【連載】すべてのひとに庭がひつよう 第13回|この道|石躍凌摩
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第13回 この道
1
子どもの頃から今も変わらず、夏には負けてばかりいて、庭の仕事でもなければ、終日寝てやり過ごすのが関の山である。ひきこもりの性質ではない。むしろ私には、その才能があまりにとぼしく、一日家を出ないだけで簡単に鬱になってしまう。そのようなわけで、夏を通して、深くはないが果てしもないような軽鬱に見舞われることになる。家で倒れているほかなくなる。冬眠よろしく、夏眠である。
とはいえ熊のように覚悟を決めて眠り込むこともならない。三日も経てばさすがに毒が回ってくる。そうしてきょうの日も暮れかかる土壇場になって、このままではいけないと火のついたように出掛けた散歩道で、住宅街の細い路地の、左側に軒並み続いている平家と歩道とを仕切るブロック塀の、その中程に開いた透かし穴から、野葡萄の蔓がこちらに垂れ下がっている。よく見ると、その葉に見え隠れするように、いくつもの小さな実を付けているのに気が付いて、たまらず秋の近付きを感じて、瑞々しいこれらの緑の珠が、いずれ青や紫に染まる頃には、いよいよ深い秋となるか、と思った瞬間、それまで止まっていた時計の針が巻きなおされたような、その音が遠くに聞こえた気がして、透かし穴から道にこぼれた夏の緑の瑞々しい珠に、夏中ひきずった軽鬱の、ようやく明けはじめるきざしを見た。忽ち吹いてきた秋の風に、不甲斐なく過ぎていったひと夏を振り返る心地がした。
2
川沿いにあった古い趣のある家が壊されて、そこに裸の地面が日に晒されているのを、もったいないような、あるいはせめてこのまま野に還っていくのを見ていたいような気持ちになるのも束の間、あらたに家が建つ旨を知らせる看板が立ち、ついで工事の為の仮小屋が建ったかと思うと、忽ちつまらない家が建った。こんなことをして誰が買うのだろう、と思うのもまた束の間のことで、まるで何事もなかったかのように、新しい生活が営まれはじめる。
ここに住みはじめた新住人はしばらく、近隣の住人や、目の前の川沿いの道を行き交う通勤者や散歩者の喪失感を、何も知らないで、一挙に引き受けて暮らすことになりはしないか、といらざる心配が湧いて出る。それもやはり束の間のことで、喪失感もいつしか霧消して、記憶は忘却の大河へと流れていく。
そんなことを思いまた忘れて日々を送っている自身が、さて何を踏まえて生きているのか、何も知らないで、平然として、と足元を掬われることになったのは、この七月の、梅雨の明ける間際のことだった。
どうも今年は空梅雨かと思われた、その終わり際に、福岡では二日にかけて大雨が降った。初日はおよそ絶え間のない雨続きで、この調子では翌日も終日籠っているほかないだろう、と寝床から窓の外へ耳をやっているうちに眠りに落ちて、翌朝目覚めてみると、雨は小止みになっていた。ところへ大阪から心配の声が届いて、こちらは大したことがないので安心してほしい、と返してから、ふと気になってニュースに目を通したところで、筑後川が氾濫したことを知った。特に久留米の辺りに甚大な被害が出ているという。
久留米といえば、半月ほど前に二本木の庭(*1)の植物を仕入れに行ったばかりで、市場の手前で大きな川を渡るがあれがそうか、と調べてみれば、やはりそれが筑後川であった。またそれが、これまでも頻繁に氾濫してきたことから暴れ川と呼ばれていることも、このたびの洪水で初めて知った。
雨のあがった夕暮れの散歩に、家から程近い樋井川はどうなっているかと気になって見に行くと、いつもは透明に近い水が茶色く濁り、水嵩は普段にないほど増してはいるが、それでも堤防の半分にも満たないほどで、流れはあくまで穏やかに見えた。それが現の光景ながら、何かまやかしを見せられているように感じて、しばらく茫然とその濁流を眺めていた。何も知らないで被害に遭った人が多くいる一方で、何も知らないで安息している自身の身の上がこだわられた。
思えばこれまで、田島、友丘、草香江と、福岡市内を転々としてきたものの、広く見ればいずれも、樋井川の流域の内に暮らしてきたことになる。そうして足掛け三年足らずになるが、樋井川が氾濫しそうになった覚えはついぞなかった。そもそもこの川はどこから流れて来るのか、と今さら思いあたって調べてみると、その源流は油山まで辿れるという。調べるまでもなく、それは今もこの川の向こうに悠然とそびえて見えるではないか、と我ながら呆れる。
油山といえば、仕事で出た植物残渣を処分する施設があるためによく通う、最も身近な山でもあり、地図で見たところ、源流もまたその施設から程近い所にあるようだった。そこから市内を蛇行して、私の歴代の家々の程近くを流れながら、やがて博多湾へと注ぐ。その河口近くには、これもよく通う図書館がある。
と、こうして地図で辿ってみるまで、目の前を流れる川と、その源流である油山と、図書館に近い河口とが、同じ一本の川で結ばれていることなど、とうてい思いもよらなかった。ここでこうして生きているという自明の事が、にわかに覚束ないように感じられた。
3
所用を済ませて帰る道を、少しでも涼しい方、陰となる方、風のある方へと歩いていくと、城址の周囲をとり囲む小高い雑木林へと辿り着いた。普段は近道に流されるまま久しく目もくれなかったその林中の、舗装もされていない登りくだりのけもの道が、酷暑に炙られたこの身には、いつになく優しく感じられた。楠の根の段々に隆起するあまり、そのまま階段のようになった登り道の途中の根上がりに腰を下ろして、背中を吹きつける風に身をあずけてから、頭上高くにさしかわす木末の天蓋を見上げたところで、世間の喧騒から一時外れたような心地がした。
世間ではいましがた、地球温暖化という言葉ではおさまらず、事態はもはや地球沸騰化の様相を呈している、との公表がなされたところだった。だが、その地球とはいったいどこのことなのか。ことここにおいて、その言葉はあまりにも虚しく聞こえる。「人々は生きるためにこの都会にあつまってくるらしい。しかし、僕はむしろ、ここではみんなが死んでゆくとしか思えないのだ」という、リルケの『マルテの手記』の冒頭が思い出された。
腰を上げて、楠の根に持ち上げられた地面を階段にして登り切ると、なだらかに向こうにくだっていく雑木林が広がっている。その木の間を縫うようにしてさらに歩いていくと、忽然と顔に枝葉がぶつかって、見るといくつもの実がなっている。薄赤いのや、なかには黒く熟れたのもある、パチンコガム大の、と仔細に見詰めても、すぐにそれとは知れず、樹木の総体に眼をうつしたところで、ようやくそれが非常に大きい犬枇杷であることに気付いた。
犬枇杷といえば、街中にもその実生がよく生えている。たいていは幼い間に草もろともに刈られてしまうが、その目をかいくぐって大きく育ったものはそれなりに見映えもするからか、マンションの植え込みなどに眼を凝らして歩いていると、時折り、まるで初めからそこにあったかのように澄ました顔で生えているのを見かける。
犬枇杷というが、枇杷にはそれほど似ておらず、雄の木になる実は味気がないが、雌の木になる実が無花果のような味のすることから小無花果という別名もあって、昨年など、実がなっているのを見かけるたびに口にしては、雄か雌かを占う遊びをよくしたものだ。
こうして散歩道につのった愛着もあれば、誰にも見向きされないらしいいじらしい境遇にかえって惹きつけられていたこともあり、いつか庭に植えたい植物の筆頭に名を連ねる犬枇杷であったが、こんなにも大きく伸びやかに、どこか荘厳なまでの立姿は見たことがなく、世間のありとある庭への口惜しさがさらにつのった。
木の間を悠然と抜けて、おしまいに舗装された階段をくだると、通称「けやき通り」に出る。またしてもこの憎たらしいほどの陽射しだ、と足早に木陰に這入ったところで、数年前の、福岡にはじめて降り立った五月のとある初夏の日を思い出した。
福岡の初夏はすでにして暑く、陽射しをもろに受けての散歩にさすがに疲れを覚えはじめたところで、この道に差しかかった。瞬間、けやきの木陰に包まれて、ふっと息を吹き返したあのときの身体の感覚が、いまに蘇るようだった。
あのとき、福岡は大阪と違って、街路樹を雑に切ることをせず、悠々と伸びていくままに任せていて、本当にいい街だと思ったものだが、後に福岡に住み着いてから、見るも無惨な街路樹管理の現実をいくつも見ることになった。それからまた何年かして、この道のけやきは無剪定管理という方針がとられている全国でも有数の特区なのだと知った。
ところで、こうした素晴らしい営みを、政治家たちはいつまで特区に留めておくつもりなのだろう。気候問題が毎日のように騒がれているこの期に及んで、私たちの——ひともひとでないものも含めて、わたしたちの——なくてはならない樹木を、見るも無惨に剪定、時に伐採までしてしまうというのは、果たしてどういう了見なのだろう。
ここらで一旦落ち着いて、涼しい緑地や庭の木陰で頭を冷やして考えてみれば、気候はすぐには変えられなくても、ほんのささいな緑地や庭の植物でさえ、この地上の温度を下げる一翼を担っていることに気が付くのではないだろうか。あるいは気候問題というような言葉は、こうした素朴な事実をかえって見えづらくしてはいないだろうか。いついつまでに二酸化炭素をこれだけ吸収するなどと、いくら喧伝されたところで、雲を掴むような話にしかきこえない。このような言説は、かえって私たちを気候変動の一方的な被害者の立場に追いやるばかりではないか。
あるいは地球沸騰化というが、どこもかしこもひとしなみに沸騰しているわけではなく、ほんのささいな緑地や庭であってみても、灰色のアスファルト平原にくらべて涼しいことは、そこに計りを持ち出すまでもなく、肌でわかる筈だ。そうした涼しさの特区が少しずつ増えていけば、破線も遠くからはひと連なりの線に見えるように、いずれ気候問題解決の一助になる筈ではないだろうか。
かくして、私たちが庭に憩うという、一見長閑ないとなみが、長閑なままに政治的でもあるということを、この夏の酷暑に何度思ったか知れなかった。
4
過ぎた夏を、いまさらとりかえすこともならないが、今宵はせめてもうしばらく足にまかせて歩いてみよう、と住宅街のさらに奥へと足を運んだところで、ふいに甘い香りがかすめた。まぎれもない、無花果の香りだった。きっと近くの庭に植えられているのだろう、と目で見るよりも香りばかりを分けて行くと、いかにも大きな無花果が庭の一角を占めている家に行き当たる。成り年なのか、立派な枝振りにたくさんの実をつけて、今しも色づきはじめている。
そこを通り過ぎてから、夕闇の道にふいにかすめた甘い香りを、その姿も見とめないままに無花果とかぎつけて、すかさずその香りの在処までつきとめた自身を、何者なのかと今さら訝った。果たして何時何処で身につけた能力だ、と記憶を辿ると、数年前の秋に囲んだ食卓の風景を思い出した。
そこはとある料理家の営む、古い建物を改装したお店で、その物置きに長らく仕舞ってあったという、百年以上前に織られたらしい蚊帳をほどきに来るよう頼まれたので、一緒にどうか、と友人に誘われるままに伺うことになった。昼に着いてから辺りを少し散策した後、件の蚊帳を、いくつもの布を継いでつくられたそれを、二人で手分けして縫い目をひとつずつほどいていく。何の為にそれをほどいていたのか、今となっては思い出せない。初めは話をしながら気楽に手を動かしていたところが、気付くと無心に、いつしかほどいていく手ばかりになって、ひたすらにほどいているうちに夜になっていた。
御礼にまかないをつくったから食べて行って、と細長い木の卓に通されて、そこで料理が運ばれるのを友人と待っていると、台所から漂ってくる芳しい煮炊きする香りの底から、それとはまた明らかに異なるこまやかな甘い香りがつたってくる。料理が運ばれてきたところで、この甘いのはお香ですか、とたずねると、お香は焚いていないけれど、どれのことだろう、と言うので、またしばらくその香りの在処を探っていると、もしかして、これのことかな、と卓の真ん中に重ねてあった枯れ葉を手渡された——それが無花果の枯れ葉であった。顔に寄せると、あまりの香りよさに、どこか人工を思わせもする、アジアン雑貨店にあってもおかしくないような甘い香り。
いい香りがするから、お香代わりに捨てずにとってあるの、と彼女は言った。植物に目覚めてから五年ほどが経っていたが、無花果の葉がこんなにも香ることを知ったのは、このときが初めてであった。そのことを伝えると、生でも香るんだけど、乾かした方がさらに香るから、と彼女は言った。それからお茶にもなるし、これでお結びを包むと香りがほのかにうつっておいしいのだとつけくわえた。
日々の暮らしに植物を役立てることにおいて、もっとも優れているのは料理をする人だと私は思う。なかでも彼女は、野菜や穀物、果物など、主として植物を使った料理を作る料理家であった。そうして私がつくりたい庭もまた、その料理の元となる植物、ひいては人が生きていくことの根本に関わる植物のための庭なのだと、彼女の滋味深いまかないを食べながら、深く噛みしめるようにして思ったのを覚えている。この食卓を囲んだのはちょうど、庭の修行のために福岡から大阪に帰る間際のことであった。
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近所をさすらう散歩のほかに、自分でつくった庭のチラシを配り歩くという散歩もある。むしろ独立してからは、どうせ歩くなら営業を兼ねようというケチな——というのは、散歩とは本来何のあてもなく、足の向くまま気の向くままに歩くことを愉しむものだと思うから——算段から、こちらに多く流れている。不甲斐ない夏の間にも、何度かこれに出掛けた。鬱になる度にこれに出掛け、道中次第に恢復することを繰り返しては、歩かないと生きていけない身分でよかった、と自身の境遇を祝福した。歩いても歩かなくても生きていけるなら、ついつい歩かずに過ぎて、いよいよ深い鬱に苛まれるだろう。そうなればいずれ身がもたないことは、すでに幾度も経験済みであった。
歩かないと生きてはいけないどうしようもない病が、いまや仕事にまでなっている、と辻にさしかかったところで、これまで来た道を振り返るようにしてそう思った。はじめは自身のどうしようもない鬱を、とにかく散らすための散歩であった。十代の終わりの、心身ともに塞ぎ込むような厳冬期の鬱にはじまって、迎えた季節の変わり目の、あの大地の蠢めくような春の芽吹きにあてられて、この身もろとも芽吹きだすような強烈な感覚の起こったのが、思えば最初の鬱明けであった。これと時を同じくして、植物に目覚めることになる。
それから今日まで、鬱と恢復とを折々に繰り返すようにして歩いてきたが、この道に見える植物たちのつくりだす風景が、そのままある種の庭の風景であることに思いあたったのは、歩きはじめてから七、八年もして、ジル・クレマンの『動いている庭』を読んでからのことだった。曰く庭とは、自然と人間との関係の現実であると。この定義をたずさえて歩いていると、人がつくった庭はもちろんのこと、舗装された道路のあるかなきかの隙間から、ひとりでに植物が生えている風景まで、どうかすると庭に見えてくる。
山里よりも人里の方が見られる植物の種類が実は多いのだとはよく聞かれる。つくろうとしてつくられた庭ではなく、自然と人間との関係の仕方に、思いがけず生じた庭である。こうした庭に遭遇するたび、私はスピノザのいうコナトゥスという概念を思い出す。それは生物がみずからを維持しようとする力や傾向のことで、医学的には恒常性維持とも呼ばれて、どの生物にもおのずから備わっているのだという。思うに、散歩道の至るところでひとりでに生じている庭とは、この惑星がみずからを維持しようとする力のあらわれではないだろうか。
こうした力のあらわれに、歩く道々、私は何度救われてきたか知れない。人がつくろうとしてつくった庭にもまして、道端で思いがけず遭遇する庭の、俗に雑草と呼ばれて見向きもされない植物たちにより多く救われてきたのだった。そのような私が、今では庭をつくることを仕事にしている。
そうして、仕事をはじめてから気付くことになったのは、こうした惑星の力との終わりなき闘いの上に、ようやく人のつくりなす庭が成り立っているという事実であった。そうした現実を重々承知したうえで、何を戦う必要があるのか、むしろこうした力を借りることによって、見たこともない普通の庭をつくれないものだろうか、と歩く道々に、度々そう思う。
見たこともないと言っても、散歩道にはいくらでも散見されるから、むしろこちらの方が普通だろうと思うのだが、存外見つからない庭というものがある。たとえば庭に、蓬を植えている人が果たしてどれだけいるだろうか。生えて来て困るから抜いている、あるいは抜け切れないで困っているという庭ならいくらでもあるが、これを歓迎している庭というのをほとんど見かけないのは何故なのか。
思うに、雑草というレッテルが、蓬を見る眼を曇らせているのではないか、というのが私の見立てである。食用、薬用、観賞用、といずれにとってもふさわしく、手をかけずともおのずから育ち、おのずから増えてくれる、こんなに素晴らしい草もそうそうないというのに、庭ではほとんど見られないのだから、この雑草というレッテル、ないしそこから来る駆除しなければならないという強迫観念は相当強力なのだろう。利用しない人の身になってみれば、あるいはこれほど恐ろしい草もないのかも知れない。
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チラシを配りに歩く際には、事前に地図でエリアを絞ってから、気の向くままというよりも、そこに道のあるかぎり、すべてを歩き尽くすような道程となる。そのようにして歩いて行きながら、庭のあるところ全戸に配るわけでもなく、多少は選んで配ることにしている。
例えば、ここはおそらく施主自身が手をかけているだろう、と一目で分かる庭にはあえて配らない。またこれと似たところで、他人の手を借りるまでもないだろうという庭にも配らない。それから、日本庭園のようなつくりの庭も、それが放置されているならまだしも、見るからに腕の良い職人が出入りしてそうな気配があれば、もとよりあまり興味もないので配らないことが多いが、最近はその自分を逆手にとって配ることもある。要は気分なのだが、その気分がどのように喚起されるかといえば、自分がこの庭を手入れするならどうするだろう、と庭を通り過ぎる一瞬の内に見立てる習慣から来ている。つまり傍目には道を歩く一介の散歩者でありながら、もうひとりの私は庭に入って立ち働いている、というような、さながら分身のような境地を踏んで歩いていることになる。
そのようにして、これまでに約四千枚のチラシを配ってきた。配っていないさらに多くの庭も含めて、個人宅に限っていえば、大抵の庭は見てきたという感慨がある。そのなかで、心惹かれる庭というのは、ほんのひと握りでもあればよかったが、実際はひとつまみくらいのものではないか。
そうした庭に共通しているのは、人が生きるためにつくった庭、もっといえばその人が生きているがために生じた庭だということだ。私はこれを指して、家庭料理的な庭と呼んだりもする。生きるためにつくられる、別に誰に見せるわけでもない、自分のための、あるいは家族のための料理としての家庭料理。そう聞いて、それぞれに浮かび上がる絵があるのではないだろうか。ところが庭となると、これがなかなか見つからない。かわりにこの眼に映るのは、あくまで生活の外にあり、木が植わっていれば、綺麗であれば、隣近所に迷惑をかけなければ、それでよいというほどの庭であり、一見色々あるように見えても、生活という嘘のない基準に照らして見れば、みな同じように見える。
しかし、庭が生活にとって欠かせない生命線であるという見方は、所詮が脇道なのだろう、王道からすれば。あるいは広すぎて道とも見えないものを、知らずに踏んで生きていることがありはしないか。
7
思い出したかのように、ふいにまた無花果の香りが漂う。夕闇に辺りを見回しても、すぐにはその見当がつかない。錯覚か、とさして気にも留めずに歩みをすすめた先に、さっきよりひときわ大きい無花果が、私の背より高い壁の、さらに高くに繁って、こちらはまだ青くて小さな実をつけている。それからまた程近い道に香りがたって、見るとそこに、無花果がある——歩いていると、こうしたことはよくある。
以前にも油山の麓までチラシを配りに出掛けたところで、カーポートを利用して葡萄を育てている庭に三、四軒立て続けに遭遇するということがあった。これがどこにでも植えられているような植物なら、さして何とも思わずに通り過ぎただろうが、葡萄は明らかにその類ではなかった。庭は時にこのようにして、別の庭へと感染することがある。何がその媒体になるかといえば、やはり散歩者であろう。私と同じように散歩をするなかで、無花果はいい匂いがするから植えようとか、カーポートは車を停めるだけでなく葡萄を育てるのにも使えるから、うちの庭でも真似をしようということになる。そのようにして、はじめは何気ない散歩であった筈が、いつしか庭師の歩き方になっている。
思うに、これまでの生涯に吸ってきた花粉が、ある閾値を超えた辺りで花粉症を発症するように、散歩もその閾値を越えれば、人をして庭をつくらしめる病を発症するということがあるのではないだろうか。少なくとも私はその口である。だからもし、あなたはどのようにして庭師になったのか、と誰かに尋ねられることがあったなら、きっとこの道を歩いてきたからだと、正直に答えるだろう。そうして、あなたも歩くひとならば、いずれ庭師になる日もそう遠くないかも知れない、あるいはすでにその兆候があらわれてはいないか、ときっと問い返すことにもなるだろう。
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残暑の折りに救いの手のように巡ってきた庭仕事で、草苅りをひととおり済ませてから、木洩れ日の差している縁側に腰を下ろすと、いましがた刈ったばかりの草たちが、まるで何事もなかったかのように、木の間から吹く秋の風に靡いている。籠りがちの暮らしにかえって疲れきった身体が、ここに至って息を吹きかえすのを感じた。庭は働く場所でありながら、同時に深く休む場所でもあったことを思い出した。それからこれまで何度も暗誦してきた詩が口をついて出た。
生きるというのは、どうしたって疲れる道行きなのだろう。ところがまた困ったことに、この道の他には休める場所もないらしい。そうしてどの道生きるより他にないのだとさとった者らが求め歩くのは、そこで生きて疲れることが至上の歓びであり、疲れてはまた心おきなく休める庭のような場所ではないか。
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