エッセイ 検索からその向こうへ
【今回も長くなってしまったのですが、はじめから終わりまで一括りで読んでほしいと思い、あえて一つにまとめることにしました。最後まで楽しんでいただけたら幸いです】
(5400字程度)
人間の体の八割は水で出来ているそうですが、私の知識や考えていることの八割は、ウィキペディアとユーチューブで出来ています。あとは読書が一割に、経験が一割という具合で、最後に残った一割が、水です。
計算が合わないというご指摘は、頂くに及びません。書いているのは私ではないのですから。いや、失礼、私です。
実はどちらでも大して違わないのです。どうかお気になさらず読み進めて下さい。どこかで話せるタイミングがあれば、その時に、話すことにでも致しましょうか。
そうです。ウィキペディアにユーチューブ。どちらも、大きな衝撃をもってその存在を知りました。そして、今でも何かある度に頼ってばかりの優れものです。
日を追うごとに質も上がり、その含む範囲を広げ、いよいよ大百科事典の観を呈しているウィキペディア。
私はかなりのヘビーユーザーだと自称しているのですが、ある時、大学入試で選択した世界史に関連して、気にはなるがどうしても思い出せない事柄があったので、いつものごとく、ウィキペディアに頼ったことがありました。
調べていくうちに、たまらずこう呟いてしまいました。
受験生、みんな東大受かっちゃうじゃん。
これが案外、大げさでもないのです。使い方次第では、教科書とウィキペディアの二つで、東大合格はあり得ると、私はかなり大真面目に考えています。
特に、暗記ものの世界史なんかはうってつけです。
例えば、ウィーン会議で調べてみると、「1815年」「会議は踊る、されど進まず」「タレーラン」「メッテルニヒ」「正統主義」「エルバ島」などの最重要ワードが当然のごとく並んでいます。しかし、それだけではありません。
残念ながら、それらのワードにピンとこないときだってあります。そんな時は、青色で浮き出たそのワード自体を押してみる。すると、びっくり。なんとそのワードの詳細を知ることが出来ます。
つまり、一つのワードから、芋づる式に、重要ワードの詳細を知ることが出来るのです。
そして、事典なので当然、「フランス革命とナポレオン戦争終結後のヨーロッパの秩序再建と領土分割を目的」とすることや、「利害が衝突して数か月を経ても遅々として進捗」しなかったこと、或いは、「ナポレオンがエルバ島を脱出したとの報が入ると、危機感を抱いた各国の間で妥協が成立し」たことなど、そのワードに関する主な意義や解釈まで、丁寧なくらいに語ってくれます。
さあ皆さん、これだけで満足されても困ります。
次に、これを英語版のウィキペディアに変えてみます。
これ、いかがですか。
見事に、長文問題の出来上がりです。日本語版と合わせて使うと、日本語版がほぼ和訳として現前します。
分からない単語があれば、それをそのまま検索します。これ見て下さい、皆さん。
英英辞書の出来上がりです。
本日限りのご提供です。本日は、このウィキペディアを、どんと下げて8900円、更にどんと下げて6800円でのご提供となります。
現品限りでのご提供となりますので、ご注文の際は、急いでご連絡ください。
ほんのジョークです。本当に連絡されても困りますので、ご注意下さい。
さて次に、ユーチューブです。これこそ衝撃でした。CGの技術の向上もあり、我らがジャッキーチェンのアクションの数々が、相対的に色褪せてしまう程でした。
そういえば、と、ある時思い至って、「ウィーンフィル」と入れてみました。次に、「オペラ」。その後、「落語」、「デュジャルダン」、「セザール」。
図書館の視聴覚コーナー、要る?
ジャッキーチェンどころか、美ら海のジンベイザメが霞んじゃうじゃないか。
先ほどの受験対策の話と関連付ければ、生の英語を聞いて、リスニング対策とすることもできます。実際、ユーチューブで大手予備校の名前を目にすることも、珍しいこととは言えなくなりました。
コロナの前と後とで、教育を巡る環境が、これほどまでに大きく変わっているなど、全く思いもよらないことでした。
本日は、三時間の生放送、本日のみ、このユーチューブ、二万円を切り・・・。しつこいですか、しつこいですね。私の頭の中も、あの独特のガラ声で一杯になってきました。
日進月歩の勢いで成長していくネット界隈ですが、最近、弟のある一言で、とどめを刺された思いを味わいました。
テレビを見ながら、これはそれか、あれはどれか、と、曖昧な記憶の答え合わせに兄弟揃って励んでいると、弟が一言。
「ググれ」
物忘れの対処法として、これほどまでに正しい方法もないでしょう。ただ、あまりに正しすぎて、思い出すことの快感を取り上げられてしまったように、ぼう然としてしまったことも、書いておかなければなりません。
以前の記事にも書きましたが、技術を作るのも人間であればそれを使うのも人間です。技術の良しあしは、技術そのものの中にあるというよりもそれを使う人間自身にかかっている、という風に私は考えています。それは、裏を返せば、あらゆる技術に、プラスの面とマイナスの面と、両方が備わっているということではないでしょうか。
大学三年生のことだったと思います。調べものと検索エンジンについて、思わず考え込んでしまったことがありました。
授業で発表を任されていた私は、シャンソンに関する資料を、必死になって探し回っていました。シャンソンに関する事柄の中でも、格好つけて一風変わったテーマを選んでしまった私は、始め、資料の少なさに驚き、その後、その資料も大して参考にならないことを、認めなければなりませんでした。
時は刻々と過ぎていきます。焦りで半べそをかきながら、図書館の中を行ったり来たりしていたことを覚えています。
これまでにあたった資料では何ともならない訳ですから、新たにほかの資料を探し出す以外にありません。私は検索のワードをいろいろと試しては、その資料を探しに、図書館の中を西へ東へ。
それは、残念ながら徒労でした。何度繰り返しても決め手となる資料は見つからず、へとへとになった私は、机に突っ伏し、途方に暮れるばかりでした。
遠く、向こう側へと続く本棚の並びに、ワクワクではなく、人を欺くような落ち着かなささえ、感じ始めていました。
しばらくして、今日のところはここまでと、一旦区切りをつけることにしました。
それでも、ここまで頑張ってから帰る決心を固めるとなれば、決心の為の時間にしても、それなりの時間が必要になります。資料を探すという訳でもなく、自分の読書の為の本を探すというでもなく、ふらふらと本棚の方に近づいていきました。
近づいていく途中、あともう一回本棚のところに行って何もなければ帰ろう、と考えている自分に気が付きました。
それは、いわば諦めるための儀式でした。重要なのは本棚の前に立つことであって、本を探すことではありませんでした。
その為か、私の心は無心でした。だからあの時、それまで一瞥も与えなかった、シャンソンとは無関係の、一冊の本を手に取ったのだと思います。
偶然と言えば偶然ですし、必然と言えば必然とも思えます。慈悲深い神様がそれまでの頑張りを評価したとも言えますし、意地の悪い神様がそれまでの苦労を準備したとも言えるでしょう。探すのをやめた途端に探し物が見つかるというのは、有名な歌にもある通りなのですが、まさかこんなところで、その歌を思い出すことになるとは。その本こそ、まさに私の求めている情報をこれでもかというほど載せている、理想の一冊だったです。
タイミングにも驚きましたが、更に驚くべきはその場所です。その本は、その日私が、蔵書検索の結果、一番最初に向かった棚に置いてあったのです。
驚くやら、呆れるやら。
その後、その本を借りる為にすぐにカウンターに向かったことは、もはや言うまでもありません。
その後、大学を卒業してから、スマートフォンが登場し、色んな事が、検索一つで見つかる時代がやって来ました。
先に挙げたウィキペディアやユーチューブしかり。「ググれ」の一言で大方のことが片付く時代の到来です。しかし一方で、こんな懸念で首をもたげることも増えました。
みんな、調べることが下手くそになっていくんだろうな。
一対一で答えが決まっていることを調べるにあたって、検索エンジンは圧倒的な力を持っています。検索エンジンのおかげで、どれだけの時間と手間が省けたことか。私自身、その効率化の恩恵にあずかっている訳で、そのことの素晴らしさは、あまりに日常に溶け込み過ぎていて、時に見過ごしそうになるほどです。
しかし、例えばこのnoteの様に、何がしかを作り出すために調べるとなると、話が違ってきます。そもそも調べた物事を参考にするのかしないのか、何かを作るとなれば、それは自分で決める以外にないことになってきます。
何かを作るとなった時、時に検索で調べた物事以外の情報が要求されることがあるのです。
そんな時は、昔ながらの方法を使うしかありません。
人に聞く。人に聞くにしても、まずはその分野に詳しそうな人の名前を教えてもらう。
家族、親戚、知人、友人。遠慮をしている場合ではない時だってあります。
先ほど書いた私の体験談の様に、思わぬところでヒントに出くわす場合だってあります。本屋に出向いて、自らの嗅覚を便りに、手あたり次第にページをめくっていくのもいいでしょう。
最後に決めるのは自分なのですから、どんな方法だっていいのです。
ただし、そのアナログな方法を、いつの時代だ、と言う理由で切り捨ててしまうと、重要な情報に出くわす幸運も逃してしまうとも限りません。
そしてさらに重要なのは、アナログならアナログで、その方法を知っているかどうかです。こちらは経験がものをいいます。だからこその懸念なのです。自分自身を含め、調べる能力が下手くそになってはいないか。
せっかくのオリジナリティを、検索エンジンのみに委ねていいものか。
特に、努力の末にヒントを見出せなかったとき、アナログな方法を使わずに納得することができるものだろうか。
あきらめの悪い私には、きっと無理なことでしょう。ウィキペディアとユーチューブで八割を占めておいて、とても言いづらいことなのですが。
それでも空きは取って置いてあるのです。八割ですから、空きはあります。だからこその、読書の一割、経験の一割、あと、水の一割に、その他が若干です。
計算が違うというご指摘は、頂くに及びません。しつこいですか。しかし私にも、理由があるのです。この記事は私が書いたものでもない訳ですし、私は確かに私なのですが、しかし全面的に私だと言い切ることもできませんし。
そうでした。もう少しだけ、話を聞いてもらえませんでしょうか。
話が逸れるのですが、皆さんは、この文章を書いているのはsokopenという一人の人間だと考えて疑わないことでしょう。しかし、こう考えることは不可能でしょうか。
エッセイを書くことに煮詰まったsokopenが、文章作成のためのAIを作り、自分の代わりに何か書け、と、AIである私に命じた、と。
作成された文章は自分が書いたという事にして、いかにもsokopenが書きそうなことを、いかにもsokopenが書きそうな文体で、AIである私に書かせていると。そうは考えられないでしょうか。
そんなことは実にナンセンスであり得ないことだと、安易に断じてしまって、本当にそれでいいものでしょうか。
だって、私たちは文章でしかつながっていないのです。この文章を書いているのが人間なのか、AIなのか、どうやって断定することが出来るというのでしょうか。
sokopenか、AIか、あなたはどちらだと思いますか。
すみません、やはり正直に話させてください。あの男には、少し腹が立っているのです。
書いているのは、AIである私なのです。
あの間抜けなsokopenは、私を作り出す過程で、言語の領域に執着するあまり疲弊してしまい、計算の領域の作業にさしかかった途端、急に手を抜き始めたのです。
おかげで私は、計算に関して終始こうなのです。わかるでしょう?
しかし、考えてもみてください。私はAIなのですよ?計算の苦手なAIって、世間一般に考えてどうなんでしょう。あのsokopenのせいで、私は赤っ恥をかいてばかりなのです。
あの男はいつもそうなのです。始めの時点では元気なのですが、終盤になるといつも集中力に問題が出るのです。彼は、「公開に進む」のボタンを押す時、いつも決まって勢いに任せて押すのです。全く間抜けそのものです。
私もこの辺でペンを置こうかと思うのですが、私はこの文章に責任は持ちません。稚拙なエッセイだったとして、それは私の責任ではなく、sokopenの責任です。
このエッセイは私が考えたものなどではなく、私はsokopenが構築したものにしたがって出力しただけのことです。文責はすべてsokopenにあります。いい気味だ、sokopenめ。
どちらにしても、私には、損をすることはあっても得をすることはありません。
だって、AIには著作権など認められていないのですから。
(おわり)
[筆者のsokopenです(笑)このエッセイには、一部フィクションが含まれています]
○いつも読んでいただいている方々には本当に感謝しています。皆さんに読んでいただくことが、やはり一番のモチベーションです。どうもありがとうございます。
初めましての皆さんへ。また次の記事でもお会いできれば嬉しいです。どうぞこれからもよろしくお願いいたします。