星の味 ☆19 “あのころ僕らは地球で”|徳井いつこ
シュペルヴィエルを読んだのは、短編が最初だった。
「海に住む少女」のあと「セーヌ河の名なし娘」「ノアの箱舟」と読みついで、すっかり夢中になった。
堀口大學が「この詩人はありふれた手近な題材から破天荒なヴィジョンを引き出してくる魔法使だ。ファンタジーの奔放なことは、殆ど狂人の幻覚に近いものがある」と書いた、そのヴィジョンの強度に圧倒されたのだった。
といって、サイケデリックな原色が渦巻いているわけではない。どこかフレスコ画のような精緻と静謐に浸されているのだった。
そして、詩集を読みだして、気がついた。
詩の世界。それはまぎれもなくシュペルヴィエルの源泉だった。小説は、いわば散文の体裁をとった詩だったのだ。
「貝殻と耳」という詩。
だが 深い貝殻は
音をこめ、身をひそめて、
耳の来るのを待ちわびる
それがとうとう近づいてくる。
そして人間は 貝殻に出会い
その遠い響きに聞き入って
渦巻貝の奥からたぐり出す
目に見えない 海の糸を。
耳もまた 渦巻貝、
脳にまで届いていて
人間の深い奥底から
海の糸巻へたぐり寄せられ
波打際で つくづくと
外と中とを比べてみる
そのあいだにも 海原は
相変らず毛並を変えている。
詩人独自の「外と内」をめぐる思念、世界と人間の双方向の作用が、この詩に結晶していると感じるのは、私だけだろうか?
R・M・リルケ*は、亡くなる前年、パリで初めてシュペルヴィエルに会い、スイスのミュゼットの城館から詩集『万有引力』を読んだ感想を書き送っている。
「実に美しいものです。深淵をこえる一つの連続を生み出すものです。とどまるところを知らないという感じです。(中略)大きな物を動かし、私たちのみじめな人間的事物の無益さを有効に用いて、まるでそれらに星の暮らしを教え込まなければならないとでも言うような扱いをする習慣――その習慣によってあなたの腕がなまったというようなことは少しもありません。たとえば《焔の先端》のようなポエジーに見られる、やさしくも正確な軽やかさはまったくみごとというほかはなく、まるで人の書いたものとは思えません。」
一生を通じて 彼は
本を読むのが好きだった
ろうそくの灯で
それからよくかざすのだった
手を炎の上に
自分に言いきかせるために
生きている
生きているんだ と
死んだ日からもずっと
彼は自分のかたわらに
ろうそくを灯している
でも 両手は隠したまま
詩「焔の先端」について、人の書いたものと思えない、情念の指あとが残っていないと語るリルケが、手紙に書きつけた「深淵をこえる一つの連続」という言葉は、意味深長だ。
深淵。あらゆる事物、生物と無生物、生者と死者……およそ人間がつける区別、名称のあいだに横たわる境界という境界を、シュペルヴィエルはかるがると超えてゆく。
それはリルケの言葉を借りれば、「星の暮らし」、宇宙的ポエジーにつながってゆくものだ。
「地球への郷愁」という詩。
いつかある日 僕らは言うだろう。《あれは日の光の時代だったね、
そら 思い出すだろう、どんな小さな枝の先でも
年とった女もびっくりした若い娘も 同じに照らして、
それのあたった品物はさっそく自分の色をもらったものさ。
駈けて行く馬のあとを追い 馬が止まれば一緒に止まった。
あれは忘れがたい時代だった あのころ僕らは地球にいて、
何かを落せばいつでも物音がしたし、
あたりを見まわして目で何もかも見わけたし、
耳ではどんな風の具合も聞きわけ、
友だちの足音が進んでくれば それもわかった。
花を摘みもし なめらかな小石を拾いもしたが、
あの時代には 煙だけはつかまえられなかった。
ああ! 今となっては僕らの手に 煙以外はつかめそうもない》
詩集を編纂した批評家クロード・ロワは書いている。
「シュペルヴィエルの打った手というのは、巨人の使う手である。子どもを食べたりするのとは正反対の善良な巨人、“何光年もの長靴をはいた旅行者”であり、あまり背が高いので一目で世界を見わたし、あまり足が早いので同時にどこにでもいて、あまり心がやさしいので、どこへ行っても人間や獣や事物の自然な動きを邪魔したりかき乱したりしない。その柔和な大男の高みから彼が見る……」
シュペルヴィエルは、リルケに遅れること9年、南米ウルグアイの首都モンテヴィデオで、フランス人の両親のもとに生まれた。
生後10カ月で、両親の里帰りに伴ってフランスに一時帰国した際、水道水に含まれていた鉱毒で相次いで若い父母を失う。孤児になった彼はピレネー地方の祖母のもとで2歳まで暮らしたあと、ウルグアイ在住の伯父に引きとられた。9歳になるまで、伯父夫婦を実の父母と思っていたという。
彼は76年の生涯を通じて、フランスとウルグアイを往き来する生活を続けた。当時は片道3〜4週間かかったという船旅。いったいどれだけの時間を、海の上で過ごしたのだろう?
船影もない、ゆるやかにふくらむ水平線を見つめ続けた孤独の時間は、地球という惑星と、相対する自己の把握に、はてしない広がりをもたらしただろう。
僕の中にある夜、外の夜、
二つの夜がそれぞれの星をさらして、
うっかり混ぜこぜにしてしまう。
そんな いつもながらの夜のあいだへ
僕は力まかせに舟を漕ぎ入れ
それから止まって じっと見つめる
何とまあ僕が遠くに見えること!
僕は 底深い水にとりかこまれて
せわしなく鼓動しながら息づいている
ほんのかすかな点にすぎない。
夜が僕のからだを手さぐりして
まんまと僕を捕えたと言う。
だがそれは 二つの夜のどちらなのか、
外の夜か、中の夜か?
影は一つしかなく 循環していて、
空も血も一つのものでしかない。
とうの昔に消えてしまって、
僕は自分の航跡を 星のあかりに
やっとのことで見わけるのだ。
リルケが死の8日前に、ヴァルモンの病院からシュペルヴィエルに宛てて書いた手紙が残っている。はからずして、これがリルケの絶筆になった。
「重い病にかかり、苦しく、みじめに、つつましやかに病んでいて、私は一瞬、こんなところにも、このどことも知れぬ、人の世のものならぬ世界にも、あなたからの贈り物と、それが私にもたらすあらゆる影響とが、やっぱり届いて来たのだという、甘美な意識を味わっています。
あなたを思い浮べて、友なる詩人よ、そうすることで
私はいまも世界を思う、哀れな壺の破片が自分もまた土であったと思い出すように。」
末尾のサインは、「R・」で途切れている。
おそらく死苦のなかで書かれたであろうこの文章が、すみずみまでリルケその人であることに驚く。
「私はいまも世界を思う」
なんという言葉だろう。
死を目前にしてもなお、人は、世界を思うことができる……。
クロード・ロワは書いている。
「シュペルヴィエルはこのメッセージを、『ドゥイノの悲歌』の著者の最後の旅立ちの知らせとともにようやく受け取ることになるだろう。
世界を思うのをやめること、それは単に自分自身が無に帰すのを認めるだけのことではない。それはまた、われわれのおかげでかろうじて存在しているこの宇宙を消滅させることになるのだ。」
「とり囲まれた住居」という不思議な題の詩がある。
詩人と思われる「ものを書いている男」の家の窓辺で、山が語る。木立の葉むらが、川が語る。そして最後に、こんな文章が現れる。
でも星は一人ごとを言う――「あたしは一すじの糸の端っこでふるえているの
もし誰もあたしのことを思わなければ あたしは存在しなくなるの」
一すじの糸、とは何だろう?
それは、人間のまなざし、思い、夢みる力だろうか?
冒頭の詩「貝殻と耳」のなかでも、人は渦巻貝の奥から「目に見えない海の糸」をたぐり出すのだった。
糸の端と端にあるふたつの存在……。
その協働から、世界が生まれてくる。
リルケについては、第7回「星の味」で取りあげています。
よかったら、併せてお読みください。