、それが、自分の要求があるために邪魔になる。それで、行こうとする、行けれない。そういったことで、たいそう問題が起きて苦しむんでしょ。それだけのことです。


13:07 方円の器 ~ 止まらない六根のハタラキ

 それから、「水となって、方円ほうえんの器を自由にする」という。方円の器に従って、水が自由に出たり入ったりする力。それには、まず最初に水となって、方円の器そのものに一応従っていくんです。

 ここ、しようがないでしょ? 人間の眼だって、時計を見れば必ず時計であって、その他のもんじゃないでしょう。絶対に他のもんじゃない。

 これをご覧になれば、その通りです。もう何に向かっても、見ても、聞いても、私どものこの六根ろっこんの働きの上から見ますと、みんなそういうことが、実現をしているわけです。

 こういう状態ですから、そこで今の話を、、、(板書の音)、、、これみんな、、、

 これで、今までの話をまとめると、釈尊が一番最初に自分の五人の弟子に、簡単に自分の悟った事実を示そうとされて、最初にお示しになったのはこれです。

 こんなこと当たり前でしょう 。「まなこに必ず物があり、耳に必ず声があり」ですね、そして、「鼻には必ず香りがする、舌には必ず味がある」ですね、「体には必ずその触覚としての、触れる」、そういう、いろいろな動きがあるでしょう。

 それから、心と言われるのもね、あの、心と言ったってみんなの考える心じゃないんですけど、ま、この意が使ってありますけどもね、、、

 無意 、、、とありますけども、知らんのです、心も。なぜ、私のこれ、時計が、私どもの上になければならんのかって言ってみたって、それ、誰も知らんの。

 必然で、ただ、そうしかありえないようにできてる。法として、道として。それを無意と言うたんです。何も、どうも、人間がしたんじゃないんです。そういう風に出来上がっておるのが、現在のこの、生活をしておられる事実の、、、、そのまんま、涅槃の境地です。

 他に行き場も何もないんです。これだけで全てが終わるようにできている。それをシッカリしていただけばいいのです。


17:52 遅れてくる影 ~ 認識のハタラキ

 ただ悲しいことには、今のこの六根と六境との関係というものが、必然性で、必然性が必然性のまんまに、勝手放題に動くもんだから、思いの心を持ってなかなか捉えられんのです。

 捉えられないけれども、捉えるということがあるのは、私どもにこの認識と言われる作用があるからですね。その認識の作用によって初めて捉える。それはね、こういうことなんです。「影」を捉えたんです。

 すでに動いていってしまったものを、後から「ああ」と思い起こし、それを捉える。

 そして、それを使うと、賛成もできたり、治療もできる。そういう意味においては、非常に良いです。

 ところが、認識は不思議にモノを認める。今言ったように、後から影を認める。認める習慣がある。その習慣によって、自分が迷いを起こすという方面もあるんです。それにみんな騙されるんですね。

 「考え方」で後からその影を捉えて、その「考え方」で問題にしますと、次から次へ、人間的な「考え方」としての問題に落ちてしまうんです。

 そして、これの必然性、宇宙的大きな存在としての必然性のまんまに、これが活動している、その活動を全部捨ててしまうんです。誤って。

 そこに、認識作用というものの欠陥があり、特徴があるんです。その欠陥は、すべて影を認めた、習慣としての動き方をする、その作用自体は、自分のこれ働きなんでしょう。


20:43 不生不滅の心 ~ 自我という仮在

 認識というのは、すべてのあるものを、ただあると知り得るだけの話なんです。ところが、(現前を見れば、認識以前に)自分の(上に)いろいろな動きがある。その動きを(そのままにしておけばいいのに)、ちょっとこう認めるんです。影を認める。

 そして、初めてそこにね、私という自我らしいものが、あるような気がしたんです。そういう気を起させたのが認識の作用で、これによって、自我があるような気が、みんななさるんです。ところが、自我という存在は本当にあるものではないんです。

 その自我のない様子を言ってみますと、この活動の速さと両方で、、、、うん、不生ふしょう不滅ふめつ、、、

 こういうふうなことが言われてますけど、本当に心の状態というもの、さっき、三世心不可得という話をしたのと同じように、本当に私どもはね、どこから起きてくるのかわからないんですよ。

 これだってそうでしょ。どこから皆さんのところに、これ始まったのか知らんでしょ。絶対にわからんですよ。「あっ」という間にはじまって、その影を認めてですね 、そして、有るとか無いとか言うだけなんですよ。

 それほど速い動き方を常にして、有ったり無かったりするんですから、だから始末がつかんです。それが皆さんの心の本性です。それに、教わってごらんなさい。


23:47 不垢不浄、不増不減 ~ 修行ではない

 そうすると、仏法の修行だとか、何やら修行せにゃ、そんなことはあり得ないんです。そういうもんから、みな離れている。ですから、不浄ふじょう不垢ふくでしょう。

 私どもは、まなこ一つにしたって、どんな汚いものを見たって、汚れたということはないです。どんな立派なものを見たって、きれいになったということはないです。

 そういうようなものをみんな生活しながら、どれにも、一つも、これは終わらんでしょう。みな飛び越えている。だから、いつでも、大きなものに対しても、小さいものに対しても、不増ふぞう不減ふげんでしょう。

 これだけのものを見ても、本当に不増不減でしょう。たったこれだけのもので、これだけのまなこで、ごらんなさい。そんな大きな環境を全部ですね、この中に入れているやつに支障もないでしょう。

 そういうようなことをね、静かに、実際に、自分の今の在り方というものを考えてみていただけると面白いんですよ。だから、私のこの、今身の法として出来上がっておるのが、私どものさまですね。

 それをしばらく、それに迷うておるから、修行と言うたんです。それで、その迷いが取れたら、修行じゃなかったんです。今のような調子でいってごらんなさい。もう修行から離れているんです。どうしようもないでしょう。

 そういう事実を、十分に、皆さん、見て頂きますとね、おもしろいんですわ。


25:43 提唱の結論 ~ 我見以前の事実

 それで、時間の制約と私の身体の関係がありますから、だいたい、提唱はこのくらいにしておきまして。それから、これの結論としての、こういう、、、うん、、、(板書の音)、、、人我の、、、見を離るるの、、、これ「機要」ということは「大切な」と見て頂ければ、「重要な」と見ていただければいいです、、、

 

 あの、工夫の様子をね、いろいろに皆さんに、どういうふうに言ったら一番ね、人我にんがという、オレがという見解を離れるのに、どうしたら一番都合がいいかということを、これ今日、書いてみたんです。

 これの中で、一番難しいと思われるのは、この、うち にしてということが問題になりますけども、この工夫は、私どもの「私だ」という見解を離れるということ、それが大切だということです。何よりも。

 それから、その見を、そういう見解を離れる大切な場所、大切なことはというふうに見ていただければいいでしょう。それは何かと言ったら、これです、うち虚にして、ほか、じあるのみ。

 まなこと同じです。眼は何も持ち物がないから、みんな全てがあるだけです。そういうと、今度はみんな、そういう風になろうとなさるから。それで間違うんです。

 ここのところは、十分にこう、話をしたいと思うのはね、、

 人はですね、全てのものを云々うんぬんする前に、ものが先にこうあって、それを、認識がわずかに取り上げて問題にするだけでしょう。

 そうすると、その前にですね、考える前にすでにみんな、「我見もなんにもない、人としての動き」が、ちゃんとあるんです。

 それ、そのうしろへ、、、我見もこれから離れる、、、離れるのじゃなくて、我見の起きる前があってですね、その前が自分の事実ですから。それが本来の、私どもの心の在り方ですから。

 だから、これから離れようとするんじゃなくて、ズバッとこう、一気にこう、みんな離れてる。

 離れたままなのに、それを、また人間がつかまえて、いろんな考えの上から、我見というものを云々しようとするからね。それで問題が起きてくる。

 それをやめるとね、うち虚にしてるんで、これいらんです。

 からにするなんて、いらんことです。 空にする前に、空であった事実は、そのままズバッと進みます。それだけでいいんです。

 それをやると、必然に人我の見というのが離れていく、それが道です。それが、坐禅の一番大切な様子です。これをして頂きたいというだけです。

 さっきも言ったように、この人我と言われるもの、我見と言われるものは認識作用で、何も実体はないんです。これが我見の実物だというものとか、実物らしいものとか、本当は、何も、これないものです。

 それを誤って、認識が作用を起こして間違えたんですね。そこに、自分の作用に認識自体が騙されている。その騙されておったことを、ただ、本当に自覚するとですね、そうするとそれで終わりなんです。他に、修行するの、せんのいうような問題はないんです。

 そういうわけで、ただ、これを自分だという思い込みが、自我と言われている様子なんです。他にあるんじゃないですね。

 実体があるらしく思うこの迷いが本当に取れれば、それで、大安楽なんです。こういう風な道というものは、仏法以外に、本当に教える道というものは、かつてあり得ないんです。


33:13 仏道を歩む幸運

 こういう道に本当に入らなかったら、本来の自分であるそれ自体をですね、自分自身を自分自身で、それ自体として、自分が満足し得る道というものはないんです。

 そういう、人類に対する救いの絶対の道であるということを知っていただきたい。そういう縁に触れて、少なくともそういう道を信じ、その道に進んで来られる皆さん。現在の皆様方、その人の、今の在り方の様子です。

 その在り方の様子の一端を言いますと、たとえ徹底をせんとしましても、その縁に触れて、そこまで人間がそういう方向に、本当に着々と進んできたということ、その、現在の皆さんを、自分で喜ばなければならんです。

 そこまでなかなか、それが信じられて、それについてくる人というのが、やっぱりいないんでしょ。そういう大きな功徳は、経論の中にもたくさん功徳を説いたものがありますけれどね。

 簡単に申し上げますというと、天竜川の砂の全体ほどの宝をあらゆる人に施した功徳よりも、こういう心としての、本当の人の心としての根源を知ってそれを信じ、それに近寄れるということは、どのくらい、それと比較して効果が違うのかというと、100分の1どころじゃない、1億分の1にも及ばないほどで、大層のものを施すよりも、こういうことが信じられて、そして、自分でそれが、多少でも納得ができて、そしてそれを人にも説いてあげるという、自分で分かった範囲でもいいです。

 そういうふうな方になられるというと、その功徳の方がどのくらい大きいか分からないと。こういうようなことが、たくさんに経論の中に示してありますけど、本当にそういうものです。

 ですから、たとえ今、効果はすぐに上がらないにしても、こういうことを信じ、そして、自分でそれが信じられ、着々とそういう方向に向かえるということが、今自分にある。

 それを喜んで、喜びながらですね、どうか 互いに手を取り合って、そして進んでいってもらいたいものです。

 ちょっと、疲れますから、今日はこのぐらいにさせていただきましょう。


 私は自分で自覚を得てこの方、ず~っと説いてきたものを、大体に簡単にこうまとめてですね、一口に申し上げたわけです。

 今日のお話は簡単なですね、何でもないように見えるんですけれども、これは「絶対の味」です。どうぞ十分に味わってみてください。



38:33 ☘️ 哲玄老師の解説

 でこの、第5集、この41ページに、「参禅工夫の玄旨」っていうところが載っています 。

 これ、今お話いただいたものが、そのまま文字にしてあるんです。それからもう一つは、目次にあるように、一大事因縁とか、仏教の生命とか、あとは信心銘などの提唱が載ってます。

 もうこれ(夢想 第5集)だけで、この本1冊で、人生は何もいらないんですよ。これでもう十分。そのぐらいの内容のものです。その内容は、今お話いただいたものなんでね。

 ともかく、とことん、今の様子だけ。今触れている、私が話したら、私の声が、否でも応でも、その言葉の通りに聞こえているだけでしょ。かたっぱしから立ち消えて、今の言葉だけですよ。

 お釈迦様が悟られた、はっきりされた内容って、そういうことなんです。

 何だ、生まれときから、そうやって来てたんじゃないかっていうほど、はっきりしてる。だから、話の中にもあったように、この、我見を取るだとか、何かをどうしようとか、そういう人間的な考え方が、全部邪魔するんですよ。

 修行したいとか、さとりたいとか、そうなるのにはどうしたらいいのかとかと、もう、こういう思いが全部邪魔するだけ。

 だから、全部、ともかく全部投げ出していきなさいって言ってるんでしょう。でも、投げ出すって言葉を使うと、また、投げ出そうとするから。実質、人間のこの機能を見てもらうと、明確でしょう。

 受け取るとか 投げ出すとかって、一切知らないじゃないですか。そういう風にして活動している、そのことに気づいていただくだけ。

 で、少なからず、「気づき」ってのは、、、
 「そこ抜け」、きちっとあの、確証ってそういうことなんですけどね。

 途中の辺でちらっと「気づく」っていうこともあります。チラッと気づくようなことがあっても、そういうことだけで、本当に楽になる。明確になってくるんです。

 だからやってほしい。今日、こうやって集まっていただいてもそうですけどね。これ全部、この教えを基にした仲間ですよ、これ全部。

 仲間方と師匠が言っているように、お互いに手を携えてね、この道を一人でも多くの人に知って欲しいし、各自が自覚できるということ、そっちの方向に向かって、みんな手が取り合えるかどうかです。一つ間違うと、足を引っ張り合う。

 例えば、人が気が付いたとかっていうものが、たくさん発信されてる。あれ、私が発信してんじゃないからね。あんなものを読んだらダメなんですよ。あんなものに関心があるようになったらダメ。方向が間違うんで。

 人のことは一切いいの。人がどういう体験しようが、何しようが、そんなことは関係ない話なの。ねっ。だからあんなものを発信してほしくないんだけども、まぁ、今頼んでるんで、私の正式ブログでは忠告してます。

 そういうものに耳を傾けて欲しくない。目を向けてほしくない。とことん自分のことだから。人のことに用はないんだから。そこまで本当にね、素直っていうのかストレートにならないと、そこはどうしても手に入らない。

 だから今日、これを聞いて欲しかったんです。師匠も今日これで終わりだと思って話してる、最後の 話ですからね。だから、「これは絶対の味です」って言うけどね。絶対の味です。そういうことを知って、やってほしい。

 誰でもできるように、できてること。お釈迦様と同じ生活が、今できてることに気づいてほしいだけだからね。これからなるんじゃない、今できてることに気づいてほしい。

 それには、考え方で探ったら絶対に不可能だってことだけ。本当に体当たりで、これが生きてるわけだから、ぶっつけで、時々刻々。そこを除いて、他に何もあるんじゃないですよ。それだけ知ってほしい。

 ね、そういう意味で、今日は 5集がそういう内容になっているから。これ皆さんに差し上げます。どうぞ、大事にして読んでください。

 そして、もう一つ、ここにコピーしてきたのは、うちの師匠の遺偈ゆいげっていう、生涯の最後の言葉です。

 時間がなくなるから、話はしません。これが最後の、遺偈って、お坊さんたちは最後に自分の境涯を、これ四字ですね、四字の絶句になってますけども。四字、ないし五字とか七字とか使ってやりますけども。

 たったこれだけで、自分の境涯を、最後残していくんですよ。で、この遺偈を見た方が、私の信頼する上司でおられました。  っていう老師ですけども。過去の祖師方が残した遺偈も残っていますが、遺偈ってのは、残す人って少ないんですよ。

 今、お坊さんが亡くなるとみんな、周りの人が遺偈作って本堂に掲げるけどね、あんなものは役に立たんの。形式的に今もやってますけど、本当に自分の境涯を、遺偈で残した人ってそんなに数多くない。

 だけど、そういう人たちのものを見て、この遺偈を見たときに、「うっかり遺偈は残せんな」って言いました。これだけの遺偈は過去見たことがないと。この遺偈は、そういう内容なんですよ。

 だから、これもそういうつもりで、自ら作って、自らちゃんと内容を話してますからね。これも一緒にして、大事にしてほしいです。

 もう一つは、あとはね、週めくり、月曜日から日曜日、週めくりって作ったんだけど。まあ一部は、うちの弟が提唱で話したようなものを入れてありますけども。ともかく、誰が話そうが、どうしようが、内容を知ってほしいだけです。

 これも十分味わえるものですので、どうか有効に使ってください。一週間ですから、どうなるんだろう、一年だと何十回見ることになるか。そのぐらい目を通してもらったら。

 (52回です)、、、52回見てれば、少しは、、、

 その内容を探ろうとしたらダメですよ。内容を探ろうとして読んだらダメなんで。本当に素直に、言葉のとおりに読んでもらって、分からんかったらもう、それ以上詮索はしないこと。

 詮索して読んでたら役に立たないの。全部書物はそうですよ。書物の中に何か大事なことがあるんじゃないですよ。話にしたって、人の言葉の中に大事なものがあるんじゃないですよ。

 あくまでもこの、自分自身のありようのことだけ言ってるわけだから。だから、そういう意味でも、詮索しないで読んでください。素直にスッと読んで、分からなかったらそのままにして。繰り返しているうちに。意味を詮索したり探ったりするよりは、はるかにその方が 効果があります。

2024.12.9 文字起こし by Aki Z


💎オリジナルの動画はこちらに。


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