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アナーキズムのすすめ デヴィッド・グレーバー『資本主義後の世界のために』

 「そろそろ資本主義やめたいけど、次どうしたらいいのかわかんないよねー」とおもっている人はけっこう多いのではないか。むしゃくしゃしてとりあえず全部ぶっ壊したくなる人もいるかもしれない。無政府状態ってなんかこわそう。常に何かしら燃えてそう。

 「負債」こそは、暴力と、暴力的な不平等に基礎づけられた関係を作りあげ、それを誰にとっても正当で道徳的であるように見せかける最も有効な方法であった。(デヴィッド・グレーバー『資本主義後の世界のために 新しいアナーキズムの視座』,以文社,p184)

 『資本主義後の世界のために 新しいアナーキズムの視座』は、人類学者であるデヴィッド・グレーバーの2回にわたるインタビュー+論考+対話集。グレーバーの著作は『負債論』も『ブルシット・ジョブ』も値段が高いし分厚いしでなかなか手が伸びなかったが、本書は約200ページとわりに短いうえにインタビューなので比較的読みやすい。amazonだととんでもない値段になっているので、本屋さんで注文するか図書館で借りたほうがいいかもしれません。
 グレーバーが自身をアナーキストと称していたのは知っていたが、私のなかのアナーキズムのイメージはなぜかパンクバンドのボーカルだったので、冒頭の高祖岩三郎氏(訳者・インタビュアー)による説明にまず驚いた。

 アナーキズムは、これ以上単純になりえない「基本原理」と、ひたすらナイーヴな「エートス」を土台にしている。それは、万人がそれぞれ想像力を羽ばたかせ、理想をはぐくみ、その実現を目指して一緒にがんばるというような――若干恥ずかしくもなる――契機を、大真面目に信じている。それは絶対平等を基盤とし、他人を傷つけず、他人に何ごとも強制しないことを原則とする。つまりいわゆる「自由意志主義(リバタリアニズム)」を貫徹する。(デヴィッド・グレーバー『資本主義後の世界のために 新しいアナーキズムの視座』,以文社,p5)

 めっちゃいい人たちじゃん。ただこれだけだと、指摘もあるように「単なる夢想家」にみえなくもない。
 しかし高祖氏は、こうしたアナーキズムが「民衆の闘争の最も重大な局面において、必ず回帰している」と主張し、グレーバーもインタビューのなかで「そうみなせる運動形態は、すでに中国の戦国時代にもあ」ったものであり、「常に存在してきた」と言う。そして、名前がつけられる以前から存在してきたというこのアナーキズムは、かっちりした哲学理論というよりはまさしく「運動形態」であり、高祖氏の言葉を借りれば「特定の思想家によってつくられるものではなく、協業によってつくられるものであること、それは常に革命的実践との関係の中に存在するものであること、それは特定の存在論から出発するものではなく、それらの間の合意形成の過程から出発する、あるいはそこに留まり続けるものである」らしい。

 アナーキズムを三つの次元の現象の複合と考えることができます。第一に平等主義的な実践の諸形式の存在——反階層序列的な決定、交換、協業(等々)の機構。第二に、第一によって可能となる権力や権威の構造への挑戦——これが人びとに権威の形式は必要ないことを実感させます。人びとが資本主義を不正義と考えるのは、彼らがすでに日常生活の中で、共産主義を経験しているからなのです。そして最後に、ユートピア的理想という次元。平等主義的社会実践の経験は、われわれに強要されたどのような権威の形式も間違っていることを実感させます。だからわれわれはそれが存在しない世界を想像するわけです。(同上,p173)


 平等。権威の否定。理想。こうして並べられるとシンプルでわかりやすいし、実際の運動がどういうものか興味をひかれる。
 グレーバーが1999年以降様々な運動に参加していたこともあり、「新しいアナーキズムの政治」と題された1つめのインタビューではアナーキズムにまつわる運動の通史が、2つめの「新しいアナーキズムの哲学」では主に理論面が語られる。グレーバーの来歴と主張がざっと見通せるので、入門には向いているかもしれない。とくに「負債」による社会関係の解釈や、官僚機構が生む「公衆」概念の捉え直しなどは、読んでいてわくわくした。
 しかしこういう本を読んでいつも疑問におもうのだけれど、どうして日本ではデモや政治運動がなかなか起こらない/起こりにくいんだろう。政治を気軽にみんなでやりたい。それはたぶんたのしい。

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