見出し画像

近藤雄生、岸本寛史『いたみを抱えた人の話を聞く』の「はじめに」を公開します

創元社は、2023年9月、近藤雄生・岸本寛史著『いたみを抱えた人の話を聞く』を刊行いたします。
本書は、多くの吃音当事者に話を聞いてきたノンフィクション作家の近藤雄生が聞き手となり、エビデンス重視の現代医療に警鐘を鳴らし、患者一人ひとりの物語に耳を傾けながら治療を行う緩和ケア医の岸本寛史と言葉を交わした対話の記録です。身体的、心理的にいたみを持つ人たちの語りを、どのように聞けばいいのか? 生きていくなかで出会う苦しみや死と、どう向き合えばいいのか? そのような問いを巡って、人のいたみ、そして自分自身のいたみについての眼差しを深めてゆきます。
今回のnoteでは、刊行に先立ち、本書の中から「はじめに」を公開いたします。ご高覧いただけますと幸いです。

装丁・組版 納谷衣美

はじめに

 三〇年以上遡る一九九一年のこと。
 春に京都大学医学部を卒業したばかりの新人医師が、六月に京都大学病院で研修を始めました。その医師がまず受け持つことになったのが、石山さん(仮名)という七〇代の男性でした。
 石山さんは、食事中にえんして食べたものが喉に詰まり、そのまま心肺停止となりました。すぐに救命処置がなされたものの意識は戻らず、人工呼吸器によりかろうじて生命をつないでいるという状態に至ります。その数日後に、医師は石山さんの主治医となりました。
 医師にできることは限られていました。血圧や尿量の測定、採血をして血液データをチェックし、点滴の内容や人工呼吸器の設定を調節すること、そして、人工呼吸のために気管に挿入されている管からたんを取ることくらいでした。
 しかしその若き医師は考えました。せめて「そばにいる」ことくらいはしたいと。
 人工呼吸器につながれた石山さんは意識がなく、話をしたりできるわけではありません。それでも、ただ「そばにいる」だけでも、患者とつながれるのではないか。そんな思いがあり、医師は毎日夕方五時くらいに、病室に行きました。人工呼吸器が酸素を送る音と心電図モニターの電子音だけが響くその部屋の中で、五分から一〇分ほど時間を作り、石山さんのそばにいました。椅子に座り、手をさすり、妻や娘さんから聞いた話を思い浮かべ、彼の人生に思いを巡らせる。自分自身も人工呼吸器のリズムに合わせて呼吸をしたり、石山さんの視線の先にある天井の模様を眺めたり。そうして患者に波長を合わせようと試みつつ、ときに声をかけながら、ともに時間を過ごしたのでした。
 石山さんは約一カ月後に亡くなります。その間、一度も話を聞くことはできませんでした。しかし医師は、その経験をきっかけに思うようになります。医師という存在にとって何よりも大切なのは、ただひたすら「そばにいる」ことなのだ、と。

身体からだの問題と心の問題は切り離せない

 その医師とは、岸本寛史きしもとのりふみ氏です。がんを専門とする内科医として京都大学病院などに勤め、現在は、静岡県立総合病院の緩和ケアセンター長/緩和医療科部長を務めています。進行したがん患者など、心身ともに大きな困難を抱えた方たちと日々向き合っています。
 岸本氏は学生時代、医学を学ぶとともに、りんしょう心理学に興味を持ち、積極的にその研究の現場にも足を運びました。そして、医療に心理療法的な観点を取り入れることが重要だと考えるようになり、実践を重ねてきました。がんなどで苦しむ患者に対して、ただ、身体的な治療を行うのではなく、患者一人ひとりとつながり、その言葉や訴えに耳を傾け、そばにいる。その苦しさを可能な限り受け止めて、それぞれにとって最適な治療や向き合い方を模索してきました。
 患者の苦しさや訴えに耳を傾けようという思いは、医師であれば多かれ少なかれ誰でも持っているものかもしれません。しかし、それを診療の現場で実践している医師は決して多くはなさそうです。というのも、身体の問題を扱う医学と心の問題を扱う臨床心理学では、目的も方法論も異なり、両者の観点はときに対立する点や相矛盾する点もあるからです。実際、医療の現場でも、治療の過程で患者に心の問題が生じた場合などは、心の専門家であるカウンセラーや別の精神科医に任せるという考え方が一般的であるようです。

エビデンスからこぼれ落ちるもの

 身体の問題と心の問題が切り離されがちなのは、現代の医療において「エビデンス(根拠・証拠)」が重視されることとも関係していると考えられます。
 医療において、ある治療法が有効かどうかを評価する際に用いられるのが、多数の事例から得たデータを統計学的に解析して得られるエビデンスです。それは理にかなったことではある一方で、あまりにもエビデンスが重視されるようになったことで問題も生じています。それは、簡単にはデータ化できない個々人の事情やそれぞれの感情や内面の問題が考慮の外に置かれがちになることです。結果、身体の問題の解決を目指す際に、心の問題はひとまず考えなくていいものとされるようになっているのです。
 しかし実際には、身体の問題と心の問題は、一般に考えられている以上に密接につながっている、と岸本氏は考えます。両者を簡単に切り離すことはできない。データ化できなくとも、患者が語る思いや、医療者がそれをどう受け止めるかは、その人の身体を治療する上で大きな意味を持つ。岸本氏は、医学的観点と臨床心理学的観点の両方を身に付け、かつ臨床を重ねるなかで、その確信を強めてきました。
 患者一人ひとり、状況が異なり、経てきた人生も人生観も違う。そのため、どんな治療法がその人にとって最適なのか、その人が求めているものは何なのかは、決してみな同じではない。統計学的に導き出されたエビデンスだけからは見えてこないその部分を、岸本氏は、一人ひとりの話を聞き、そばに寄り添うことから、探り続けてきました。
 たとえば現在、苦痛を訴える終末期のがん患者に対しては、鎮静剤によって意識のない眠った状態にするということが広く行われています。結果として、そのまま最期の時を迎える人が多くいます。しかし岸本氏は、鎮静を行うことにはとても慎重な立場です。苦痛を訴えたら鎮静する、のではなく、苦痛の内容を問い、患者のつらさを聞き続けることのなかにこそ、患者のつらさを本当の意味で和らげる道が開けるのではないかと考えるからです。そして、近年の著作の中で、このようにも書いています。

 仮に持続的鎮静を行うとしても、苦痛を和らげてくれる緩和的治療を行っているとみなすよりも、力になれなかったことを申し訳なく思い、さらに、鎮静が始まっても息が絶えるまで、意識があるときと同じように傍にいて話を聞いていくという姿勢を持ち続けたいと思う。
(『迷走する緩和ケア』一六一頁)

 岸本氏のそのような姿勢に強い共感を覚えたのが、創元社の編集者、内貴麻美さんでした。医師としての岸本氏のあり方を広く伝えたい。彼女はそう思い、そのような一般向けの本を作りたいと考えます。岸本氏のこれまでの著作は、どちらかといえば、医療の専門家に向けたものだからです。そして私、近藤雄生に連絡をくださいました。
 早速、岸本氏の著書を読んでみると、私も共感し、想像していた以上に心を打たれました。読んだ著書にはいずれも、実際に岸本氏が受け持った複数の患者さんの、たどった経過や交わされた対話が詳細に記され、分析がなされていました。そのやり取りや患者さんへの視線から浮かんでくる岸本氏の人柄や医師としての視点には、強く惹かれるものがありました。理知的で論理的に物事を考える姿勢をしっかりと持つ一方で、論理では説明できない人の心や、現在の科学の言葉では理解や説明が困難な事象も、決して切り捨てずに考慮する。そしてそのような、自身の理解が及びがたいことの中にもなんらかの意味を見いだそうとするさまは、極めて真っ当に感じられました。冒頭の石山さんに対して「そばにいる」ということを続けたときと同じ姿勢を、その後もずっと持ち続けている医師なんだということが伝わってきました。
 実際に岸本氏に会うと、著書から受けた印象とたがわない雰囲気を持った方であるのを感じました。低姿勢で物腰がやわらかく、じっくりと話を聞く。また、確固たる医学的、心理学的知識や経験をもとに理知的に話す一方で、わからないことはわからないと言い、決して大風呂敷は広げない。歩く姿勢などの立ち居振る舞いもどこか、他者への優しさがにじみ出るような感じのする方に見えました。
 以下、岸本先生と書きますが、そんな岸本先生が何を大切にして、どのような実践をしているかを知ることは、おそらく多くの人にとって、医療のあり方を考える上での重要な視点を得ることにつながるのでないかと感じました。さらに、岸本先生の、患者さんたちに向き合う姿勢、困難な状態にある人の話を聞く姿勢には、誰しもにとって重要な示唆が含まれているように思いました。
 そうして、この本において何をテーマにするべきかが、見えてきたのでした。

いたみを抱えた人の話を聞く

 それは、「いたみを抱えた人の話をどう聞くか」ということです。
 このことについては、私自身、少なからず考えてきました。私はかつてきつおんをテーマにしたノンフィクションを書いたのですが、その過程で多くの吃音当事者に話を聞いてきた経験は、まさにこのテーマと向き合い続けることでもあったからです。
 吃音、つまり、話すときにどもることは、たとえ周囲からはそれほど大きな問題に見えなくとも、当事者にとっては、ときに、生死にかかわるほど深刻な悩みになります。私自身が当事者であり、長年吃音の悩みを抱え、生き方にも大きな影響が生じたために、そう実感しています。
 そして自分と重なる悩みを持っている人たちに話を聞いてきたなかで、自分はどうやって彼らに向き合い、話を聞けばいいのか、ということをたびたび考えてきました。何が正解かはわからないまま、考えたことをなんとか実践に移し、文章にするという作業を行ってきました。
 しかしそのような経験を重ねても、こうすればいいんだ、という答えのようなものが見いだせたわけではありません。その後も、さまざまないたみを抱えた人と話すたびに、どうやって話を聞くべきかがわからずに、右往左往してきました。
 一方自分自身も、どう生きていけばいいのか、といったことで悩んだり葛藤したりすることが多く、自分の内部にあるいたみについても少なからず自覚的に考えてきました。それゆえに、このテーマであれば、自分が岸本先生の聞き手となり、一冊の本の書き手となることにも意味があると考えられるようになりました。
 冒頭の石山さんの事例、岸本先生がそばで手をさすりながら意識のない石山さんに話しかける場面を読んで思い出すのは、二五年前に亡くなった祖母のことです。私が生まれたときからずっと一緒に暮らし、第二の母親的存在であった祖母は、私がまだ大学生だったある日、思いがけない形で突然、死の淵に立つことになりました。その出来事の日に遠方にいた自分は、叔父からの電話で祖母が危篤状態になったことを知り、きゅうきょ地元に戻り、病院に駆けつけました。そして、すでに意識はなく、機器につながれた状態でベッドに横たわる祖母と対面することになりました。
 表情はなく、かろうじて呼吸だけしている祖母を前に、私はただぼうぜんとしながら手を握り、顔に触れたりしていました。自分が生まれてからそのときまでの二二年間、ずっと自分を見守り続けてくれた存在だっただけに、すぐには実感が持てませんでしたが、その一方で、しかしどこかで、いずれこんな日が来るかもしれないと予想していた面もありました。そのように絡み合った心情で私は、しかし大切な人がまもなく自分の前からいなくなろうとしていることの重大さと大きな悲しみだけは確かに感じながら、祖母にたびたび、何やら話しかけたような記憶があります。
 そのときどんなことを話しかけたのか、いまではまったく定かではないものの、岸本先生の、それでもつながろうとする姿勢を知り、そして、ただ「そばにいる」ことの大切さを訴える言葉を読んで、そのときの自分の気持ちも、もしかしたら祖母に届いていたのかもしれないという気がしてきました。
 岸本先生は、一見してわかりやすい実績のようなものが多数ある医師、というわけではありません。でもいま、患者を前にしてもパソコンの画面ばかりを見ている医師が多いなか、岸本先生のような医師こそ、社会は必要としているのではないかと感じます。

 本書は、岸本先生と私の対話の形で書かれています。
 各章、冒頭でまず、その章のテーマや関連する事柄について私なりに考えたことを書いています。そのあとに対話へと入っていきます。岸本先生に私が尋ねていく形で、いたみを抱えた人の話を聞くということについて、そして人が抱えるいたみについて、掘り下げていきたいと考えています。
 何か決まった答えがあるわけではありません。ただ私自身、岸本先生の考えや姿勢を知り、対話を重ねることを通じて、いたみについて、死について、さらには自分の弱さについて、さまざまなことを考えるようになりました。そして自分なりの、ある気づきへと至ることになりました。
 読者のみなさんにとっても、いまそれぞれの中にある何かについて、新たな光を届ける一冊になっていればと願っています。

近藤雄生(こんどう・ゆうき)
1976年東京都生まれ。東京大学工学部卒業、同大学院修了。2003年、旅をしながらライターとして活動しようと、結婚直後の妻とともに日本を発つ。オーストラリア、東南アジア、中国、ユーラシア大陸で、5年以上にわたって、移動・定住を繰り返しながら月刊誌や週刊誌にルポルタージュなどを寄稿。2008年に帰国。以来、京都市を拠点に執筆する。著書に『吃音 伝えられないもどかしさ』(新潮文庫)『旅に出よう』(岩波ジュニア新書)『遊牧夫婦』(角川文庫/ミシマ社)『まだ見ぬあの地へ』(産業編集センター)『10代のうちに考えておきたい 「なぜ?」「どうして?」』(岩波ジュニアスタートブックス)『オオカミと野生のイヌ』(共著、エクスナレッジ)などがある。大谷大学/放送大学 非常勤講師、理系ライター集団「チーム・パスカル」メンバー。ウェブサイトhttps://www.yukikondo.jp/

岸本寛史(きしもと・のりふみ)
1966年生まれ。1991年京都大学医学部卒業。内科医。富山大学保健管理センター助教授、京都大学医学部附属病院准教授を経て、現在、静岡県立総合病院緩和医療科部長。主な著書『せん妄の緩和ケア』『迷走する緩和ケア』『がんと心理療法のこころみ』『バウムテスト入門』『緩和のこころ』(誠信書房)『緩和ケアという物語』(創元社)『ニューロサイコアナリシスへの招待』(編著、誠信書房)『がんと嘘と秘密』(共著、遠見書房)。主な訳書『神経精神分析入門』(青土社)『意識はどこから生まれてくるのか』『なぜ私は私であるのか』『ユングの『アイオーン』を読む』『キリスト元型』(共訳、青土社)『ナラティブ・メディスン』(共訳、医学書院)『バウムテスト第三版』『関係するこころ』(共訳、誠信書房)ほか。