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今日は晴れ!


きのうは10時まで惰眠を貪り、ご飯を食べて少しだけ本を読んで、気付いたらそこから3時間も昼寝していた。
めっちゃ寝たなーと思いつつ、いまだ夢うつつな頭に2つの言葉が浮かんできた。

「春眠暁を覚えず」(孟浩然『春暁』)
春眠不覚暁 処処聞啼鳥 夜来風雨声 花落知多少


「春はあけぼの」(清少納言『枕草子』)
春はあけぼの。やうやう白くなりゆく山ぎは、すこし明りて。紫だちたる雲のほそくたなびきたる。

正反対なようだけど、どちらも春の朝を意識させる。


春眠暁を覚えずはじゅうぶん体感しているけれど、春はあけのぼのはあんまり感じたことないかも。
そう思って今日は日の出を待ってみた。

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なるほど、これはをかしだ。
雨上がりだったからかもしれないけれど、空気が澄んでいる。空が高い。陽光は眩しさのわりにギラギラせず、あたたかい。ちぎれ雲は雄々しさも見せる。遠くの雲は長くどこまでも続いている。鳥たちは姿を隠してさえずりあう。
京都から見たら東の果てに位置する神奈川県央ながら、この土地なりの春の朝を感じた気がした。
(にしても、この日の出のときの写真で5時過ぎ。「山ぎは」がだんだん白くなるってことは、もっと早い時間ということだから、清少納言はずいぶん早起きしたんだな)


もともと僕は春が嫌いである。
春といえば新生活。新しい環境に人並み外れたストレスを感じる僕は、これまでの春に良い思い出はひとつもない。ただでさえ嫌な思い出を、またこの生ぬるい空気が思い出させるので、息もしたくないほどだ。
あと、虫が多い。それも嫌だ。


今年の春はこれまでとはだいぶ様子が違う。
コロナの外出自粛ムードのなか、僕の自発的自宅待機も、すでに2週間を過ぎた。
こんなに外の空気を吸わなかったのは初めてかもしれない。春の嫌な感じはしない。こんなに心穏やかな4月は史上初。

しかし一方で、季節感もほとんど感じていない。
冬には聞こえてこない小鳥の鳴き声は、春にしか許されていないもののように思う。それも、部屋の中にこもっていてはそんなに耳には入らない。音楽をかけていればなおさらだ。

都市化・住宅地化した生活の中で、視覚情報=目に入るものは、ほとんど人工物である。庭や植栽も人工的な自然だ。そんななかで、より自然らしい自然を感じるために残されているのは、音と空気だと思っている。
どちらも部屋の中では感じにくい。

感染予防のために、都市部を中心に多くの人が外出を控えている。単純に外に出る時間も減っている。
かつてレイチェル・カーソンは、農薬で虫が死に絶え、鳥もいなくなった歪な自然の姿を「沈黙の春」と形容した。これは文字通り鳴き声や気配の消えてしまったサイレントな状態だったわけで、今朝のことを思い出せばその奇怪さ、不気味さがわかる。春は死んでしまった。

今年はどうだろう?みんな春の訪れを感じているだろうか。そんな状況にあるだろうか、そんな余裕があるだろうか。

音を感受する者がいなければ、それは沈黙しているのと同然である。


今日、僕はこの朝を感じることができてよかった。
春が嫌いなことには変わりないが、今朝の春は心地よかった。

好き嫌いに関係なく、今年の春は一度きりだ。同じものは二度とは来ない。
清少納言の感じた、春のあけぼのはどんなだったのだろう。
この春を、殺さないようにしたい。

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