「#13」終わりのない心の傷を癒す
みなさま、まこんにちは。カンボジアシアヌークビル在住のそくあんです。
前回のあらすじはこちら。
居場所を求めて
県営住宅で新たな生活が始まり、私は2年生に進級し転校生として学校に通うことになりました。「外国人がきたぞー」とクラス中がざわざわしています。幸いにも日本語ができたのか、そうでないのか、記憶にないのですが会話は自然にできていたと思います。
モノづくりが好きで図工クラブのお友達もできたりと。それなりに楽しい小学校生活を送っていましたが、高学年になるにつれてクラスの男子から心ない言葉を言われる機会が増えてきました。
「臭い、汚い、黒い、ばい菌、近寄るな」という決まったセリフで私の胸は痛み、悲しい気持ちになっていました。
誰がどう言ったかまでは記憶から消えているようです。
というより、嫌な記憶は自ら蓋をして思い出さないように本能がそうしているのかもしれません。
彼らに悪意があるわけではないのでしょうが、それでも私は言われた言葉の傷を心にずっと負っていますし、大人になってもふとした瞬間に思い出すときがあります。
言い返すこともできず、ただただ、自分の中に溜め込むばかりでした。
もっと私が強ければ言い返せたのでしょうね。
一人で抱え込む
他の家庭では、学校の出来事や友達との交流、夕食の時などに親子で話し合う機会や政治、人生の知恵も教えられたりするかもしれません。しかし、私の両親は日本語を理解することも話すことも難しく、仕事と家の往復で疲労しきった両親には解決の手助けを求めることができませんでした。子どもであっても全てを一人で抱え込み、解決する方法を見つけるしかありません。
肌の黒さに悩み、大きな鼻と口、大きな目だけはちょっぴり好きでしたが、鏡を見る度にどうして自分が日本人ではないのか、そんなことを悔むばかり。。
両親に対しても嫌悪感を抱くようになりました。両親は日本社会の構図を理解していないため、伝えても解決することは難しいだろうと思いましたから話すこと一切ありませんでした。
それによって、一つ一つの問題を解決していくために、自分自身で責任を持ち、誰にも相談することなく、問題解決していくしか方法はありませんでした。学校のプリントや書類の記入、入国管理局のビザ更新、市役所の手続きなど、幼いながらも全てを一人でこなすようになりました。
娘の役割だと思っていましたが、次第に両親が全ての責任を押しつけてくることに対して徐々に嫌悪感を抱き、小さな反発をするようになりました。
「親なんだからそれくらいできるでしょ!」、「なんで日本語を勉強しないの?自分で調べてよ!」といった言葉が口から出てきましたが、自分勝手な行動だとわかり、最低な娘だと自責の念に駆られました。
居場所のない私の小さな反抗期
月日が経ちます。
小学校から高校生まで部活に夢中でいつしか家族との時間が減り、すれ違いが生じることに気づきます。
私たち難民の家族は祖父母も、頼る親族もおらず経済的な余裕が全くありませんでしたから、学校用品はもちろん、どんな小さな出費も家計の負担でした。
両親は「プロになるわけでもない。部活は意味がない。お金がかかりすぎる」と言っていました。これが両親の本音だと知り、悲しい気持ちになったのをいまでも覚えてます。
たぶん親は言ったことを覚えていないと思います。
物理的に家族はいても私には居場所がなかったことを感じてしまったのです。しかし、親は知りません。誰も子の胸の内を知りません。
部活の友達と過ごす時間は、私にとって安らぎの場所でもありました。有名になるわけでもないけれど、部活を通じて小さな社会を学び、経験として自分自身を成長させることができると思っていました。しかし、両親にはそれを理解してもらえませんでしたね。
大きな反抗期はなかったけれど、小さな反抗期がいつも沸き上がり、葛藤の毎日でした。
複雑な家族関係と葛藤
母親は人を馬鹿にすることはしませんが、私が何をしてもどんな事を達成しても褒めたり、肯定することは一切なかった。母は毎日大声で話し、顔を見ればいつも不機嫌そうな顔をしていました。なぜかは分からないけど性格のせいでしょう。
私はいつも怒られていると思い、母親の声を聞くたびに心が恐怖に震えました。
「わかってる。知っている。母は耳が聞こえないから仕方ない」と自分に言い聞かせました。押し込めた感情をどこにも発散することはなく、毎日苦しくて心の中で泣き崩れてました。
次第に母への愛情は薄れていきます。
しかし、母は悪くはありません。ただ耳が聞こえないだけで、普通に話しているだけです。母は悪くないのです。そう自分に言い聞かせるたび、私は自問自答しました。
一緒に過ごす時間が長ければ長いほど、私はいつか親元を離れたいという強い思いが芽生え18歳の時に1人暮らしをしてみました。
自分自身が実親に対してどう思っているのかわからない感情。
自分を責め続ける日々でした。
私は母に認められたいし、褒められたい。
「母に愛されているという確かな証を言葉で伝えて欲しかったのです。
「ア・イ・シ・テ・ル」という一言がただ欲しかっただけなのかもしれません。心に開いた穴はいつまでも埋まりませんでした。」
毎日、家族のために一生懸命働き、兄弟を自転車で保育園に送り届け、美味しいご飯やお菓子を作り、多忙な日でも料理に手を抜きませんでした。
ケチなことはしませんし、人が喜ぶ姿を見ることで幸せを感じる人でした。
週末には家族で川へBBQに行きましたし、公園にもよく行った想い出があります。
なのに母親にたいして愛情を持てずに過ごした青春時代でした。
ここまで育ててくれたのにどうして愛情を感じれずにいたのだろう、
この自問自答というのは永遠に続いていまして、
答えがでないままに突然ある日、母親はこの世を去ります。
話を割愛してしまいますが、次章は母親の死についてふれます。
最後までお読みいただきありがとうございます☺
SOKOEUN