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大切な人の自死とグリーフをめぐる語り合い――wish you were hereの対話を通して|第8回 自殺と呼ぶか、自死と呼ぶか。2つの呼び方について思うこと。
0歳のときに自死で母親を亡くした筆者が、小学生のときに母を自死で亡くした友人とともに、自死遺族や大切な存在を自死で失った人たちとSNS等で繫がって対話をする活動と、それぞれの率直な思いを話し、受け止め合う音声配信を、約2年間続けてきました。10人のゲストの人たちとの、自死にまつわるテーマでの話しあいや、聞いてくれた方からのメッセージからの気づきと、筆者自身の身近な人の自死の捉え方や心境の変化、グリーフについての学び、大切な人を亡くした人たちへのメッセージを綴ります。
※この連載では、遺族の立場から、自死・自殺についての話をします。それに関連するトラウマ的な体験をしたことがある人や、死にまつわる話が苦手な方などは、読んで辛くなることもあるかもしれませんので、お気をつけください。
※月1回更新
昨年の6月から続けているこの連載のタイトルは、「大切な人の自死とグリーフをめぐる語り合い」。「自殺」ではなく、「自死」という言葉を使っている。同じ現象を指す2つの言葉、「自殺」と「自死」から受ける印象は、どう違うだろうか?それとも、同じように重たいですか?
これまで僕はこの連載のなかで、「自殺」と「自死」、両方の言葉を使って、自分自身の母の死や、(他のケースも含めた)自ら命を絶つ行為のことを表現してきた。この表記の使い分けについては、編集者の方と話しながら進めてきたのだけど、基本的には、僕自身がこの文章を書いていて、それぞれの箇所で自然と出てくる言葉を、つまり、自分のなかでしっくりくる方を、そのまま使わせてもらっている。その結果、母親の死を息子である僕が表現するという、行為者もそれを語る立場も同じ、一つの死であるにも関わらず、表現が”自死”だったり”自殺”だったりするから、読んでいて違和感を覚える方もいたかもしれない。
自分が感覚で行ってきた使い分けをやや強引に言語化するならば、たとえば前回の第7回のなかだと、1段落目の「母が自殺してから30年」はその日の出来事を自分のなかで(家族から伝え聞いた情報だけど)ある程度具体的にイメージしているから、より生々しさのある「自殺」という言葉がしっくりくるし、13段落目で、「初めて母の自死を家族から聞かされたときに思った」では、もっと抽象的というか、一つの事象として客観的に言いたいところだから「自死」になっている。こう考えると、僕の中では実際の具体的な場面を指すときは「自殺」、概念としてその現象を呼ぶときは「自死」という使い分けをしているらしい。ほかの箇所ではまた違った理由で、無意識的にこの言葉を使い分けている。
2022年の6月に配信したwish you were hereの対話その8でよだかさんと、「『自殺』を『自死』と呼ぶべきか」というテーマで対話をした。この配信のなかでよだかさんが、収録日の少し前にある場所で聞いた、「”自殺”を”自死”と言い換えるべき」と話す自死遺族の話を聞いて感じた違和感を語ってくれている。
今はどう感じているかはわからないけれど、当時のよだかさんは、「犯罪のような響きをもつ自殺という言葉を自死という表現に言い換えてほしい」という遺族の気持ちに理解を示しつつも、「(自殺した人を責めたい気持ちはないけれど)自殺自体はこれ以上起きてほしくないと思うから、抑止の意味で強い言葉を使うことも大事だし、表現を丸めても実態は変わらないわけだから、自殺という言葉をなくしてすべてを自死に統一するのは違う気がする」というような話をしていた。
この配信の後半では、NPO法人全国自死遺族総合支援センター(グリーフサポートリンク)が出している「自死・自殺の表現に関するガイドライン」(2013)のことをよだかさんが紹介してくれている。グリーフサポートリンクも、すべての自殺を自死と呼び変えることには反対して、丁寧な使い分けを推奨している。このガイドラインには、「多くの⾃殺は『追い込まれた末の死』として、プロセスで起きている」ことから、 その行為を表現するときや、予防、防止の文脈で語るときは「自殺」(「自殺防止」など)を、遺族や遺児に関する表現は「自死」を使う(「自死遺族」、「自死遺児」など)ことなどが書かれている。
収録中に僕は、「自殺と呼ぼうが自死と呼ぼうが、起きた現象は変わらない」などと、身もふたもないことを言ってしまっているのだけど、遺族のなかには表現によって傷ついたり、逆に救われたりする方もいるようだ。stand.fmのコメントに“自殺という言葉の禁忌感や、犯罪的なニュアンスに苦しんでいた”、“「自死遺族」という言葉を知ってから、自分をケアする方向に気持ちが向いて楽になった”と書いてくれている方もいる。
この収録の翌年の夏に、岡山県立大学の大倉高志先生の講演をオンラインで聞かせてもらっていた。国際ビフレンダーズ宮崎自殺防止センターが主催する講演会で、自殺/自死の定義や、それぞれの呼び方の問題点などについて語っておられた。そのなかで、「自殺も自死も『自』という言葉が頭につく。“自殺”は自分を殺し、倫理的に悪い死に方をしたというニュアンスがあるし、“自死”は、自分で望んで選んで死んだと解釈されることもある。いずれにしても『自』という文字が入っていることが問題なのだ」という話をされていた。多くの場合、自分の意志ではなく、死へと駆り立てられるような病気(精神疾患)で最期の行為に及んでいるのにも関わらず、「自」という言葉があるせいで、自己責任だとか、自らの選択だという解釈をされてしまうのだという。大倉先生は、正常な状態を失って不安定になるという意味や、「あやうくなる」という意味を持つ「傾く」という言葉を使って、「傾死」という呼び方を提案されていた。話のひとつひとつが共感できる内容で、僕はオンライン参加だったけれど、こういった話を、講演に参加されているたくさんの人たちと一緒に聞きながら考えられるのがありがたかった。
この話を聞いたあとで僕がぼんやりと考えていたのが、他の種類の死を表す表現、たとえば「事故死」や「病死」、「溺死」といった場合に、「死」という言葉の前に来るのはその原因、あるいはそのときの状況なのに、自死、自殺の場合はそうではなく、行為の主体が「死」(あるいは「殺」)という言葉の前に来るということだった。このパターンはおそらく、自死・自殺と他殺くらいだろう。
他殺という言葉は、他者が(行為の主体となるだけでなく)死の直接的な原因になっているという意味では「事故死」や「病死」同様の言葉の構成(原因+「死」)になっているともいえるけれど、自死・自殺の原因がその人自身にあるとは僕には思えない。どちらかというと(いろいろな理由から来る)抱えきれないストレスだったり、それによる精神疾患などが要因としては大きいのではないか。だとすれば、「ストレス死」とでも呼んだほうが、病気を治療して病死を防ぐように、事故の対策をして事故死を減らすように、その死を防ぐことに繫がりやすいのではないかとも思う。あるいは、対話その11「自殺はダメなことなのか」のなかで中村さんが話してくれていたように「精神疾患も病気なのだから、その結果である自死もまた、病死と呼べるのではないか」という意見にも、僕は共感する。
自死、自殺という呼び方について、また、この呼び方ゆえのタブー感についての議論が広がれば、遺族や残された人、あるいはその周りの人たちが、亡くなった人のことを考える見方も、少しは変化していくんじゃないだろうか。それぞれの感じ方、意見があるはずだ。これを読んでくれた方は、どんなふうに感じただろうか。
【著者プロフィール】
森本康平
1992年生まれ。0歳のときに母親を自殺で亡くす。京都大学で臨床心理学を専攻後、デンマークに留学し社会福祉を学んだのち、帰国後は奈良県内の社会福祉法人で障害のある人の生活支援に従事。その傍ら、2021年の冬、自死遺族の友人が始めた、大切な人を自死で亡くした人とSNS等で繋がって話をする活動に参加し、自死やグリーフにまつわる話題を扱う番組“wish you were hereの対話”をstand.fmで始める。これまでに家族や親友の自死を経験した人、僧侶の方、精神障害を抱える方の支援者など、約10名のゲストとの対話を配信。一般社団法人リヴオンにて、”大切な人を亡くした若者のつどいば”のスタッフとしても活動。趣味はウクレレと図書館めぐり。
“wish you were hereの対話”
https://lit.link/wishyouwerehere