物語に尊い関係性を求める僕たちは、失われた絆を探しているのかもしれない
物語の中で、強い絆や信頼を描くことを求められる傾向が、年々強くなってきていると感じる。
キャラクターが自分の損得や理性や打算抜きに誰かを思い、行動するとき、我々はそこに「尊さ」を感じ、心を震わせる。
過去の作品にもこういう信頼関係みたいなものは描かれてきた。ジャンプ作品におけるいわゆる「努力・友情・勝利」の友情部分はまさにそれだろう。
それでも、今や物語の目的やキャラ単体の魅力よりも、キャラクター同士の関係性を描くことを最優先で求められている気がする。
我々は、何を差し置いてもエレンを守ろうとするミカサの気持ちに涙し、五条先生と虎杖の信頼と適度な距離感が両立した師弟関係に憧れる。
あるいはフィクションでなくとも、グループYouTuberの和気あいあいとした仲良しぶりに萌え、不祥事を起こしたお笑い芸人の相方が見せる「あいつは本当に馬鹿で……」といった類の必死のフォローに心打たれる。
絶対的な信頼がない世界で
人は往々にして、物語に「手に入れたいけれど、現実には手に入らないもの」を求める。
であるならば、僕たちがこれほどまでに物語に関係性の尊さを希求しているのは、現実世界ではそれが得難いものとなったことの証左なのかもしれない。
事実、社会はとてつもなく流動化していて、かつて存在していた一対一の、絶対的な関係性を、はるか遠くへ押し流そうとしている。
たとえば、江戸時代なんかであれば、結婚する相手などは村の中の誰か、少し遠くの相手だとしても、せいぜい隣村の誰か、くらいの範囲のものだったはずだ。
閉じた社会での人間関係は、土地に根ざしていて、窮屈で息苦しいけれど、だからこその濃密な、代えの効かないものとなりえただろう。
しかし今や、マッチングアプリやSNSなどを使って、どこの誰とでも巡り会える時代になった。恋愛対象は日本中、いや下手すれば世界中にいるわけで、誰とでも関係を結べる(少なくともその可能性がある)ことが明らかになった。
人間関係は物理的制約から逃れ、表層的にはどこまでも自由になったが、それと引き換えに、かつては素朴に信じられていた、関係性の神話が崩壊してしまったようにも思える。
たくさんの人と出会い、関係を結ぶことは、友達や恋人が「誰とでも置き換え可能なもの」だという意識を作り上げる。
運命の相手、かけがえのない相手などどこにも存在しないのだという気づきによって、愛や絆といった絶対的な関係性は幻想となり、代わりに諦観と共に打算、損得、利害関係、コスパといった市場性の高い言葉を脳裏に浮かべながら、相対的な人間関係をやりくりして日々を生きる状況になっている。
絆なき時代に物語ができること
失われた絆を仮想の物語に見出して消費しようとする僕たちは、ある意味では哀れな存在なのかもしれない。だが、人間が、人間の信頼や絆を再定義し、過去に定義された関係性の呪縛から脱却するまで、この傾向は終わらないだろう。
意識のアップデートが完了するまでの間、物語が失われたものを補完する役割を担うことで、誰かを少しでも慰めることができるのであれば、それはとても意義のあることだと思う。それとは逆に、新しい関係性を定義づけるのも、また物語の役割でもあるだろう。どちらの形にせよ、誰かを救えるものを書いていきたいなと考えている。(了)