【連載】エピグラフ旅日記 第1回|藤本なほ子
1.エピグラフの記憶 ──旅日記の序に代えて
このようなエピグラフをいつか、たしかに読んだのだと、ずっと思っていました。
右ページの下部、やや左寄りにこのエピグラフが置かれ、左ページから1段組みの本文が始まっています。右のページにはエピグラフのほかは何も印刷されていません。文字は小さめの明朝体で、圧着されたインクが黒々と濃く、もしかしたら活版印刷だったのかもしれません。机の上にひらかれたそのような2ページを見下ろしている視界を、いまもかなり鮮明に思い起こすことができます。
20代半ば頃の一時期、いま思うと可笑しいぐらいこのエピグラフが気に入っていて、心の中につねに置いていました。そのうちに自然と、言葉だけでなく具体的な像も伴うようになりました。全長20センチメートルくらいの小さな蔓性植物のイメージです。この植物は、下方に根を張って地面としっかりつながるのでも、上へ上へと蔓の先端をのばすのでもなく、垂直な茎のまんなかあたりがもぞもぞとなんとなく変化していき、その結果として全体の形が「中間」の変化についていくように変わっていくのです。あるいは、茎の途中から細くやわらかな蔓が「ぷっ」と生まれ出て、まわりの何もない空間へ、ほぼ真横の方向にするするとのびていきます。でも、その蔓は誰にも見えません。……
そんな視覚イメージをこの文句に重ねあわせて、日々、ひそかに力をもらっていました。その頃の私は、自分自身の「これから」がうまくイメージできず、根の方向でも、先端の芽の方向でもなく、「中間から成長する」ように変化していけたらいい、自分がどんな姿をとっていくのか、あらかじめ知りたくも、決めたくもない……などと感じていたのだと思います。
でも、そんなふうに強く思いこんでいた頃からいままでずっと、これが誰のなんという本に置かれたエピグラフだったのか、まったく思い出せないのです。いま私が持っている本の中にはこのようなエピグラフの載ったものはないはずですし、そんなに強く印象づけられたのだったら書名ぐらい書きとめておけばよかったのに、メモも残っていません。もしかしたらこれは、私が頭の中で勝手につくりあげた「でっちあげのエピグラフ」なのかもしれません。
というより、おそらくはそうなのでしょう。とても不確かな記憶なのに、妙に強く心に刻みこまれているのが我ながら不自然です。その不自然さにいつか気づき、しだいに、これはきっと自分で捏造したエピグラフの記憶なのだと思うようになりました。
こんなふうに長々と個人的な話を書かせていただいたのは、このエピソードが、山本貴光さんが連載第1回に書かれている「『碑文』という意味でのエピグラフがもつ働き」、つまり「物質に刻まれた短い言葉がそこに留まり、目にした人の記憶に入り込んでときには心を動かす」というエピグラフの作用の恰好の例になっていると思われたためです。
当時の私は、なにかで読んだ別の言葉の影響を受けて「植物は中間から成長する」という一節をでっちあげ、夢の中かどこかで、これをカフカの引用によるエピグラフとして見たという偽りの記憶をつくりだしたのではないか。そしてその偽りのエピグラフの記憶を、ある時期の自分自身のエピグラフとして心の中の右側のページに置き、その文字のかたまりから折にふれて小さな力を汲み上げつづけていたのではないか。
このような内的な出来事から、私にとって「エピグラフ」は特別な意味合いをもつものでありつづけていました。辞典編集の仕事に携わりながら「『エピグラフの事典』ってどこかにないのかな…?」と気にかけてきたのですが、どうも見あたらない。事典だけでなく、エピグラフを主題とした本も(どこかに存在するのかもしれないけれど)私には見つけられない。ならば、いつか『エピグラフの本』をつくることはできないだろうか…? そんな漠然とした思いが、しだいに現実的な願いとして、はっきりと形をなしてきたのでした。
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前置きが長くなりました。本連載「エピグラフ旅日記」では、『エピグラフの本』(仮題)制作のために、エピグラフを求めて図書館を渡り歩き、ページをめくりつづける採集係・藤本の日々の記録を公開してまいります。発見した興味深いエピグラフのご紹介や、本の制作にまつわるちょっとした裏話なども混ざってくるはずです。
書物をひもとき、異界をつなぐエピグラフをたどる旅に勝るたのしみはなかろうと思います。でも、現実のこの世で、暇さえあれば自転車を漕いで図書館に向かい、館内ではページをめくる音を隣人に注意されて身を縮めながらも、本から本へ、指の脂を失いながら、ただただエピグラフを探す旅もまた、なかなかたのしいものなのです。
毎月末日、地味に更新してまいります。寄り道、道草、脱線だらけの旅日記となりそうですが、どうぞ時々のぞきにいらしてください。
2.エピグラフ旅日記(8月)
8月某日(1)
今日から本格的に図書館でのエピグラフ採集を開始。まずは自宅近くの図書館から着手し、そこであらかた探索し終えたら、何駅か離れたところにある総合図書館で続行するつもり。ほんとうは市内の大学の図書館を使わせてもらいたかったのだけれど、COVID-19感染拡大防止のため、学外者の利用はどこも停止してしまっている。大学構内に紛れこむのもたのしみだったのに(学食に行ってみたりもしたかった)残念無念。
編著者の山本貴光さん、創元社編集担当の内貴麻美さんとの相談の結果、エピグラフの採集は山本さんがつくってくださった見取り図にもとづいて進めることになった。この世に存在する「作品」の全体のうち、エピグラフが載っていそうなもの──文芸や学問に関わる「本」はもちろんのこと、雑誌、辞典、書簡、ハンドブックやマニュアル本、レシピ本、映画や漫画、果ては「エピグラフ」そのものである碑文や墓碑まで──を対象とし、ざっくりとカテゴリー分けした壮大な見取り図で、限られた時間の中でどこまで調査の手が及ぶかはわからない。
千里の道も一歩から。エピグラフがいちばん豊富で、読者の方々が親しんでいるものも多いであろう「文芸」カテゴリーからとりかかる。まずは主だった個人全集をつぶし、そのあとで主要な文庫シリーズや叢書を見ていく作戦とした。
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今日は下見のため、電車に乗って総合図書館に来てみた。緊急事態宣言下ではあるけれど、週末のためか思ったより多くの人が訪れている。書棚の端や壁際に置かれた椅子に間隔をあけて座り、皆うつむいて黙々と読んでいる。
パソコンを持ちこめるのは禁退出資料のある「調査研究室」のみ。カウンターで座席券をもらい、パソコンを机に置いて、棚を見に行く。やはり外国文学から始めようかと、まずは十進分類法930番台「英米文学」の棚に向かい、本の背を端からたどって個人全集を拾っていく。最初に当たったのは『カート・ヴォネガット全短篇』全4巻(★1)。エピグラフはなさそうだったけれど、これが旅のはじまりかと思うとなんとなく感慨深く、ゆっくりめくる。ついつい解説など読んでしまう。第3巻の巻末に付されたダン・ウェイクフィールド「ヴォネガットはいかに短編小説の書き方を学んだか」(★2)には、長年親交の深かった編集者ノックス・バーガーとヴォネガットとの偶然の出会い、文芸エージェントや編集者の果たした役割、最初の短編が売れるまでにどれだけ書き直しをさせられたか……などなど、デビュー前後の苦労話が軽快に語られている。そうだった。アメリカの小説の序文や解説にはこのような裏話が綴られていることがあった。それを読むたのしみを思い出す。そして、やはりエピグラフは皆無。
古い岩波文庫の『ゲーテ詩集』全4冊(★3)。各章の扉に、やわらかなタッチの絵と、恐らく訳者が(あるいは編集者が)選んだのであろうエピグラフが置かれている。絵はゲーテ自身が描いたものもある。どの章扉も愛らしく、しみじみした情感があって、古い本、古い言葉はいいなあ、ゆっくり読みたいなあと思う。
第1巻巻頭の序文「ゲーテの詩について」は訳者の片山敏彦先生によるもので、ゲーテの詩の一節がエピグラフとなっている。ゲーテの文学作品への情熱と愛がまっすぐに語られる強い文章に心打たれる。
エピグラフを探してページをめくっていき、ライプツィヒ学生時代のゲーテが手紙に記したという詩の一篇に目がとまった。ゲーテ16歳の作。
8月某日(2)
今日は自宅からいちばん近い、いつもの図書館へ。以前は駅から徒歩5分ほどの所に独立した建物を構えていたのだけれど、数年前、駅前のショッピングモールの上階に移転した。設備はすべて新しく、空調がきいて夏は涼しく冬は暖かい。平日は夜20時まで開館するようになったのも大変ありがたい。でも、前の古い建物の天井の高さや、一般向けの書架、閲覧室、CDコーナー、子ども向けの書架、お手洗い…と移動するのにいちいち階段を昇り降りしなければならない縦長の造りが結構好きだったので(風がつねに吹き抜けるようで冬は寒かったけれど)、ショッピングモールへの移転は内心少し残念に思っている。
(ついでに言うと、COVID-19流行のおかげで「水飲み場」がすべて使えなくなってしまったのもとても残念。私は、給水機のボタンを押したりペダルを踏んだりして水を飲む行為が好きで、図書館だけでなく美術館や博物館でも「水飲み場」の標識があると必ず立ち寄ってしまうクチだったのだ)
ここでもやはり外国文学から始めることにする。端から見ていこうと思って部屋の隅の書架にとりつき、結果的に「その他の諸文学」から、つまり十進分類法のおしり(990番台)から始めることになってしまった。
980番代のロシア文学に入り、『ドストエーフスキイ全集』全20巻・別巻1巻(★6)の月報でさっそく手がとまる。
文学全集などの「月報」の存在はほんとうに素晴らしい。作家や出版をめぐるエピソードが綴られ、裏表でかかわる人々の関係の機微や人間味を感じとることができる。さまざまな(意外な)書き手が寄稿して、いっぷう変わった角度からの作品論、作家論を味わうこともできる。とくに古い全集の月報は時代の雰囲気がそのまま伝わってくるようでありがたい。「おまけ」のような体裁だけれど、おまけを超えた独立した価値があると思う。(『月報の本』(仮題)もいつか……)
第2巻の月報、堀田善衛「『白夜』について」をつい読みこんでしまう。
2ページめで堀田はこのように書き、『白夜』の次の箇所を引用している(★7)。
ぴりっとした刺激を受けつつ、しみじみとする。ドストエフスキー(堀田の表記では「ドストエーフスキイ」)を略して「ド氏」と呼んでいるのも、なにか懐かしい。
ドストエフスキーの作品はエピグラフが多い。『悪霊』『カラマーゾフの兄弟』などのエピグラフは人口に膾炙しており、よく引き合いにも出される。これらはきっと『エピグラフの本』(仮題)でも扱うことになるのではないか。
ロシア文学の棚では、エピグラフ採集でもそれ以外の面でもいろいろな収穫があった。それについてはまた次回……。