
自分を突き動かす衝動をみつけよう | 哲学書の実践
先日『人生のレールを外れる衝動のみつけかた』という哲学書を読み、感想を書きました。
今回は具体的に自分の偏愛や衝動について考えてみました。いわば実践編です。
偏愛と衝動の関係についておさらいしましょう。
個人的でものすごく偏った好みである偏愛に、衝動を見つけるとっかかりがあります。偏愛を適切に言語化する──細かく詳しく語る──こと、そして、言語化された偏愛をほどほどに一般化すること。そうして偏愛を解きほぐすことで、自分の衝動が進む方向性を「これ」と言い当てられるわけです。
自分の偏愛を探るには、自分を丁重に扱いながら、セルフインタビューで多角的な質問を投げかけるのがよいという話でした。大筋のみならず、細部にも目を向けながら。
ちなみに私は陽当たりのいい小さなカフェでノートを開いてセルフインタビューに取りかかったのですが、となりに初デートを失敗しかけているカップルがいて、集中できなかったので帰宅しました。幸あれ。
そして最近疲れていて趣味とかあんまりないなと思ったので、手始めに子どものころ好きだったものについて考えてみることにしました。
好きなこと①翻訳
高校生のころは翻訳にハマっていました。英語の児童書を和訳したり、韓国語の歌詞を英訳したり。Kpopが好きだったのですが、韓国語楽曲の日本語バージョンを自分で作ってみたり。韓国語の歌詞をいったん和訳して、その意味を保ちつつも、音数に合わせてちゃんと歌えるように日本語の歌詞を作る遊びです。
ここでのポイントは、翻訳の対象は自分が好きな作品に限っていたことでした。つまらないものとか価値がないと感じたものは、翻訳しようと思わない。だから正確には、翻訳自体が好きだったわけではないということなのだと思います。その証拠と言っていいのか、実務翻訳者を志したこともあったのですが、いろいろと苦痛で挫折しました。
やっていたことは翻訳だけど、楽しんでいたのは翻訳自体ではない。これを上手く言語化できれば、偏愛になりそうです。
翻訳を遊びでやっていたときに、「テクストを自分のものにしたい」という感覚があったのは覚えています。好きな世界観やストーリー、感情の在り方を、自分の言葉で語り直したい、みたいな……。なんだろう、上手く言えない。
人に読んでほしい気持ちはありませんでした。ただ自分がやりたいからやるだけ。翻訳家って自分の好きな作品をもっと多くの人に広めたいという志を持っている方が多いのかなと思うのですが、そういう感情はまったくなかった。むしろ英語の本はみんなが英語を読めるようになって読んだらいいと思っていました。
どの言語がとくに好きとかもなかった。むしろもし能力が追いつけば、もっとたくさんの言語でやってみたかった。そう思うと言語間の表現方法の違いも楽しんでいたのかもしれません。言語の背景にある文化や歴史などにはそこまで興味がなかったようです。
好きなKpopアイドルの新曲が出ると、まずディクテーションして、それから翻訳作業を行っていました。こだわりは辞書を極力見ないことと、完成するまでほかの人の和訳は見ないこと。わからない部分はわからないままにしておく。テクストにダイレクトに飛び込み、どんどん自分なりの言葉に置き換えていくのが好きだったのかも。
自分の翻訳の文法が正しいのか、自然な表現なのかは気になっていました。でもそれほど重大な問題でもなかった。数年後の成長した自分に添削してもらえればいいやと思っていました。
そして翻訳しおえたらそれで終わりでした。ノートに丁寧に記録を取るなどはしませんでした。今は手元にまったく残っていません。残っていたらおもしろかったのにな。だからテクストを自分のものにしたいという私が抱いていた感覚は、「自分の言葉に置き換えてそれを抱いて生きていく」ことをきっと指さない。自分の言葉に置き換えたその瞬間にもう夢が叶っているのです。
ここで言う自分の言葉は、もちろん自分の母語という意味ではありません(英訳や韓国語訳も楽しんでいたため)。だから、「自分なりの表現方法」というほうが正確でしょうか。
以上を踏まえ、好きなこと(≒雑な理解の偏愛)を偏愛に変換してみます。
翻訳が好き→言葉で表された自分好みの世界観やストーリー、感情の在り方などを、自分なりの言葉に表現しなおすことが好き
……これで合ってるのかな……? これだと日本語から日本語への翻訳もいけることになるな。それはさすがにしてない笑 なぜ外国語だったのかの検討が足りないのか。
考えてみれば、日本語に訳すよりも、英語や韓国語に訳すほうが好きでした。日本語に訳すなら、歌の音数に合わせて意訳する作業が好きだった。だから、自分の日常の言葉ではない言葉に直すのが好きだったと言えるのかな。
言い直します。
多様な言葉で表された自分好みの世界観やストーリー、感情の在り方などを、非日常の言葉に自分なりに表現しなおすこと
これ、人には伝わらなさそうだけど、近いかも。実感に近い気がします。
好きなこと②百人一首
ほかにも偏愛を見つけてみましょう。私は小6から百人一首にハマり、百首暗誦できるタイプの中学生になりました。このときのことを振り返ります。
まず、正直和歌の意味はよくわかっていなかった。調べようとも思いませんでした。知ればそれはそれでおもしろいけど。どの和歌はだれが読んでとかの情報も興味がなかった。ただひたすら唱えたかった。たぶん、寿限無みたいな感じですよね。音の響きでなんか楽しいねみたいな軽いノリです。「じゅげむじゅげむ、かけじやそでのぬれもこそすれ笑」みたいな……。
百人一首大会にも興味はありませんでした。そもそもなんで競技になっちゃうのか意味がわからなかった。シュールでした。
学校で教えられる百人一首の語呂合わせには反感を抱いていました。一字決まりを覚えようとか言って、「むらさめのつゆもまだひぬまきのはにきりたちのぼるあきのゆふぐれ」を「むらきり」だけ覚えるみたいなやつです。せっかく人が作った詩を、しかもせっかく数百年も受け継がれてきたものを、「むらきり」だなんて。冒涜にもほどがある。あともうそれならいっそ百人一首じゃなくていい。「お、鬼に金棒」とかのかるたをやればいい、「鬼カナ」とかの覚え方で。(恋⭐︎カナみたい)
「むらきり」とだけ覚えて済ませる人と、意味もわからず丸暗記してるだけの私は、両方とも「もうそれ百人一首じゃなくていいだろ」と言えそうです。でも私はそうは思っていませんでした。詩の固有性は内容のみにあるのではなく、かたちにもあるからです。というかかたちにしかない場合すらあると思う。
なにかを覚えるのが好きというわけでもないと思います。ポケモンの名前や元素記号や円周率などは、興味がなくて覚えようと思いませんでした。詩の言葉に興味があったのだと思います。翻訳のときと同じかもしれません。自分の日常語ではない言語に興味があるのかもしれない。まあ、ポケモンの名前や元素記号や円周率なども日常語ではないけど……。
いや、日常語かもしれない。切り分ける言語↔︎境目を曖昧にする言語。ポケモンの名前や元素記号や円周率は前者、文学は後者。もう人に伝えることを完全に諦めているけど、自分の中ではそうなんだということで話を進める。
以上を踏まえ、好きなこと(≒雑な理解の偏愛)を偏愛に変換します。
百人一首が好き→自分の日常語ではない言葉の音の響きを楽しみ、自分の中に取り込むことが好き
今回見つけた偏愛をまとめます。
・言葉で表された自分好みの世界観やストーリー、感情の在り方などを、自分なりの言葉に表現しなおすことが好き
・自分の日常語ではない言葉の音の響きを楽しみ、自分の中に取り込むことが好き
これをほどほどに一般化したのが衝動……のはずだけど、むずかしい。好きなことを抽象化しすぎたのかな、これがもう衝動?
前者が具体的な行動になったら、「小説の感想をnoteに書く」とかも言えそうだ。後者はもうふつうに読書。
小学生のころ跳び箱の授業で、勢いよく跳びすぎて跳び箱に手をつかずにそのまま越えてしまい、顔からマットに落ちたことがある。
今それを思い出した。
この本の趣旨からずれていたら申し訳ない!
いいなと思ったら応援しよう!
