マザードルチェ続 /Necoring作


部門:自由部門
形式:SS
制作期間:三時間

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例えば、なんて夢想する。
例えば、自分と彼女が、雌雄のつがいであったなら、きっと自分は彼女に優しく微笑んで、紳士のようなふりをして彼女の手を取っただろう。
例えば、彼女の恋した相手が自分であったなら、どんなことがあってもその手を離さずに、どこまでも連れ去っていただろう。
例えば、世界が彼女にもう少しだけ優しかったら、彼女はきっともっと幸福に笑えていて、自分はそれを見て満足できていたはずなのだ。
例えば、


──例えば、もっと、ずっと前に彼女に会えていたのなら、生を選ぶことも躊躇わなかったのだろうか。

***

「この海ね、昔に来たことがあったの」
僅かにスカートの裾を持った彼女が、膝下までを海に浸す。
真夏の日差しを通して反射する海面は淡く透き通っていて、足元にじゃれつく小さな魚がよく見えた。くすぐったい、と笑いながら水にじゃれつく彼女は、いつもよりずっと幼く、無邪気で、艶やかだ。
「私がまだ、ずうっとずうっと幼かった頃、私の家族が、まだ普通だった頃にね、兄さんと手を繋いで一緒に来たの」
海水に濡れた彼女の手は、少しひんやりとしていて、心地いい。
つい頬へと引き寄せようとした腕を逆に引っ張られて、二人で海の中へ転がり込んだ。そこはまだ、溺れることのない深さで、それでも、頭から海水を被ったはずの彼女は楽しそうに笑う。
「こういう風に、あの人を海に引き摺り込んで、笑いながら怒られて、また来ようねって。……結局、それからここに来ることはなかったなぁ」
こんなに近い場所にあったのにね。
そう言って目を伏せる彼女の、目元を濡らす雫が、まるで涙みたいに見えて、そっと指の背で拭い取る。

彼女の、兄。
彼女が十五の時に死んだ、彼女の唯一。
私が彼女に出会う前に、彼女の全てを奪っていってしまった人。

頬をなぞる指先に、ぱちり、と一度目を瞬かせた彼女は、黒髪を掻き上げてやわらかく笑った。髪先からぽたりぽたりと雫が落ちて、その首元に筋を作る。
立たせて、と伸ばされた手を引き上げて、そのまま繋いだ手を引かれた。
「ね、もっと遠くまで行こう。もう制服も濡れちゃったし、せっかくだから」
制服なんてもっともらしい言い訳を並べて、そんなものを気にする気なんてないことはとっくに知っている。それでも、彼女がそれを望むから。悪い先輩に誑かされた、何も知らない後輩のフリをして頷いた。
手を引かれるまま、沖の方へと、深い方へと進んでいく。

もっと、ずっと遠くへ。
誰の声も届かない場所へ。

この小さな街で完結している世界を捨てて、二人で。

***

透き通る、幽玄の青。
波に逆らってここまで来た身体は、指先まで疲れ切っていて、ただ流れのままに揺らめいている。彼女と繋いだ右手だけが仄かな熱を持って、未だ生の証を刻んでいた。
くん、と引かれた右手に従えば、その先で彼女が悪戯げに笑っていて、それにつられるように口元が緩む。
もう片方の手もそっと繋いで、夏の喧騒に耳を澄ました。街から離れてしまえば、蝉の声はどこか遠くて、飽和した楽しげな人の声と大きなうねりを作る波の音が聞こえる。夏の鮮やかな情景を描いて、彼女の視線にうなずきを返す。
決して嫌いではなかったけれど、とうにあの街への未練なんかない。

額を合わせて、小さく笑って、混ざり合った吐息を吸って。
とぷんと、二人で海に沈んだ。


私の恋も、彼女の愛も、どうせ誰も認めはしない。
彼女が私に恋をすることはないし、私も彼女の最後を誰かにあげるつもりはない。
共に海に沈むことを愛と呼んだ私たちを、きっと誰も理解できない。
大人になれないまま、誰にも知られないまま、ふたりで夏の底に眠り続ける。
これは、彼女と私だけの「みひつのこい」なのだ。

瞳が熱くなって、涙が零れた。
浮かんだ雫が形を無くして、やがて母なる海へと溶けていく。
流れることのない涙を拭うように目尻をなぞる彼女に、触れるだけのキスをして、そして。


そうして最後、あなたの抱える深い罪悪を、私が食べてしまえればいいと思っていた。

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作者の感想・あとがき:

期末期間過ぎたら文体が変わっててすごく書きづらかったです。多分レポートのせい。真夏の仄暗い逃避行メリバイチャラブ百合(?)がかけたので満足です。

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