「黒歴史」に学ぶ
「黒歴史」と呼ばれるものがある。
それが何を指すかは人によるのだろうけれど、学生時代の日記だったり、自分に酔ったポエムだったり、元恋人にやってしまったあまりにデレデレすぎる態度だったり……その時は良かれと思ったのに、後々考えるととんでもなく痛々しかったことに対してこう表現することが多い。
恐らく、大多数の人が何かしら持ち合わせているだろう。
私も例に漏れず、大きなところだと、某有名漫画作品の二次創作小説を友人たちにメールで配信するという暴挙に出たことなんかがある。
あんな拙く突飛で破綻した文章によく文句が出なかったものだ。付き合ってくれてありがとう、優しい友人たち……。
さてそんな黒歴史、思い返せば当然恥ずかしい。
私も友人各位には是非記憶から消していただきたいと常日頃思うところではあるけれども、実際のところ、当時は私も楽しくやっていたわけだし、酒の席でのネタにもなるし、一概に悪いことだったとは思っていない。
それよりも、黒歴史が一つもないと自称する人の方がよっぽど恐ろしい。
今までひとりだけそういう方に出会ったことがあるのだけれど、とにかく自信満々な方だった。それは良いのだ。自己肯定感の高いのは良い事だし、その点に関しては見習うべきとも考えている。
問題はその自信が……言葉を選ぶが、少々行き過ぎてしまっていた、というところにある。
その方はこんなことを仰っていた。
過去に努力した全てが今の自分を作った。
これまでした発言、残した文章、やってきたことは全て必要なことで、恥ずかしがるべき過去なんてない。
過去を恥ずかしがるやつは努力をしてこなかったか、何をしてもダメな本物の無能かで、可哀想だ。
……と、このような趣旨のお話だ。
過去が今を作るというのはその通りだと思う。無駄な経験なんてないという点にも同意する。
その方が努力家であることは事実だった。けれど、圧倒的に欠けているものがあると私は思う。
反省だ。その方は行動こそすれ、さてどうだったか、と省みることをしないのだ。
酒を飲めば説教混じりの自慢話を始めるその方のことが、私は大変に苦手であった。
当時は「小うるさくて嫌だ」くらいに思っていたけれど、今考えてみると、過去は全て大事で恥ずかしがるなという割に、自身の失敗を棚に上げて他人を貶したり、良い評価を得た時の話ばかりをするのが、どうしても納得いかなかったのだ。
もう関わりはなくなってしまったけれど、他者からの注意や助言も何処吹く風、自分の思うままに仕事をされる方だった。よって徐々に任される仕事は減り、席も端へ寄り、なかなか不遇な扱いをされるに至ってしまっていたのを覚えている。
幸か不幸か、本人は気づいてないようだったけれども。
愚痴のようになってしまった。何も私はその方を悪く言いたいのではない。
個人的にその方との交流は苦痛であったけれど、やはり経験は全て自分の身になるもの。その方と出会ったことで、私は黒歴史……というよりも、自己批判の重要性を思い知った。
過去の過ちを認められないままいると、認めるその日までずっと、似たようなことをやらかし続けると気付かされたわけだ。
できれば黒歴史など増えないに越したことはないが、生きている以上失敗もすれば、もしかするとこの文章さえ未来の私が「反省点」と定義する日が来るかもしれない。
これが黒歴史と化すその日が来たら、未来の私におかれましては、「あの頃はこんなふうに考えていたのか」と鼻で笑って、話の種にでもしていただきたい。