4|桜-sakura-の大川と、「ひま」な人たち
如翺から寿さんへ
◇ 大川沿いの桜並木で
京都から南西へおよそ60キロ。
小さな旅を続けてきた淀川の流れは、大阪市都島区毛馬のあたりで新淀川と旧淀川とに分岐して、旧淀川(現大川)は真南へと向きを変えます。遥か大阪城を正面に望みながらも、流れはお城の手前でぐいと曲がって今度は西に。ほぼ直角に流れが折れるその角には、帝国ホテル大阪があったり、一般的な桜の時期に少し遅れて満開になる、造幣局の桜並木があったりして、今も人々が往来します。
私もこの辺りを散歩しながら、外国人観光客に紛れて桜―Sakura―の花々の下を通り抜け、川をはさんで大阪城―Osaka Castle―を眺めながら、テイクアウト用の抹茶ティーラテ―Matcha tea latte―か、抹茶ソフトクリーム―Matcha soft-serve ice cream―でも持っていれば、「日本なるモノ」の舞台装置の中で「日本なる姿」を演じることができるでしょう。「桜」、「城」といったキーワードも、日本イメージのワークショップには必ず上がって来そうです。
寿さんが書かれていて、なるほど、面白いなと思ったのですが、外国人が考える「日本イメージ」として「抹茶ソフト」が上がって来るかもしれない、とのことでした。「抹茶」という、一次コンテンツではなく、そこから派生したというか、ソフトクリームという別のモノと結びついた二次コンテンツも「日本イメージ」に十分食い込んでくる可能性がある、と。
そしてもう一つ、「抹茶」の生産量が増えている、という事実も、書かれていた通り、「抹茶」そのものを楽しむ需要が増えてきているわけではなく、「抹茶」を使った二次コンテンツの爆発的な増加がその背景にあるのでしょう。一次コンテンツとしての「そのもの」よりも、二次コンテンツあるいは三次コンテンツとしての「派生形」が増殖していく「茶」の発展の仕方の中で、どこまでが「純日本イメージ」に入って来るか、この辺りもワークショップで結果を見てみたいところです。
◇ 「ひま」を持て遊ぶ
「日本的」だということで、寿さんの中国人のお友達が「丁寧な暮らし」を挙げられたことも大変面白く拝読しました。
急須で茶葉からお茶を淹れて、茶碗に注いで飲む喫茶様式は、まさに「てま・ひま」を重視していると映ったのでしょう。たしかに私どもが玉露を淹れるときには、1煎目をお出しするまでに20分以上の抽出時間をかけることがあります。しかもそれで出て来るお茶はたった数滴。なんと非効率的な淹れ方でしょうか。
ただ私としては「てま」をかけてお茶を淹れている感覚はありません。むしろ淹れ方は本当にシンプルで、それよりもひたすら「ひま」を持て遊ばせている感覚です。お茶が出るまでひたすらじっくり待ち続けるのです。この「ひま」こそが最高の時間で、何をするとでもなく、ぼんやりと外を眺めたり、何を考えるとでもなく、ぼぉーっと頭を巡らせたり、ただ目的もなく筆を走らせたり、書物の上に視線を遊ばせたり、絵画の中に迷い込んだり。そこに仲間がいたならば、なおのこと楽しいでしょう。
江戸時代の大坂。
商人や武士や様々な人々が行き来したこの大経済都市。「煎茶」を介して交友し、交遊する趣味を持った人たちは、「ひま」を持て余し、持て遊ぶことを知る、本当に素敵な人たちでした。
江戸時代、大坂城の手前で淀川が西に折れるその角には、もちろん帝国ホテル大阪はなく、津藩藤堂家の蔵屋敷がありました。
そこに書斎(文房)を与えられた大坂の商人・岡田米山人(*1)は、「煎茶」を介して友人たちと「ひま」を遊んだ趣味人です。
ある日、淀川を渡って、友人が訪ねて来ました。やって来たのは、十時梅厓(*2)という人で、伊勢長島藩の藩校で学長も務めていた儒学者であり、書画作品も大変評価が高く、記録では相当愉快な性格だったようです。
この日のことを梅厓がちょっとした詩と絵に書き残しています。梅厓としてみれば、その日も米山人と「煎茶」でも飲みながら、淀川の流れを眺め、何を語るというでもなくただただ懶く時を過ごそうと思っていたのでしょう。しかし、……。
梅厓が描き残した巻物を見てみましょう。
淀川と思われる静かな水の流れと、向こう岸に広がる緩やかな山の連なりが描かれています。あとに詩が続きます。
この詩に添えて、「米山人に逢えなくて、この絵と詩を書いたから、机の上に置いて帰るよ」と梅厓が書いています。
この日、せっかく遊びに来たのに、米山人は不在だったのですね。そこで書斎に上がり込み、勝手に米山人の机で、目の前を流れる水の流れに涼みながら、かるく筆を取り、あまり書き込むこともなく、ゆるゆる、さらさらと、この絵とこの詩をしたためて、置手紙としてここに残しておいたのでしょう。
なんと「ひま」な話ではないでしょうか!(笑)
この、ゆるくて、やわらかい二人の交友というか、友情というか、遊びというか。
「ひま」を持て余して持て遊ぶ、この感覚こそが、私は「煎茶」を介した人と人との交わりだと思っています。しかもこの置手紙からわかる通り、「煎茶」を実際に飲んでいるわけでもないのです。逢えなかったわけですから。
造幣局の桜の通り抜けに出かけて行って、帝国ホテル大阪あたりまで大川沿いを散歩するとき、いつもこの巻物が私の頭に浮かび、米山人と梅厓との出逢えなかった「出逢い」を思います。「煎茶」を飲めなくても、抹茶ラテがなくても、抹茶ソフトがなくても、ここには、米山人と梅厓との「ひま」でゆるくてやわらかい交遊の空気が残っているように思えるのです。
「丁寧な暮らし」かどうかはわかりませんが、「ひま」を持て遊ぶ感覚は、お茶を介した「日本的」な交わりなのかもしれません。もっともこういうことは、「純日本イメージ」とはいくらか外れているようですが。
如翺 拝
寿 様
■注
*1 岡田米山人(1744-1820)は江戸時代後期を代表する文人。大坂で米屋を営んでいた商人であり、津藩藤堂家の大坂蔵屋敷に仕えた。詩書画を嗜み、特に書画では評判が高かった。交友関係も広く、大坂の造り酒屋にして書画文物の蒐集や詩書画の嗜みで名高い、浪花の知の巨人・木村蒹葭堂や、田能村竹田、頼山陽、浦上玉堂など、時代を代表する文人たちと盛んに交流している。
*2 十時梅厓(1749-1804)は江戸後期を代表する文人。儒学者として伊勢長島藩に仕え、藩校の学長も務める。詩書画を嗜み、特に書画は評価が高い。前述の木村蒹葭堂、上田秋成、大田南畝ら当時の名だたる文化人たちとの交遊がある。