PKっていろんな意味で忘れられないのです
サッカーW杯カタール大会2022の日本代表のベスト8への旅は終わってしまいました。
2010年の南アフリカ大会以来のPK戦負け。
1対1(PK1−3)。
PK戦では、片っ端から止められ
悲鳴とともに、
「なんでやねん!」
というツッコミが日本中で沸き起こっていたと思います。
しかし、あのスペインですら、モロッコとのPK戦で、一本も決まらず
0−3で敗退。
あのスーパースター、ブスケツですら、PKを止められました。
GKがすごいのか、キッカーが会場の雰囲気に飲まれたのかは定かではありません。
モロッコの最後のキッカーなんか、キーパーを先に動かせて、余裕のど真ん中。
どんだけ、リラックスしてるの!うますぎるやろ!!
ハイライト動画を見て叫んでしまいました。
日本代表や、スペイン代表のPKが、まるでうちの中学生のPK戦を思わせるほどの失敗を連発。
国を背負うプレッシャーなのか。
トップの選手がそれだけ緊張するほどの極限の状況にあるのがW杯の大舞台。
そんなことを感じながら、サッカーに携わってきた自分とPKの思い出を振り返ってみました。
自分のPKが決勝点に!
私の40年を超えるサッカーの歴史の中で、唯一誇れる成功は、高校3年の高体連地区代表決定戦の決勝点となったPKを決めたことです。
これが私の人生におけるPKの思い出の頂点です!
このPK戦によって勝利を掴んだ我がチームは、決勝でもまさかのシュート3本で2得点。(相手は20本以上のシュート数)
2−1で宿敵の工業高校を下し、優勝!
13年連続で全道大会に駒を進めることができました。(これ以降は暗黒の歴史です😅)
相手チームは、羽幌高校。
にわかに強くなって、勝ち上がってきた学校です。
それもそのはず。
監督は、現コンサドーレ札幌の『トップチームアカデミーコーディネーター』の小山哲司さん。
小山さんの経歴をあらためて眺めてみると、すごい方である!
ということを今更ながら感じています。
しかし、当時18歳の高校生の私にとって、小山さんは、赤いスポーツカーで颯爽とピッチに現れる、若手バリバリの先生で、旭川選抜のコーチとして、わたしたちを指導してくださった先生。
そんな印象を持っていました。
その風貌が『ジャッキーチェン』のようだったので、「ジャッキー先生」と密かに呼んでいましたことも懐かしい想い出です。
小山さんが赴任するまでは、弱小だった羽幌高校のイメージがいっぺん。
いざ戦ってみると、強い!
というか、私達が、はっきり言って弱かったんです。
公立高校でありながら、全国大会にも出場し、12年連続で全道大会に駒を進めている地区の強豪校ではありました。
しかし、私が3年生でキャプテンを務めた代は、史上最弱世代と言われ、連続出場記録が途絶えるだろうとOB達から囁かれていた代だったのです。
本来なら、この代表決定戦には、現在は北海道を代表する強豪校の旭川実業と対戦するはずでした。
この実業とは、私の代になってから、春の大会、練習試合と一度も勝つことができませんでした。
その実業を破ってくれた羽幌高校には
「ナイス!羽幌高校!」
とチームメイトと喜びあったことが思い出されます。
しかし、そんなふわふわした気持ちは、試合開始と共に焦りに変わっていきます。
羽幌高校は「強かった」んです。
まあ、当たり前ですよね。
うちらが勝てなかった実業を倒しているのですから。
「やばい、得点を取れる気がしない」
0対0のこう着状態が続きます。
このままではPK戦になってしまう。
それは避けたかった。
何せ、私達はPKが下手だったんです。
PK戦の練習をやっても、毎回平均2、3人しかPKが決まらないんです。
GKが止めるのではなく、そもそも枠を外すんです。
全員が外すこともザラにあり、そんな時は監督は、ブツブツと言いながら、体育教官室に帰ってしまい、なんとも重苦しい雰囲気で練習が終わるのでした。
そんな思いがよぎる流れの中で、残り時間5分のところで、相手がペナルティーエリア内でハンドの反則。
「やった!PKだ!」
「これで勝てる!」
誰もがそう確信。
しかし、次の瞬間
「で、誰が蹴る?」
と互いに顔を見合わせたんです。
「ここはキャプテンの出番だろ!」
周りは、ここぞとばかりに「キャプテン」である私にボールを手渡します。
仕方がないので、私がボールをペナルティースポットに置きます。
GKと目は合わせません。ここも駆け引きです。
フェイントをかける技術も度胸もないので、狙ったコースを思いっきり蹴ることに集中です。
右斜め45度から、
タ、タ、タタタタ
ズバン!
と左足でのインステップで蹴ったシュートが右隅に突き刺さるイメージだったのが、実際には、
『ぱすん』とボールをとらえきれずのミスキック。
ジャストミートしきれず、アウトサイドにかかったキックミスで、ボールはゴールのほぼ真ん中へ。
しかし、それが功を奏したのか、GKは当初私が狙っていたコースへ思いっきりとんでいて、結果として逆をついた形になったんですよ。
内心はヒヤヒヤながら、ドヤ顔でガッツポーズ!
私のPKが決勝点となり、13年連続の全道大会出場を決めたんです!
公式戦全敗の黒歴史
私の輝かしいPKの歴史は、高校3年生で終わりです。
その後大学、社会人とシニアと現在もサッカーを続けていますが、公式戦におけるPK決定率は0%。
どうやっても、入る気がしませんでした。
練習もたくさんしましたが、自分が蹴らないことがPK戦の勝率を上げる一番の近道であることを悟りました。
ただ、PK戦って両チーム5人ずつが蹴り合うのですが、それでも決着がつかなかったら、決着がつくまで、いわゆる『サドンデス』と言われるように一人ずつ蹴り合うんです。
最初の5人には、どうか選ばないでくれ!と自分の黒歴史をチームメイト、チームスタッフに訴えるのですが、サドンデスは決まるまでどんどん順番がまわってきます。
しかも、全国大会への出場権を決める大事な大事な代表決定戦でのPK戦でサドンデス突入。
どちらも譲らず、5人決まらず。
「おいおい、早く決めてくれよ」
祈るような気持ちでセンターサークルで座っている私。
ついに、私の隣の人がキッカーに。
もし、彼で決まらなかったら、次は私。
確か、私がラストキッカーだったと思います。
「やめて、俺に回ったら、俺が外して負けるから!」
幸いにも、彼が蹴って、相手が外して、無事勝利!
めでたく全国大会に駒を進めることができたのです。(27歳、教員選手権)
今ならPK戦蹴れるかも(知らんけど)
大の苦手のPK(戦)。
しかし、指導者として、GK練習の一環としてたくさんのシュートを蹴っているうちに、GKのタイミングを外すシュートを蹴れるようになったんです。
左利きの私が、右斜め45度から思いっきり軸足の爪先をゴール右隅に向けて、左隅にシュートを蹴ることができるようになりました。
駆け引きは相変わらずできません。
でもこのモーションで蹴るとGKは思わず右にくると思い、つい重心移動してしまうのだそうです。
だからコースが甘くてもGKは動けないのです。
そんな私が非公式ではありますが、社会人サッカー以来の30年ぶりにPK戦を蹴ることになったのです。
JFA B級コーチ養成講習会でまさかのPK戦ラストキッカーを拝命
52歳の時に、縁あってJFAのB級コーチ養成講習会を受講した時のことです。
受講生同士で紅白戦をやったんです。
私はチームの年長者だったので、監督となりました。
その権限を活かし、できるだけ疲れないよう、プレーする時間を少なくする作戦をとったんです。
スコアは忘れましたが、引き分けで終わったんです。
そしたら、受講生たちは
「PK戦で決着をつけよう」
って言い出すんです。
「おいおい引き分けでいいじゃん!PK戦は嫌だよ」
心がざわざわしました。
当然キッカーにはなりません。
しかし、5人で決まらず、サドンデスに。
すると、
6人目のキッカーに
「そい!そい!」
のコール。
逃げられない雰囲気なので、仕方なくボールをもらって、ペナルティスポットへ。
蹴るコースは向かって左。これしかできません。
ボールから7〜8mほど離れ、左足インステップキック思いっきり蹴るような雰囲気で右斜め45度から助走。
軸足の右足のつま先はゴール右に向き、体の軸も右に倒れます。
GKは思いっきり、右にダイブ。めっちゃ飛んでました。(ゴールぽすと超えて手が伸びていた!ヤバ!)
しかし、私のシュートは逆をついていたので、めでたくゴールイン。
公式戦ではありませんが、もしかしたら、このキックなら公式戦でも決まるのでは。
今までの黒歴史を塗り替えた歴史的な瞬間を迎えたと思ってました。
でも、今回のW杯を見たら、考えがもとに戻りました。
私のようなチキン野郎は、きっと緊張して失敗するんだろうなと。
やはり、PK戦のキッカーを志願することは今世ではやめておくことにしようと思いました😆
☘️最後まで読んでいただきありがとうございました。
☘️素敵なご縁に感謝です。
☘️「スキ」「コメント」「フォロー」も頂けたらとっても励みになります。これからも「読んでよかった!」と思える記事を皆さんに届けられるよう努力していきます。今後もよろしくお願いします。
https://note.com/soisoiy/n/n096151262098