明け星
「──およそ一世紀前頃から我々の地球は気温が低下し続け、現在の全球凍結に至るまで、地表の温度は上がっていません──」
今日の日付と同じ出席番号の女の子が、教科書を読み上げている。おれは集中していない。なぜなら、明日の終業式が終われば夏休みが始まるからだ。
窓の外を眺めると、深い、深い暗澹が広がっている。
その暗澹が揺らめいて、目が疲れてるのかと思えば、教室の窓の横を、大きな鯨が通り過ぎるのだった。
──抹香鯨だ。
窓の外の景色に気付いた人から、一人、また一人と広がり、教室はさざめく。教師が諦めを孕んだ声で「静かに」と注意してもなお、皆は訪問者を目で追っていた。
珍しい事もあるものだ。なんだか今日はラッキーだな、と思った。
鯨はなんともないように、遠く遠くまで泳いで行った。おれはそれを見送って、あくびをした。
人類はいま、海の底に住んでいる。
一世紀前、地球は環境活動家が木を植えすぎて、凍りついた。
当時の活動家の育てた草木の量は尋常でなく、大木から、葉緑体を含む微生物まで、それらがとにかく光合成をしまくった結果酸素が増え、温室効果ガスである二酸化炭素が減り、気温が低下し、氷河が増えた。その氷河が日光を反射し、さらに気温が下がって氷河は増える。これを氷床のアルベドという。
氷河が日に日に増え、自分たちが暮らす直ぐそこの街にも押し寄せてくる。こうなってはもう誰も止めらないと分かった人類は、この氷河期が明けるまで、一時的に氷の下──海底に暮らすことにした。
氷河の押し寄せる海中では、地上に近いほど気温は低下し、かと言って深海も寒い。だから、人類は海底火山の周辺に住むことにした。移住が完了した頃には、地球はすっぽり氷に包まれていた。この状態は全球凍結とも呼ばれるらしい。
海底に住むとなれば、海底火山がひとたび噴火してしまえば人類に逃げ場はほぼない。ほぼないのだけれども、こうするしかなかった。
幸いなことに、人類は海底火山と上手くやっていけていて、地熱の利用から始まり、エネルギー生産の効率化によって、万が一噴火しても安全な居住環境を構築し、かつ適温の中、暮らしていくことが出来ている。
この過度な緑地化に起因する全球凍結の経緯を目の当たりにした人間は、もうほとんど死んでしまったが、しかしどんな教科書にも書いてある。おれは苗字が草壁だから、子どもの頃は「あいつの周りに行くと凍っちゃう!」とかからかわれた。みんなその時は、温室効果ガスとか氷床のアルベドのことは理解出来ず、「草を植えすぎて凍った」という結果だけで覚えていたからだ。でも当時の俺は律儀に真に受けて泣いたり怒ったりした。
それも、随分昔の話だ。あの頃は、せいぜい幼い教室と家が世界の全てだった。
今のおれは、普通の学生だ。明日が終われば、夏休みが始まって、どこにでも行ける。
「おじさん」
ポーン、と音がして扉が開く。
開けた視界の先では、ぼさぼさの髪をしたおじさんが図面を広げていた。おじさんは顔を上げると、大袈裟なリアクションをする。
「うわあ、また来た。何、たたきくんのこと好きなの?」
「うるさいなあ」
おれは靴を脱いで部屋に入る。土間は狭くてぐちゃぐちゃだ。おれは自分のより一回り大きい、履き潰されたスニーカーを踏まないように、足でそれをどけた。
長い長いエレベーターを昇って、ここは水深1100m。空調があってもかなり寒い。今は夏休みだし、海底火山活動期だというのに、おじさんはダウンコートを着ている。
「そんな格好で寒くないの? 若いなあ」
「寒い……」
「たっはっはっ、バカだねー」
笑いながら、おじさんはごそごそと何かを探して、「ほい」とおれに赤い何かを放り投げる。
「なにこれ」
「どてら。どてらって分かる? 暖かいから着ときなよ」
「なにこれ! いらねえ!」
「そんな事言うなよ〜たたきくんが夜なべして縫ったんだから」
裁縫する仕草をするけど、そんなわけないと思う。だって自分の食べた食器すら片付けないんだから。
とはいえ、寒いもんは寒い。不本意ながらどてらを着込んで、おれは広間の中央の機械を見上げる。この部屋を席巻する巨大な真鍮は、アンティークの置物というには機能的すぎて、けれど本来の役割に使うには陳腐すぎる。
「今日はなにか見える?」
「んー、さそり座」
おじさんはそう言って、円筒を覗き込む。
その巨大な機械は、天体望遠鏡という。
おじさんは、この海底から、氷の上の、さらにその上の、夜空の星を眺め続けている。そう、こんな海の底で星を見ているのなんてらおじさんくらいしかいない。
おじさんがくるくるとネジを回す望遠鏡は、レンズを覗き込んではいるものの、当然氷の上の景色を直接見ている訳ではなく、氷の比較的薄い海面付近に浮かべたレーダーや、自走式電波が捉えた姿を演算し、「推定された星空」が見えるに過ぎない。「地上のレーダーや天文台はとうに凍りついてるからね」といつかのおじさんは笑っていた。おじさんが隣を譲るように横にずれたので、おれは望遠鏡を覗き込んだ。
「さそり座?」
「南の空の、地平線辺にある赤い星。一等星のアンタレス」
「アンタレス。燃えてるの?」
「燃えてる? うーん。表面はそうなのかも。光ってんのは、中で核融合が起きてるからなんだけどね」
「カクユウゴウ」
「そう。どかーん」
「やめろ!」
おじさんが体をぶつけてきて視界がぶれる。定まった視点の端でおじさんは笑顔になっていた。うざ。
「空に見える星は恒星といって、自分から光を発する星だ。太陽も恒星。逆に自分で光を発さないものは惑星とかいう。地球がこれ。惑星は恒星の重力によってその周りをぐるぐる回ってるから、遊星ともいう。月も光ってるように見えるけど、月は太陽の光を反射してるだけだし、惑星でもない」
「ふうん」
2000年代のビデオゲームのようなぼやけた画面は同期ズレしていて、それでも赤い星と、その下に星々が連なっているのが分かる。
「双真は蠍って見たことある?」
「あるよ。動物園で見た。砂漠のいきもの展」
「動物園? そういうの、まだあるんだ。まああるか、流石に」
「まだ?」
「いや、たたきくんも行きたいな〜って思っただけ」
「遠いよ」
「どこにあんの?」
「親がチケット買ってくれた。めっちゃ遠いよ」
海底都市はその地理的制約のために、さほど広くない。広くないとはいうものの、皆がおおよそ快適に暮らせる程度の広さだ。かつての東京のような人口過密都市では、この海底は快適に暮らせまい。つまり、都市の構造としては、ある程度のコンパクトシティが偏在しているという形となる。それらの地点を繋ぐのは、建築空間下では徒歩、自転車、地下鉄、自動運転などなど。そして海中には──潜水艦がある。潜水艦に乗れば、国内だけでなく国外までも移動することが出来る。
「ふ〜ん? じゃあさ、潜水艦乗ったことある? 潜水艦なら速いっしょ」
「あるわけないよ、高いもん」
「たたきくんが乗せてあげる。その代わり動物園連れてって」
「……おじさんにそんなお金あると思えないけど」
「ざんね〜んお金持ちじゃなかったらこんなとこに1人で住めませ〜ん」
「……」
「あ、嫌味な奴だと思ったでしょ」
「そうじゃないけど」
おじさんはよく分からない人だ。なんでこんな海底からずっと星を見ているかも、何をして生活してるのかも分からない。名前だって、笑いながら「星ノ間三和土」って名乗って、手を差し出してくれたけど、多分偽名だ(本名だったら、ごめんなさい)。なんでも知ってるかと思ったら、たまに驚くほど呆気なく簡単で普通のことを知らないことがある。
「おじさんって、普段何してるの」
「双真こそ今日学校は?」
「夏休み」
「へー、そうなんだ。そっか。夏休みかあ」
おじさんは回る椅子にゆるりと腰掛けて、何かを思い出すかのようにくるくると回った。
「自由研究のテーマなんでもいいんだって。星にしていい?」
「おー、いいよ。でも学校の先生が星に興味あると思えないから、良い評価もらえるかは知らないけど」
「そんなのいいよ。教えてくれる?」
「うん。起きてたらね」
「……早寝なの?」
「ううん、昼から酒飲んで寝てるから〜」
「…………」
こうして、おれの夏休みが始まった。
「おじさん」
ポーン、と音がして扉が開く。
「おー、明日来いって言ったわけでもないのに毎日来る感じね」
19時。おじさんはピザを食べていた。舐めた指を襟の伸びたTシャツで拭いて、立ち上がる。
「……毎日は流石にウザいとかある?」
「はは、いやいや、勤勉だなって。荷物置きなよ。てか飯食べた? これ食べる?」
「いらない。食べきれないなら食べるけど。あ、これあげる」
「何これ……ってうわああああああああああ?!?!!??!?!?!」
円柱形の瓶を覗き込んでおじさんはひっくり返る。空中に浮いた瓶をキャッチすると、どたーんと音がして、おじさんの足の裏が見えた。左足のくるぶしにほくろがあった。
「ヒトデ。外散歩してたらいたから」
「は? な、なんでそれをたたきくんに……?」
「星型だから、好きかなって思って」
「星と星型は違うでしょお?! 何回も見せてあげたじゃん! 全然違うの、うわあ、動いてる……!」
「……好きじゃないの?」
「動物は苦手なんだよぉ〜…! うるさいし、すぐ死ぬし、勝手に動き回る」
「ふうん」
ヒトデはうるさくないし、別にすぐ死ぬというイメージもないし、そんなに活発に動き回らないと思うけど、普段星しか見てないとそんな感覚なんだろうか。
「……ああでも、たたきくんの為に持ってきてくれたんだよね? ありがとう、あー……えっと、でも……」
「分かったよ。持ち帰る」
「そうして!! あと良かったらピザも食べるか持ち帰って。食欲無くなったから……」
「そんなに? ご、ごめんなさい……」
「あ、いや、そもそも割と飽きてたからピザはまあいいんだけどさ……軟体生物とか昆虫とか苦手なんだよねえ……おじさんが子供のころ、昆虫のカードを集めて戦わせるゲームが流行ってたけど全然理解出来なくて」
「?」
「うわー、ピンとも来てなさそう。ジェネレーションギャップ……」
「これ残りほんとに食っていいの? 何味?」
おれはピザのロゴの平たいボックスを開ける。3ピースほど残っていて、味はバラバラのようだ。おじさんはすっ転んだ場所にそのまま寝転がって指を折る。汚ねえ。
「明太もちチーズ、マルゲリータ、ツナコーン。あっためてきなよ」
「どこ」
「そっちの扉のとこがキッチン。ついでにたたきくんにコーヒー淹れてよ」
「ええ……」
「冷蔵庫のコーラも飲んでいいから!」
「なら、まあ。これ終わったら星のこと教えてね」
「もちろん。……ねえ、コーヒーにブランデー入れてくれない?」
「だめ」
「そんなあ〜」
おじさんは仰向けになって顔だけこちらに向けて手を合わせる。誠意がまるで感じられない。ブランデーというのは、多分たまに空瓶が転がってるあの琥珀色の飲み物のことだろうけど、酔っ払ったおじさんはタチが悪いし、そもそもおれは仮にも、真面目に学びに来ているのだ。
「湯豆腐が食べたい」
「そんな理由でここ来ないでくれる?」
ポーン、と背後で音がして扉が閉まる。不思議と今日は昨日に比べて、暖房が強めに入っているようだ。
「ん」とおれはレジ袋を突き出す。
「はいはい、豆腐を買ってきてくれたわけね……下って夏なんでしょ? なんでまた」
「同級生にウケたい」
「しょうもない!!!」
横転するおじさんを尻目に、おれは食器棚を見回す。洗い物が溜まっているシンクに片手鍋を見つけたけど、二人で食べるにはどうにも味気なさそうだ、と思った。
「双真」
「重い、鬱陶しい、ばか、どけ」
「おじさんと取引しようよ」
「……」
めんどくさそう。
「今面倒臭そうって思ったでしょ」
「そう思うならやめにしない?」
「しな〜い。話聞いてから決めてもいいよ」
これ、聞いてやらないと余計鬱陶しいやつだ。おれは椅子に腰掛けた。交渉の席についた段階で、座らせられた側は半分負けている。おじさんは対面に座って、得意げに手を組んだ。
「湯豆腐やるって夢は叶えてあげる。たたきくんちょっと料理の味は保証できないけど、まあ湯豆腐なら失敗しないでしょ」
「料理の腕を期待するなら他の場所に行ってるよ」
「もうちょっと可愛げのある言い方にできない? ま、そういうことで今から買い物に行きましょう」
「おじさんって買い物とかするんだ」
「するよ。オンラインで」
「……鍋がどこで売ってるとか、分かんの?」
「おっ正解! 皆目見当も付きません」
「……」
「だからさ、案内してよ。たたきくんが買ってあげるから」
「おれが家から持ってきた方が早いよ」
「ちょぉーっと待った。たたきくんが前に、他にも連れてってって言った場所があります。それはなんでしょう」
「……動物園?」
おじさんはおれの答えを聞くと、懐からチケットを取り出す。電子チケットじゃないのに、妙に煌めいて見えた。
「潜水艦、乗りたくない?」
「……それ、潜水艦のチケット?」
「そう、夜行便の切符。切符って今はあんま言わないのかな? 双真がうんって言えば、ここに動物園のチケットも加わることになる」
そう言われて、おれはちょっと引いた。なにもかも非合理的で、無意味だからだ。
たしかに真夏の湯豆腐でウケたいとか言ったのはおれだけど、おじさんがおれのくだらない誘いを断りたいということではないというのはチケットが証明しているし、けれどどう考えても、湯豆腐のために潜水艦に乗る必要も、動物園に行く必要もない。
夏休み中のおれさえそう思うのに、この人はどんだけ暇なんだろう。
「鍋を買いに行くためにわさわざ潜水艦に乗るってこと? しかも動物嫌いとか言ってなかった?」
「うん、けど檻の中にいれば大丈夫」
おじさんは両手に顎を乗せてニヤニヤしている。
買ったことは無いけど、その思いつき旅程にどれほど金がかかるのか想像が出来ない訳でもない。けどおじさんも、おれがそれを返せないことくらい分かっててやってるんだろう。
ただの施しでも気まぐれでもない。おれは試されているのだ。「お前はいったい、親元を離れて、どこまで行けるのか?」言い換えるなら、おじさんにどこまでおれが、着いていけるのかを。
それで好奇心が勝ってしまうおれもおれだ。
「前から思ってたんだけどさー」
「ん」
二段ベッド付き個室は広くはなく、急拵えの荷物がさらにそれを狭くする。着替え忘れてないかな。パンツ忘れてたらどうしよう。
「双真の家って結構自由な感じ? おれも忘れてたから直前になっちゃったとはいえ……思ったよりあっさり親御さんの許しが出てびっくりしてるんだけど」
「夏休みなんだから冒険しろって言ってた」
「ふうん。そりゃいいね。2段ベッドどっちがいい?」
「おじさんがうるさくない方」
「ええ? 俺っていびきとかかくのかな……じゃあ上?」
「どうもどうも」
「どうぞどうぞ」
おじさんの荷物は小さい。乗り込んでから、夜行便のアメニティが結構充実してることを知った。おじさんが何も言わずほぼ手ぶらで来たのは、なんか潜水艦乗ったことあるマウントっぽくてウザかったけど、もし大荷物のおじさんなんてらしくないから、それでよかったのかもしれない。
そうして、おれたちは寝るまで星や、宇宙の話をして、あとはトランプで遊んだ。ローカルルールで喧嘩して、そのうちに部屋は消灯した。
大学の卒業旅行で、クルーズ船に乗ったことがある。こうやって、友人と同じ部屋で寝て、起きたら船の中で過ごした。朝はいつも、友人の目覚ましと眩い日差しで起きた。甲板に朝日を見に行くのが習慣だった。
それが一体、もう何年前か。寝返りを打って目を開ける。窓の外は暗澹だ。今が夜で、ここが二段ベッドの下だとしても、その景色は暗すぎた。
上のベットからは、穏やかな寝息が聞こえる。彼は生まれつき人口太陽の元で育った。ホログラムでない空を、彼は見たことがない。
ぱち、ぱちと瞬いてみても、窓の外には何も無い。いきぐるしいな、と思った。強度の基準が厳しい潜水艦の割に窓があるだけマシなはずだが、この海の上の生活に──星を直接観測できる生活に思いを馳せずにはいられない。
食べて、寝て、友人もいる。けど俺は、どうしようも無い閉塞感の中、日々を過ごしている。
この日々に真なる意味での生きがいは、存在しない。俺には夢があった。そして、それを叶える段になって、計画はこの星と共に凍結した。
悔しかった。でも、どうにもならない。俺は生きる意味が分からないまま、その悔しさだけ抱えて、日々を過ごしている。
数年前、俺たちが目覚めた時。母の脳みそは溶けていた。父は足が片方無くなった。なんだかんだ言っても、この海の下で、なんの問題なく生きているだけ、俺は幸せなんだろう。
それでも。
ねえ、双真。俺は手を伸ばして、上で寝ている友人に問いかける。
双真は将来、何になりたい? 何をしたい?
己の夢を失って、せめて人の夢を聞きたいと思った。人は夢を見れるということを、信じたいと思った。この海底でも夢は叶えられるんだと、誰かに手を引いて欲しかった。
浅ましいな、と俺は一人で寂しくなって、シーツに丸まる。衣擦れの音がいやに耳に残った。
「おじさん」
「んあ?」
「んあ? じゃない。歯磨きしてヒゲ剃って。汚いから」
「さすが双真、そんなに言ってくれるなんて優しい……」
おじさんは寝転がったまま、のそりとおれに手を振った。
海底に人類が避難してからは、概日リズムを崩さないために、各市町村に人口太陽が設置され、法によって昇沈が管理されている。けどこの潜水艦には人口太陽なんか積めやしないから、おれは普通に目覚ましをかけて、部屋の明かりをつけた。
おじさんは目を擦りながら、洗面台に向かうかと思いきや、ベッド座ったままもう一度寝そうになっている。だらしねえ。
とりあえずおじさんは置いておいて、艦内販売で買ったおにぎりを温めながら緑茶を淹れる。
「お湯余ってるけどコーヒー飲む? いい加減起きろよ」
「低血圧でさあ……おねがい、うそ、たたきくんもおにぎりだからお茶がいい」
言いながらおじさんはぼりぼりと頭を掻いて洗面所へ消えた。水の流れる音がする。
自分のおにぎりをレンジから取り出して、おじさんの分を温める。もう一杯のコップに、ティーバックの緑茶を淹れる。湯気が立ち上って、ああ旅先の朝だな、とおれは思った。
──艦を港に付けますので、しばらく揺れが大きくなる恐れがあります。そのままお部屋でお待ちください。アナウンスがそう告げてから、しかしつつがなく港に付けたらしい。港と潜水艦を接続するバルブが開かれ、重々しく空気が抜ける音がしばらく続いた。
「大変長らくのご乗船、お疲れ様でした。当艦は定刻通りに予定地に到着致しました。またのご乗船をお待ちしております──」
港との連絡通路が開かれ、続々と乗船者が出ていく。おれは通路を物珍しそうにきょろきょろ眺めながら歩き、おじさんは欠伸をしていた。
「着いたら荷物預ける? 邪魔じゃない?」
「預けたい。鍋も買うし」
「ふ、そういえばそうだった」
「そうだったじゃないから。これがメインだから」
「分かった分かった。ちなみに湯豆腐ってシメは何になるの?」
「え? うどんでしょ」
「ふーん」
「ふーんて……湯豆腐食べたことないの?」
「おじさんのことどんだけの世間知らずだと思ってる?」
「違うの」
「おじさんだって家で食べてたよ〜ただ我が家は湯豆腐のシメってなかったんだよね。ひたすら豆腐食べて終わってたから。でも双真はそれだけじゃ足りないっしょ?」
「変な家。うどんも買ってく?」
「いや、冷凍のがあるから大丈夫」
「ならいいけど」
おじさんは煙草を探していた。おれは手荷物検査で没収されたのを見てたからあるわけないのが分かっていた。それよりも没収されておいてなんで自分が覚えてないんだよ、と思った。
おじさんの記憶や興味がひどくアンバランスなのは、最近気付いたことだった。
「……蠍いないじゃん」
自分で言い出したくせに、さほど動物に関心が無いように思われる。おじさんはそう言って、不満げに柵に肘を置いた。
「あの時は砂漠のいきもの展でいただけなのかも。砂漠って知ってる? 砂だらけなんだって」
「知ってるよ。行ったことあるもん、鳥取だけど」
「うそだあ」
おじさんは退屈そうにオウムと目を合わせている。トットリってなんだろう。そういう体験施設かなにかだろうか。
「地球はもう、見ての通り氷の星だけど……すぐ近くだと火星なんかは完全に砂の星だよ。その下は岩石で、海なんかほとんどない。ただ砂漠と違って、火星の砂はほぼ酸化鉄。だから赤く見える」
「すぐ近くって……月はおろか海の上に行くことすら出来ないのに」
「いやあ、星をみるひとの距離とか時間の感覚なんかそんなもんだよ。今日だってほら、あっさり遠い動物園まで来れちゃったでしょ?」
「……それが普通?」
「俺はね。……でも、海の上に行くことは叶わないんだよなあ」
おじさんはそう言って目を細めた。それを見ておれは、心がざわっとした。
おれに見えていないものを見ているみたいで。
「……やっぱおじさんはさ」
「うん」
「地上で直に星を見たい?」
「そりゃもちろん! いつまでもこんなとこいらんないよ」
おじさんはパンと一度手を叩いて、そのままバイバイと振った。おじさんは電話口でもなんでも仕草の大きい人だ。
「もしこの氷河期が終わったら、海の上に出ていくの?」
「そうだね〜可及的速やかに」
「そうなんだ……」
「なに? たたきくんが居なくなったら寂しい?」
カキュウテキ。初めて聞く言葉だった。おれはこれまで、おじさんからどれだけたくさんのことを教えてもらっただろう。おれは、あとどれだけ知れるだろう。
この夏休みが終わるまでに。
「……もし、この氷河期が明けて、いや明けなくてもなんか地上に行く機会があったとして──おれは、そこでの生活を知らないから。百年前は当たり前だったことは、おれにはできないから……なんとなく、むしろ、氷河期が明けちゃったらどうしよう、って思った」
地上の景色。たった百年前のことだから、全く想像できないというわけではない。当時の資料だってたくさんある。
でも、海に阻まれず、空を飛んで、どこにでも行ける世界はどんなものなのだろう。氷に阻まれず見える星空は、どんなものなのだろう。
遠くの方で、象がゆっくりと餌を食んでいた。
食べてどうするんだろう。
食べたあとは何をするんだろう。
あの象は友達と過ごすこともない。ここに象は一匹しか居ないから。
食べて、寝て、食べて、寝て、食べて。それをおれたちに見せてくれる。それをおれたちに見せるのがこの施設の意味だ。
けど、あの象はなんのために生きるのだろう。
死ぬときに、何が残るだろうか。
なんとなく、毎年手を合わせに行く草壁家の墓を思い出した。
ふいに、おじさんは俺の頭に手を置いた。かといって撫でるでもなく、指先を少しだけ滑らせる。
「なに」
「……そう心配しなくていいよ。その時がやってきたとして……海の外に出てもいいし、生まれて住んだ場所に暮らしてもいい。そうなったときに海底都市がどうなるか、たたきくんも分からないけど……生まれ育った場所に暮らす権利なんて、本来有って当たり前なんだから。当たり前のはずなんだよ」
「どうだろうね」
おじさんはふふ、と笑った。おじさんはどこで生まれたんだろう。親はどんな人なんだろう。そんな世間話が、どうしても致命的な気がして、おれはずっと聞けないでいる。
「動物園には蠍がいなくて、でも外を見れば魚はいくらでもいる。はあ、ほんとに海洋学者が羨ましいよ……」
おじさんがそう呟くのを、おれはぼーっと聞いていた。
やっぱり、どう考えたって、こんな海の底から星を観察するのなんか、無理がある。
どんなきっかけで星を見るようになったのか。そしてこの海の底でさえ、それを辞めないのは、一体なぜなのだろうか。
「……蠍いないとか文句言ってた割に随分楽しんだじゃん」
「だってあんまり外行くことないんだもん」
手提げの袋は俺の分だけで三つ。まとめたいけど大きい袋がない。
無事、ふたり鍋にちょうどいいやつを買えたはいいけど、おれたちの荷物はそれだけじゃなかった。おじさんは誰に配るでもないだろうに、動物園のお土産を大量に買った。記念品! とか言って笑ってた。どっちが夏休みの子供なんだと思った。
だから帰りの潜水艦は滅茶苦茶狭くて、少し寝苦しいな、と思いながら、一日歩き回った疲れでおれはすぐに眠りに落ちていった。
子供の頃、おれの将来の夢は消防士になることだった。でもその理由はごくありきたりで、周りのみんなが、まあ消防士とか警察官とかスポーツ選手とか言ってたから。
みんながそういうことをあまり言わなくなって、俺の中でも漠然とあった消防士への憧れとかもなくなった。だって夜勤とか緊急出動とか絶対大変だし、そもそも命に関わる仕事だ。そんな言い訳ばかり積み上げて、幼いおれの夢はいつしか淡く潰えた。
母は、看護師。父は、司書。そういう分かりやすい資格とか肩書きって良いなと思う。だっておれは、何者でもない一介の学生だから。
でも、おじさんは、名前も仕事もあやふやなのに、なんか特別な気がする。社会に埋もれた没個性Xじゃない。
人を"特別"にするのが肩書きや地位だけじゃないなら、それはなんなんだろう。
おれはあの真鍮の望遠鏡を思い出した。おじさんのそれなりに広い家を、窮屈そうに見せる、あの巨大な望遠鏡。
信念、とか?
……そんなのおじさんにあるのかな。
分からない。
ないとも言いきれない感じがあって、本当にどちらか分からない。
おじさんにとってあの望遠鏡はなんなんだろう。おじさんにとって、この日々はなんなんだろう。
おれにとって、この日々はなんなんだろう。おれは一体、何になりたいんだろう。
おれは変化を恐れていた。けど同時に、なにもしないことも恐れている。
おれには標がなかった。親が先生が示してくれる一例は、どれにもピンと来ない。
なにかひとつのきっかけでいい。なにかひとつの、たったひとつの、かけがえのない閃きをどこかに探していた。
でも、そんなのは白馬の王子様と一緒だ。存在しない。少なくとも、ただ夢見ているだけの人のもとには。
「人生とは仕事なんだってよ」
ぐつぐつと豆腐が煮えている。
「なにそれ」
「おい、ちゃんとネギも食えって」
「あのさあ、なんで湯豆腐がこんな具だくさんなわけ? これじゃあ豆腐多めの普通の鍋でしょ」
「別に普通だよ。これがうちの湯豆腐」
「湯豆腐は薬味のバリエーションを楽しむもんでしょ?」
「なにそれ。おじさんってめんどくさいね。だから無職なの?」
「無職〜? なんでそうなるわけ。たたきくんはここでちゃんと働いてま〜す」
おじさんは歌うように反論しながら肉団子を取った。ネギ食えって。
「おれがこの前、普段なにしてんの、って聞いたら速攻はぐらかしたから」
「わお。それで無職って推理したわけだ」
「ここで働くって、そんなの無理でしょ。誰もいないし、あるのはぼやけた望遠鏡だけ」
「だからその望遠鏡だよ。星を見んのがたたきくんの仕事なの」
「おれの自由研究、学校の先生が星に興味あるわけないからいい評価貰えないって言ってたじゃん。なら、おじさんのその仕事は誰が仕事と認めてるの」
「……学術誌。いちおう。学術誌って分かる?」
「わかんない」
「う〜んと……まあ、たしかに望遠鏡はオンボロなんだけど。でも見えなくてもここで考えることはできるわけよ」
「……考えるのが、仕事?」
「双真のご両親って普通のサラリーマンかな? じゃあ学者の生活って想像しにくいかもだけど、宇宙は果てなく広いからね。分からないことが無限にある。つまり、考えることも無限にある。食っていけるかは別として、およそ無くなるはずのない仕事だよ」
「それって、逆に言えば終わりが無いってことでしょ。おじさんは、星に一生賭けれる?」
「はは、双真ってもう人生について考えてるの?」
おじさんはそう笑って、キッチンに向かった。そうして日本酒を持ってきて帰ってきた。まさかの湯呑みに酒を注ぎながら、ぽつぽつ話し出す。そういうのっておちょことかで行くもんじゃないのか。
「まあでも、無職って言われてもあながち間違いじゃない。学者なんて実家が太くなきゃほとんどやってられないし……しかもたたきくんの話は誰も興味が無い。だって、こんな所から星なんて見えないんだしね。意味ないって言われても仕方ないよ」
おじさんはからから笑った。おじさんはいつも、自分の一番好きなことにさえ、それが客観的に事実であるならば、それをあっけらかんと言ってみせるけど、おれはなんだか、少しばかり悲しいような感情になった。
「意味ないの」
「皆にとってはね〜」
「おじさんには?」
「大アリ。」
「じゃあ、それでいいじゃん」
おじさんは箸をピタリと止めて、目を丸くしておれを見た。おれはなんか言い返されのかと思って、ぎゅっとそれを見つめ返した。
で、なんか言うのかと数瞬黙ってると、にっと歯を見せて笑った。
「双真って真っ直ぐだなあ。かっこいい」
「は?」
「いやいや。そうであれよ、若人」
俺はなんか、馬鹿にされたのかと思って、箸をおじさんに向けた。
「なんなの。ネギ食えってば」
「たたきくんは大人だからいらな〜い。なぜならもう成長しないから」
「大人なんだから好き嫌いすんなよ!」
「いやいや、もうたたきくんの組成は変わんないから。双真はこれから背が伸びたり歯が生え変わったりするわけでしょ?」
「歯はもう終わったよ」
「宇宙もおんなじで成長、というか膨脹し続けてる。その始まりはビッグバンってやつで、これは聞いたことある?」
「うん」
「だいたいその頃に電子や陽子が生まれ、原子が生まれて、結びついて分子となって、またまた時間をかけて化合物ができた。まあこの辺は直に習うと思うよ」
おじさんはそう言いながら、冷凍うどんをぼちゃぼちゃと三玉入れた。おれはおじさんの見えてないところにあった豆腐を皿に取って、土鍋に蓋をした。
「そして、原始地球に月が衝突して、月によって引力が生まれ、海は満ち引きするようになった。そして波が生まれて、泡沫の中で──」
「……さっきから何の話?」
「生命が生まれる確率は、25mプールにバラバラにした時計を入れて勝手に組み上がる確率と同じようなもの、って聞いたことある? 実際計算された確率じゃなくて、そういう比喩なんだけど」
「ない。そんなの、出来るわけなくない?」
「そうなんだよ。そのはずだったんだ。でも、その泡沫の安らかな揺籠で、ようやく小さな生命が生まれた。まあ、そんなわけで……」
おじさんは鍋を開けた。湯気が立ち上る。俺は火を弱めてから、半分くらいよそって、卵を落とした。おじさんがぐずぐずになったネギをおれの皿に移したから、おれは皿ごとおじさんのと入れ替えた。おじさんは諦めたようにうどんに息を吹きかけてから、一口啜った。
「俺たちはみんな、星で出来てるんだ。まあ、"母なる海"って言うのはそういうこったな」
「豆腐も?」
「うーん、豆腐はどうだろうね。知的生命体が宇宙のどっかにいるのかは、いるともいないとも言えないけど。なんか豆腐くらいなら似たようなやついそうじゃない?」
「ふ。はは、いそうかも。うどんもどっかにいるんじゃない?」
「星見ててふと居たら絶対面白いだろうな、うどん。ねえこれもらっていい?」
「は? ありえない、おれが育てた大切な温泉卵だから。食いたきゃ自分で作れ」
「えー? たたきくんさっき頑張ってネギ食べたんですけど!」
「だから何? 当たり前だからな」
おじさんは唇を尖らせて湯呑みを啜った。おれは卵を自分の皿の上で割りながら、それっておれの中にも宇宙があって、おじさんの中にも海があるってことだよな、とかぼんやり考えていた。
一泊二日の湯豆腐も酣に、おれは家に帰ることにした。おじさんは送ろうかと言って来た。確かに土産を持つ係は欲しいけども、おじさんは普通にべろべろだし、おれを送り届けたら、初めて会った時みたいにそこらへんで寝たりしかねんっておれは思った。ていうかおれを見送ったら糸が切れて床で寝るんじゃねえかと思って、先におじさんが布団に入るのを見送った。主人不在の広間で、おれは望遠鏡を覗き込んだ。動かし方が分からないし、勝手に動かすべきでもないから本当に覗いただけだけど、スプーンの形をした星が見えた。おじさんに習った。北斗七星だ。古くから、船乗りたちや、旅人を助けて来たと言われる、北極星を湛える星座。
一人きりで眺める北斗七星は、なんだか不思議に胸が躍った。なんか、本来なら光の天に過ぎないそれを、人々が眺め続けることによって、暦や方角を知るツールになったり、物語が紡がれていく。歴史の中で、意味が出来ていく。
その意味を作り出した人たちの名前は語り継がれることはない。けど、名も無き人たちが、そうして歴史を積み上げて来たんだ。
おれも、歴史に意味を作り上げていく一端に、なれるのだろうか。
おれの夢は、星に関わること。この望遠鏡に映る星のようにぼんやりと、ただ確実に、そんな標が見えてきていた。
おじさんの背中には、大きな火傷の跡がある。
火傷じゃなくて冷凍焼けだと言ってたけど、まあ、パッと見は火傷みたいな、大きな跡があるのだ。
今から一世紀前、海底への移住黎明期に、人体の冷凍保存が流行った。けど流行りもんは所詮流行りもんで、二度と眠りから帰って来れない人も多かった。
おじさんは脳も溶けずに綺麗に解凍されたが、背中にだけは冷凍焼けが残った。
おじさんが腹を出して寝てたから、起きて聞いたらそう言っていた。
「だから忘れっぽいの?」
「なにが」
「コールドスリープの、なんかで」
「いや、それは別に、生来のあれだけど」
「……じゃあ、未来人なの、おじさん」
「逆逆。過去の人なのたたきくんは」
「でも、コールドスリープって……未来の技術みたいじゃん」
「それがそうでもないんだよね。たたきくん実家お金持ちだから……金持ちに流行ったんだよ、当時」
「……おじさんは、地球が凍る前の──一世紀前の人間なの?」
「うん」
おじさんは足を組んで、そう答えた。その仕草がなんだか神様みたいで、おれはその手をひきとめそうになった。
「……おじさんは、見たことがあるんだね。地上の星を。知ってるんだ、地上を」
「うん」
「それがおれは、少し寂しい」
「はは、なんでよ。別にそんなことで、双真を軽蔑しない」
「分かってる。おれが知らないことは、いっぱいある。そうじゃなくて──おじさん前に言ってた。海の上に出てきたい、って。おじさんが、ここにいたくているんじゃないんだって、今分かったから」
「……」
「おじさんはオンボロって言ってたけど、望遠鏡持ってる人なんかいないよ。まして、星をずっと見てるのも、研究してるのも、おじさんしかいない。おれは、地上でおじさんが何を勉強してたのか知らないし、その頃と今とじゃ環境も全然違うんだけど、それでも続けてるって、本当にすごいことだと思う」
「やめてくれ」
その声が、あまりにも掠れていて、おれは面食らった。おじさんも、自分の声と、なにより──おれというこどもに、本音を、現実を垣間見せたのを死ぬほど悔やんだような顔を一瞬して、それでも言葉を継いだ。
「……そうだよ。俺だって、いたくてこんな所にいるわけじゃない。すごいことでもない。全部、妥協なんだ。本当は、本当は──死んだっていいから、海の上に行きたい」
「そんなの、」
「今年はハレー彗星が来るんだよ! それを、それを……直接見るどころか、こんな海底にいなきゃならないなんて……!」
声を震わせながら、おじさんは両手で顔を覆った。おじさんの本当の感情と、おれに向ける仮面が滅茶苦茶にせめぎ合ってるみたいだった。
「……ハレー彗星?」
「……ハレー彗星は、太陽の周りを楕円軌道で廻っている周期彗星のひとつだ。地球に近づく周期は75.32年。つまり、一生に一度しか見れない」
「おじさん……」
おれには、おじさんの苦悩がわからない。星について、そこまで勉強してるわけじゃない。「地上に行きたいけど行けない」という葛藤も分からない。でも、その苦悩が分からないのが、痛いと思った。おれは、どうしたらいいか分からなくて、おじさんの前にしゃがみ込んだ。相変わらず顔は見えないけど、おじさんは小さく呟いた。
「俺が何したって言うんだ、かみさま……」
おれは神様じゃなかった。だから、おじさんを連れ出せない。
夢をくれた人に、一生に一度という景色も見せてやれない。
「おれ、もらってばっかだ……」
一人の帰り道をちんたら歩く。おれは鼻を啜った。夏休みの終わりが迫っている。おれは、いい加減自由研究を纏めなければならない。けど、それ以上に、おれにはやりたいことがあった。それは、ただ生きるのではなく、どう生きるのかを明確にすること。
その結果や過程で失敗するのは、構わない。でも、もういい加減に、先も分からず凡槍生きていたくない。
「ただいま……」
両親は「おかえり」と返して、居間で映画を見ていた。おれは、その背中に、徐に声をかけた。
我ながら自信のなさそうな顔だったと思う。
「母さん、俺、博士になりたい」
「……もう来ないかと思ってた」
ポーンと音がして、扉が閉まる。
「なんで」
「……俺が、最低で、鬱屈してる、独りよがりのカスだから……」
否定してもしょうがないと思って、おれは黙って靴を揃えた。
部屋は寒かった。いつもはおれが来ると分かっていたから、暖房を強く効かせていたんだなと、今日漸く気付いた。
おじさんはいつものように、望遠鏡の近くに座っていた。けど今日は、毛布を纏ったままで、疲れたような顔をしていた。
おれはそんなおじさんの横に腰掛けて、おれから背けるように伏した横顔を見つめて声をかける。
「寒くないの?」
すると、おじさんは鼻を啜って、やっと、へらと笑った。無理があるよ、という言葉を飲み込んだ。
「双真こそ寒いでしょ。どてら着る?」
「着る」
「何処に仕舞ったかな……ちょっと待ってて」
おじさんは毛布を引き摺りながら寝室に消えていった。一人で暮らすには意外に広いこの家の、そこが寝室であると知っていた。もうおれは、客間に通されるだけのお客さんではないということであるとも言える。
おれはその間に、勝手にキッチンに入って牛乳にココアを溶かした。
「あ! 何勝手に人の家の」
「うわ。バレた」
「たたきくんのコーヒーも淹れておくように!」
おじさんがどてらを押し付けてくるのを受け止めて、おれはココアを啜る。
「はいはい」
「……」
「あのさ、気まずくなるなら最初から我儘言うなよ」
おれはどてらを羽織って、お湯を沸かしはじめる。どこをどうとってもおじさんは調子が狂っているようだ。
「ちょっと座ってよ。話しよう」
「……」
おれはコーヒーを向かいの空席に置いて座った。おじさんは一瞬躊躇い、おずおずと着席した。おじさんの家なんだからおじさんの好きにすれば良いのにな、とおれは思った。つまり、おじさんはおじさんなりに話を聞く気はあるということらしい。
「昨日はごめん」
「……ごめんだなんて、そんな」
おじさんは弱々しい声で口角を上げた。またそれだ。おれのせいで傷ついて欲しくないのに、どうにも上手くいかない。
「でも、おれほんとにおじさんのこと凄いと思ってる。信じてもらえないかもだけど」
「……」
「だからおれ、昨日家の人と相談したんだ」
「……今から間に合う自由研究のテーマを?」
「博士になりたい、って言った。正確にはハクシだって言われたけど」
おじさんは初めて顔を上げた。絶対今日髪とかしてない。最近はするようになってたのに。
「え? どういうこと? なんの?」
「星の。分野としては天文学? になるのかな」
「え、な、なんで、急に、てか……ほんとに食べていけないよ」
「太るために生まれたんじゃない。生きるために、おれが欲しいのは、目標……夢中になれるものだった」
おれはココアを啜った。おじさんは未だに混乱している様だった。
「おじさん、おれももうだめだ。星が大好きになっちゃったんだよ」
おじさんは口をぱくぱくさせ、ぽつりと言葉を捻り出す。
「そ、それって、俺のせい?!」
「おかげ」
「やめた方がいいって!! 親御さん了承済みなら俺が謝りに行くから!」
「いらないし、聞かない」
「が、頑固者!」
「だからさ、おじさん」
やっと熱を持った会話の中で、ようやくおじさんと真っ直ぐ目が合った。真っ直ぐ見据えられて、おじさんは怯んだように黙った。
「見ようよ、今年のハレー彗星。まだ、おじさんを地上に連れて行けないけど、逆に言えば海の底からハレー彗星が見れる最後のチャンスかもしれないじゃん」
「それは……そうかもしれないけど」
おれはすっかり空いたグラスを持って、改めておじさんに向き直る。
「だから、まだまだおれに教えて。星のこと、宇宙のこと。この夏休みが、終わっても」
おれは、学生服を卒業した。
数年の時を経て、この春には、アカデミックドレスとかいう、なんだか訳の分からんガウンと四角の帽子を着て、式に出て、写真を撮った。
そして、今日は海中エレベーターで行けるところよりも、もっと、もっと高いところまで来た。
風が吹いている。
ここは、氷の上。改修済・新生昭和基地「あけぼし」──いまではここが、人類が訪れうる中で、最も星が美しく見える場所だ。
おじさんの言う通りだった。
海の上は、一面が真っ白で、静かだった。ときおり、氷河が軋む音がする以外は、何の生物もいない。ここがおれたちの住む海を塞ぐ氷の上である、そんな現実味はまるでないけど、確かに目の前の風景は現実のものには思えなかった。
地球は、白かったのだ。
おれたちは、今日から三年間、この静謐の地ではたらく。そして、そのメンバーというのが、俺と、
「おじさん──」
振り返ると、おじさんは心を奪われたように涙を流していた。なんでだ。
今まで、泣いているのは何回か見たことがあるけど、いつも眉をひそめて、顔がぐしゃぐしゃだった。泣いてる顔を、おじさんはおれに見られたくなかったんだろう。だから無理やり泣きやもうとしたり、笑おうとしてみたりふざけようとしてみたりして、でも出来なくて、いつもぐちゃぐちゃになる。おれは、そんな顔を見る度に、おれのせいでこんな顔になってるのかなと思うけど、でもここでおれが帰ったとておじさんが笑えるわけじゃないよな、と思って、隣に座ってどうでもいい話をする。
けど、今日は違った。ただただ、美しいものに心惹かれたように、呆然と涙を流していた。
そんな顔を、おれは今日はじめて見たのだ。おれは分厚い手袋で、おじさんの涙を拭う。
「なんで泣いてるの。凍るよ」
「なんでもないよ、なんか、すっごく眩しくて」
おじさんは、おれに拭われるままに、眉を下げて笑った。目を細めた隙に、またひとつぶの涙が睫毛から落ちた。
「まあ、確かに……ブルーライトの何倍も、目に痛いな、地上って……」
おれは目を細める。白白白白。そして、本物の"空"がある。おじさんが泣いている理由は、久々に地上に来たからとか、懐かしい氷河の景色とか、珍しい空の色とか、星をより間近に見れるからとか、あとは本当に眩しいからとか、たくさんの理由があるんだろう。おじさんが生きてきた時間はおれより長くて、その分思いもたくさんあるのだ。
「来れてよかった?」
「──うん」
「じゃあ、よかった」
「あけぼし」の仕事は、沢山ある。気象の観測をして、いつになれば人類が再び地上に戻れるかとか、気候がこのまま変わらないとしても、どうにかこの氷の上で生きていけないか、とか、ひとがいきていくためのことを延々とうんうんと唸りつつ考えるのだ。
そのために必要な観測のひとつが天体の観測だ。天体部門の柱が、おれとおじさん。
「あけぼし」の天文台は、極寒冷下の観測機の状態に気を払わなければならないものの、天体の観測精度は海中のおじさんの望遠鏡とは比べ物にならないくらい跳ね上がる。
「ねえ、おじさん」
やっぱ眩しすぎる。おれはゴーグルをした。あの太陽とかいうやつ、聞いてたほど暑くないけど、信じられないほど眩しい。多分加減とか知らないんだろう。
早く夜が来て欲しい。
「夢、叶った?」
おれがそう聞くと、せっかく拭ったのに、またおじさんの喉が震えて、涙がこぼれた。今度はあのぐしゃぐしゃの泣き顔だ。眉をぐっと顰めて、なにかを堪えるかのような。
また泣かせてしまった。てか、マジで顔凍傷になっちゃうぞと思って、おれはおじさんの上着の中のネックウォーマーを引き上げて、口元を隠した。
「あ゛、」
「うわお。なんとなく言いたいこと分かったから、無理して言わなくていいよ。べつに、あと三年間ここにいるわけだし……中入ろ」
おじさんの言葉が嗚咽に飲み込まれたけど、その「あ」だけで十分だった。けど、おじさんは、俯いて口で息をしながら、頭を横に振った。だからおれは、その暫くのあいだ、おじさんの腕をとって、黙ってぷらぷら振っていた。
やがておじさんは息を吐いた。無遠慮なしゃっくりに警戒しながら、ゆっくり言葉を紡いでくれた。
「双真」
「うん」
「待ってくれてありがとう」
「別に待ってない」
「今、言わないと嫌だったから。……ありがとう」
「うん。礼言われるようなことした訳じゃないけど」
「夢が、夢が叶った。これは、すごいことだよ。双真、ここまで、よく頑張ったな……たたきくんの、夢を……叶えてくれて、本当にありがとう。俺だけじゃ、絶対に出来なかった」
おじさんは未だに自分のことを「たたきくん」と呼ぶ。そして、あの時から変わらず、半分おれを侮り、半分おれを試して、未だに子供扱いする。
でも、おれはもう流石に子供じゃない。
博士号を取り、海の上に立っている。
「おじさんは、おれがおじさんの夢を叶えてあげた、みたいに思ってるかもだけどさ。そもそもおれに、夢をくれたのは、おじさんだから。ほら、早く中に入ろ。仕事があるんだから。ここが全てのスタートライン。叶えただけで終わりにしないでさ」
「……………………」
「おい、いい歳したおじさんがいつまでメソメソ泣いてんだよ」
「うわあ、急なモラハラ……」
言いながら、ネックウォーマーの下で鼻を啜る音がした。おれは基地の扉に手をかける。
「ねえ、双真」
「まだなんかあんの?」
「やっぱ、眩しいわ」
「分かったっての、荷解きしたらサングラス見つけときなよ」
「そんで、真っ直ぐだ」
「は?」
おれたちの日々は、ここからまた始まる。
永遠に繰り返す星空の回転を眺めて、眺めて、なにかを見出すような、そんな手探りの日々が始まる。そんな永遠の小さな1歩が、おれたちの、人類の新しい暮らしを作っていく……のかもしれない。結果はまだ、なにもわからない。
星は、それをただずっと見守っている。