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誰かの「スキ」に刺さる写真が撮りたい

写真を始めてもう2年が経とうとしている。


「どこへ」秋吉台にて

 誰かが私の写真を見た最初の感想が「上手い」じゃなくて、「好き」になってくれる写真が撮りたいと思っている。

 万人が好きになってくれる写真というよりかは「誰か」という個人が好きになってくれるような写真が撮りたい。(ただの意識問題だけど…)

 「好き」を基準にすると「上手い」を基準にした時よりも自分に正直になれる気がする。


「二人」神戸にて

 大学の部活で、仲間たちと撮った写真の見せ合いっこを定期的に行っている。

 私のいちばんのお気に入りの写真が他人の「好き」になることはほとんどなく、むしろ自分にとって2番手、3番手くらいの写真が他人の「好き」に選ばれることが多い。気がする。

 でもまぁ、だからこそ部活でやることの価値があると思う。自分の中の「好き」と他人の中の「好き」をすり合わせて自分の中の「好き」を更新していく。めちゃめちゃ楽しい。 


「散步」岡山市旭川にて

 しかしながら写真部の中だけで評価を完結させることの弊害も確かに存在する気がする。
 写真を趣味に日常的に撮っている人とそうでない人とでは、同じ写真を見たときに感じる傾向というものがちょっと違う場合が多いんじゃないかな。

 もちろん万人受けする写真が絶対良い!というわけではないけど、同じジャンルの人とばかり話してたら凝り固まって出てこれなくなってしまうかも。

 写真に限らず、他人に見てもらうことをひとつの目的にしている芸術作品ってむずかしいね…
 自分が「好き」と思った作品をTwitterなどで見かけたときは少なくとも「いいね」は絶対しよう。
オモコロの永田さん曰く一億総発信時代。


「斜陽」厳島にて

 写真を撮って、それをレタッチ(編集)して__
を2年ほど繰り返して自分の好きな写真とはどんなだろうとぼんやりと考え続けてきたけど、明確に言語化できるようなものは何も得られなかった。

 ただ、自分の中に確かに存在する「好き」という何かと対話する作業が純粋に心地よくて、大学に入ってからは飽きずに続けられている。


「無題」岡山にて

 こういう見た時にパッと何が写っているかが判る情報量の少ない写真が好き。ほんとうに何でもないただのスナップ写真だけど、どういう時に撮ったとか、撮った時の気持ちとかちゃんと記憶に残っている。

 だけどこういう写真はほとんどが自分用なのかもなあ。


「流れる」岡山にて

 ほぼ毎月、部員の数人と先輩が運転してくれる車で星空を見に行っている。たのしい。
 流れ星が撮れた時は声をだして喜んでしまう。

 今週もまた見に行く予定だけど、晴れるかな…

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