陽刺し /73作

ジャンル:ドラマ
形式:短編小説
制作期間:1週間

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朝露に濡れた地面は日の光を受け、空肌を映している。湿った土からは地下水の匂いが染みていた。土の中は暖かくも冷たく、生命の息吹を抱いている。夜中にはぼんやりとあたりを照らしていたナトリウムランプは交代を告げられたかのように力なく消えていき、影絵の如く佇むのみであった。目覚めた野鳥は口うるさく安否を問い、嘴で互いの頭を軽く突いては首を細かく振るった。彼らが羽に付いた雫を振るい落とすと、木の陰には小さな雨が降った。枝の付け根に隠れた雛鳥は、自らの羽に口先を仕舞っては目を閉じた。地平線は黒々と揺らめき、いつ明けても暮れても良いように太陽は地のブランケットを胴に置いている。お日様が二度寝するのだから、僕も二度寝していいよね。薄目で窓の外の風景を確認すると、布団に籠った少年は、自室のカーテンが既に開き窓枠に沿って結んであることに気が付いた。彼は日差しを受けつつ、夢の世界へ戻るため布団に潜った。
子涵ズーハン!起きなさい」
掠れた声が近づいてきたかと思えば、骨ばった指が布団を持ち上げ床に投げる。布団の埃か床の埃か、軽い落下音と共に粉塵が舞った。冷たい空気にさらされた内臓が痙攣を起こすように、子涵の全身にも鳥肌が立った。膝を抱えて大層迷惑そうに目頭に皺を寄せる。朝日が目に染みた。
「ほら、小麂キョンが遊びに来てるよ ご飯をあげなくていいのかい」
「…ほんと?」
使命感に駆られ、僕はやや汗臭いシーツから飛び起きる。羽毛が舞った。急に起き上がった僕を兄は予測していたようで、僕の寝巻の外れたボタンを留め直した。ベルトコンベアーで運ばれてきた人形に服を着せる作業と似ている。朦朧とした意識の中で僕は部屋の外へ向かって走り出した。勢いよく床を蹴ったせいで、家のどこかの腐った柱が変な音を立てた。
「ああ…廊下は走らない!」
歳をとったお爺さんのようなか細い叫びは耳に入らない。ただ走った。湿気の多い我が家の床は、幼子が転んでもミシと言う。僕は幼子ではないのでギイと言われた。でもたまには思い切り踏んでやらないと、床は調子に乗るのだ。この前なんか水を張ったバケツを置いたら床に穴が開いた。まったく甲斐性がないね。僕は床をさらに踏み込んでは、猪のようにキッチンの方に走って向かい、裏戸口のゴミ置き場から野菜くずの食べられそうなものを沢山拾い集めた。この辺りは一帯が農家なので、貰い物のピカピカな野菜たちも棚や台所のそこらから見つかる。形の悪いものを拝借した。これらはキョンの餌になるのだ。皺皺の寝巻の裾を袋のようにして野菜を抱えた。大急ぎで裏戸口から庭に回る。足裏の感触は、戸口のコンクリートから固い地面へ。そして段々に水を含んだ土へと変わった。僕は裸足だった。土の感触は柔らかく暖かい。足を振り下ろすたびに、土が跳ね上がり森の匂いが鼻の奥まで流れてきた。肺一杯に吸い込むと、肺胞が空気を漂う胞子と結びつくのが分かった。全身に酸素を巡らせて、まるで逃げる野犬のように地面を蹴った。いつのまにか、柔らかい大地は踏みしめられた獣道へと変わる。中くらいの背丈の木々が鬱蒼としていて、森の入口に到着したようだった。目を凝らした。濃い緑色の中には小さな階段群のような黄金のラインが天から降りている。木漏れ日だ。そしてそのラインを全身に浴びてもなお微動だにしない、小柄の輪郭を目の端でとらえた。それはすぐに焦点から外れる。鳥たちは歌い風は葉を擦らせて音を立てているというのに、静寂は依然としてそこに居た。凛とした静けさは土壌近くに溜まり、足どりを重くする。目元の筋肉に力を入れて、彼の姿を探した。静寂の中で、自分の呼吸だけはうるさく頭の中に響いた。子涵は慣れた様子で木の枝をかき分けて奥へ進んだ。枝が皮膚を霞めても、唾を付ければ治るのだ。別に薄着でも気に留めない。
「キョン~ おいで~」
僕は左手で野菜を抱え、右手は親指と人差し指の腹を擦らせてその動物を呼んだ。小麂とは、この地域一帯に生息している鹿の一種である。ごく稀に、人に慣れて姿を見せる個体がいるのだ。子涵は持ってきた野菜を傷つけないよう中腰になった。自然の領域に踏み込み、神秘を一目見ようと目を凝らすことはなんと心躍るのだろう。キョンの毛皮の初々しい香りは、ナメクジが這った後のように空気に残っていた。跡を辿っていく。ぐいっ…と、突然後ろから強く引っ張られた。耐えられず地面に尻餅をつくと、獣道は硬いため尻の骨が痛くなった。ザラザラとした唇が腰の辺りを舐めたかと思えば寝巻を食む。寝巻の裾に包まれた野菜くずにはまだ気づいていないらしい。大層腹が減っているのだろう。寝巻に吸い付く力が強く、子涵はしばらく身動きが取れなかった。
「おい!それ俺のパジャマ!!お前はこっち!」
涎でべとべとになった裾を取り戻しつつ、奴の口元に野菜の根っこを押しつけるとあっという間に咀嚼し消えてしまった。野菜を差し出しては、平坦な歯の奥に吸い込まれる。食べる勢いに押され、餌やりを繰り返した。草食動物特有の葉をすりつぶす振動が、差し出した野菜の茎越しに伝わった。餌を咀嚼している間は、四つ足の可愛らしい蹄を眺めることが出来るのだ。森に足を踏み入れた者の特権である。キョンは子涵の周りに足跡を残し、一種のミステリーサークルのようになっていた。最後の1かけらを食べ終わると、キョンは不服そうにこちらを見つめた。鼻息は小柄ながら力強く、僕の前髪を吹き飛ばした。黒々とした瞳に木漏れ日が溶け込むのはいつ見ても美しかった。
「もうないよ …ないけど帰ってほしくないな」
小さな獣の頬を掻く。先ほどのガツガツとした食欲が嘘のように大人しく触られているキョンは、何とも間抜けな顔であった。寝ぐせなのか、後頭部当たりの毛が跳ねている。寝ぐせがあるなんて!四目鹿でも頭を下にして寝ることがあるんだな。新芽のような跳ねっ毛を撫でつける。そして子涵は同様に己の頭を掻こうと指を伸ばすと、自分の髪も酷く跳ねていることに気が付いた。自分も間抜けだった。自分の寝ぐせをキョンに見せないように首を固定する。僕がキョンを間抜けだと思っているということは、キョンも僕のことを間抜けだと思うのだろう。
「俺が餌を沢山あげるから、他の畑は荒らしちゃだめだよ」
キョンの固い毛で覆われた弓なりの背中をポポンと叩くと、休めていた後ろ足が立ち上がる。用事が済んだのだろう、その獣はゆっくりとした足取りで再び獣道を逆戻りして行った。時々振り返るのは、僕からまだ野菜の新鮮な匂いがしているからだろうと思った。小さな鼻をヒクつかせ、人を読み取っているようだった。僕は寂しい気持ちである。あの子が森の奥へ帰ってしまうのはいつも胸が少し締め付けられた。明日の朝にはもう来なくなってしまうかもしれない。四足動物の気まぐれは彼らにとって生命線である。ただ、それを正面から受け止められるほど僕は成熟してはいなかった。彼らへの情は、愛玩のそれと似ていた。キョンの小さい背中が見えなくなるまで、僕はその場を動かなかった。網膜に何度もその光景を焼き付けては、また明日も彼の気まぐれが僕に向くことを願っていた。


 「どうだった?小鹿ちゃんには会えたかな」
家に戻ると、兄がお茶を飲んでいる。朝に無理やり布団を剥がした主もこの兄であった。やせこけた頬に脂肪のほとんどついていない指。窶れた身なりから想像するのは老父である。実年齢よりもかなり老けた相貌であるために、彼に近づこうとする同年代の若者はいなかった。子涵は元気よく返事をする。
「会えたよ!今日は寝ぐせがあったんだ。俺とおんなじ寝ぐせがあった!」
「へぇ。珍しいな」
兄さんは震える指を抑えるように自分の手を握り、穏やかな笑顔を浮かべる。彼の笑顔だけは、僕の心を軽くした。そう、まるで砂糖が沢山使われたプルプルなゼリーのようにね!
「俺は任務を果たしたんだ!キョンに餌をあげるという任務をね!」
昨日壊れかけのテレビから得た知恵を意気揚々と披露したが、なんのことやらと言葉の意味が理解できない兄さんであった。素敵な笑顔がへのへのもへじになる。
「…うん、スパイ映画は面白かった?」
「めちゃ!」
僕は全力の笑顔で答えた。
「ああ…
そういえば、一報あった。だいぶ前に叔父さんが死んだそうだ」
「叔父さん?誰だっけ」
「ほら、あの、よく鶏肉を食べてた…背の高い人いただろう。」
「あぁ~」
生半可な返事をしつつ、原始的な調理場に向かい適当に人参を洗って齧る。これが僕にとっての朝食であった。ざくざくとした食感は空腹を紛らわせた。腹の真ん中から地響きのように体を貫く音は、決して腹が空っぽなのではなく、生きている証である。兄さんが曇った眼鏡越しに僕の方を見た。
「腹が減っているなら、鳥皮を焼く。食べなさい」
「いらないよ 鳥は血生臭くて好きになれない!兄さんこそ、栄養付けないとまた倒れるよ」
椅子から立ち上がろうとする兄を制止し、昨晩作った御粥と生卵を目の前に置いた。背が高い割には筋肉も脂肪もついていない人間の行動を支配するのは、低身長の僕ですら容易であった。鞄を持っただけでも折れそうなくらいに細い手首を見ていると、僕は今にも窓から飛び出してしまいそうだ。お米は全部兄さんのためのものである。彼は何も言わずに申し訳なさそうな視線を向けた。僕は見て見ぬふりをする。
「大好きだよ兄貴。じゃあ俺里のみんなと畑仕事してるから、何かあったらこのボタンを押してね」
いつものように黄ばんだリモコンを渡した。このリモコンは家の屋根に無理やり取り付けた古いサイレンのスイッチであり、人里へ向けて聞こえるようになっている。災難にも、我々の居住は山の中腹部。隣人はいない。緊急時の命綱だ。
「できたら、迎えに行くから…」
「ダメ!転んだら大変!待ってて、自分で帰れる」
僕は急いで身支度を整えると、振り返らずに家を出た。山を駆け下りている間も、一度も振り返ることは無かった。



日没。日がタールのような地平線へとゆっくり飲み込まれていく時間。人里の農民やその子供たちは、各々帰路についている。泥まみれの足を重くして、穏やかな夜を過ごそうと光ある家へと向かうのだ。人里の家に灯る火はかつての人類の繁栄からは程遠いものであったが、牧歌的な温かさは残っている。里の道にはあらかじめ設置されたナトリウムランプが再び元気を取り戻し始めた。そして一人、橙の明かりを背に山を登る者がいた。影が濃く彼の顔面を覆いつくしている。彼の足も同様に泥で汚れていた。山の斜面を牛歩に登っている。その足取りは重く、地響きのような音は彼の内臓からサイレンのように鳴っていた。背骨が深々と曲がり、まるで老父のようであった。手には血豆のような腫物と、既に潰れた跡が残っていた。彼の向かう先はどこでもなかった。やがて山道の分岐点に差し掛かると、彼は自然と左へ曲がった。立てかけられた看板の文字は既に薄れて読むことが出来ない。彼は足だけを懸命に動かして歩き続けた。心臓が肋骨に当たるのではないかと思うほど血圧は増し、彼の疲労は絶頂であった。痛みはない。突き当りには不自然に開けた広場があった。石の板が所々に立っている。彼は無意識に地面を掘った。素手で何度も固い地面を掘った。次第に全身の動きは勢いを増し、掘らなければ死んでしまうのではないかと思うほどに掘り続けた。指の爪が剝がれても、相変わらず痛みはなかった。既に全身は泥だらけであった。ふと気が付くと、地面の中に固いものがある。加工品の感触である。構わず掘った。次第にそれは長方形の箱であることが分かった。箱は黒塗りにされてはいるものの、安物の板であったために既に角が虫に食われて取れていた。土葬である。蓋が釘で打ち込まれていたが、剥がすのに何の苦労もなかった。木の蓋をこじ開ける代償として、右手を失った。剥き出しの橈骨と尺骨はハンマーの役割をした。眠る肉塊は厄介であった。肉は臭かった。異臭だ。変色している。細かい白い粒が彼方此方に群がっていた。残された卵の殻と、そこから生まれたのであろう不気味な虫の屍骸が蓋の裏にこびり着いていた。しかし、それらの惨状は貪る彼を止める要因にはなりえなかった。既に日は沈み、山に灯りは無い。我武者羅に腐った肉塊を嚙み砕いては溢れる汁を飲み干した。静かに空腹の癒しを待つ彼を咎める者は誰もいなかった。


「ただいま!」
元気よく帰ってきた声を聞きつけて、兄が玄関へ顔を出す。一声かけようとした時、奇麗好きの彼は目を見開いた。
「ちょ…と派手に転びまして」
申し訳なさげに手を合わせて兄を見上げる子涵の衣類は…信じたくないほど泥だらけであった。逆に汚れていない布の面積を探すのが難しいくらいである。玄関はまるで養豚場のようだった。キョンの足跡と服から垂れた泥で滅茶苦茶だった。幸い山道は舗装されていないため、道を掃除する必要はなさそうだ。それでも兄にとっては絶望としか言いようのない有様であった。
「子涵…動いちゃだめだ。今、そこで、服を全部脱ぎなさい、脱いだ服は外に投げて」
「外に投げていいの!?最高!」
「あまり遠くに投げないように。明日拾って洗濯します」
「なるほど!」
僕は金魚すくいをするようにそーっと服を脱いでは、玄関の外に放り投げた。泥付きの重みのある服は、そう遠くは飛ばなかった。下着の中まで泥が入り込み、服を脱いだとしても床を汚すのは確実だと悟った。
「よし……せーので私の背中に乗りなさい」
「え、どゆこと」
「おぶってやるってこと…今日は床を拭いたばかりなんだ」
「えー…兄さん骨折らない?大丈夫?」
「何言ってんだ。お前が小さい頃はこんな事ばかりだったんだぞ」
固い意志の兄さんの目は本気だった。僕は若干心配であったが、他に策もない。
「せーの」
「せ!」
あまり体重をかけすぎないようにしながら、兄さんの骨ばった背に身を預ける。紙飛行機に乗った小鳥のような気持ちだった。左右に振れているが、確実に前には進んでいるので及第点である。兄さんがんばれ!心の中で呪文のように唱える。古い家で狭い間取りなのが幸いし、10歩以下で風呂場まで到着した。浴室のコンクリートに足を付け、兄さんから離れる。さぞ大変な労力だっただろう。骸骨のような肩が舟を漕ぐように上下し、ヒュウと苦しそうに息を吸った。僕は無事床を汚すことなく全身を洗うことが出来そうだ。
「兄さんごめんね」
「だ…大丈夫だ……早く……泥…流しなさい」
「イ、イエッサー」
控えめに戸を閉め、湯船のお湯で足や腕に付着した汚れを擦った。幸いなことに、お湯を焚くためにガスは使えるのである。昔この辺りでダムがあったらしく、その職員達のために山奥にもガスを引いたそうだ。その恩恵を肌で感じた。兄さんはしばらく息を整えるため、その場から動いてないらしい。
「そういえば…今日の夕飯」
「ああ、俺要らないよ お腹減ってない 兄さんいっぱい食べなよ」
呼吸が次第に沈静化し、兄は普段の調子を取り戻したようだった。
「鶏肉だ。叔母さんが持ってきてくださったんだ。折角だし」
「鳥?」
普段なら吐き気が込み上げてくる筈が、今日は疲れているのか唾液が出た。鳥なんぞ何年も口にしていない。しかしなぜか口の中に香ばしい香りが広がる。味蕾に刻まれた味のようだった。舌舐めずりをする。ふと、唇の端に土の塊のようなものが付着していることに気が付いた。舌では取れない。石鹸の付いた指で擦った。瘡蓋が取れたかと思うほど奇麗に剥がれたそれは、黒く変色した皮のようだった。何の気なしに口へ入れた。ガムのように噛む。
「ちょっとだけ食べてみようかな」
「おお!珍しい。分かった準備しておくよ」
兄さんは嬉しそうに返事をすると、パタパタと軽い音を立てながら離れていく。湯気はみるみるうちに浴室を満たしては、窓の隙間から外へ逃げていった。一通り体を洗い終わると湯船につかる。頭の先までお湯につけ、体の芯から温まるのを感じた。肺をお湯が満たしても息苦しさは不思議と無いのだ。かすかな野犬の遠吠え以外何も聞こえない湯船に全身を収め、肺胞と水中のバクテリアが結びつくのを感じた。夏の暑さも衰え、涼しい風が湯気とすれ違いに流れ込んだ。


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作者の感想・あとがき
 私が常々騒いでいる一次創作シリーズ「Losers’ Heaven」の過去編的な短編です。晩夏と言えば自然でしょ!という心になったので、動物と戯れる少年を書きました!ちょっとだけ不穏ですが、私はシリアスな場面を描写するのが苦手なのであんまり暗くなってないな~と思います。自然の描写をもっと凝りたいです…語彙力を身に着けたい。

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