【連載】すべてのひとに庭がひつよう 第1回|はじめに|石躍凌摩
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第1回 はじめに
「この帽子、自分でつくったの」
それは世にも素敵な帽子だった。それがひとの手と、庭に生えているものだけでつくられたとは、とうてい思いもよらなかった。事もなげに、といった様子で、彼女は話を続けた。
「アトリエの庭に、あるときからチカラシバが生えてきたのを、株が大きく広がるからどうしたものかと、なかば困って、けれどなかばは好きでとっておいたその葉を、いつかふいにさわってみたら、イネ科にしてはやわらかい──これは、紐になると思った。かねてから、ラフィアの代わりになるものを探していたの。あれももとは植物だから。それにちょうどラフィアでつくられた帽子を持っていたから、見よう見まねでぐるぐる巻いてみたらできた、草の帽子」
そんな彼女の話に聴きいりながら、私はその帽子の奥に、チカラシバの生える庭を想像していた。こういう庭もまたありうるのだと。否、むしろこういうことこそが庭なのではないかと、私はあらためて、ジル・クレマンの著作に触発されるようにして考えてきた庭というものをたしかめる心地がした。曰く庭とは、「人間の自然との関係の現実」(*2)であると。
他方で、たとえばありふれた現実として、検索窓に「チカラシバ」と打ってみるなら、その一言目には「道端によく見かける雑草のひとつで…」などと書かれている。それは言外に、チカラシバがとるにたりないありふれた存在であることを伝えている。またチカラシバという名の由来は、これを抜きとろうにも力がいってやっかいだという人間の苦心のあらわれだという。これが世に雑草と呼ばれる草と人間の関係の、おおかたの現実ではないだろうか。この世界は、あまりにもこうした現実にあふれている。
そこで見た、世にも素敵な草の帽子。生活のひつようから、チカラシバと彼女との間に生じた関係。これがなくては失われていたかもしれないひとむらの草が風にそよぐ風景。草がなければ生きられない虫や生きられた別の草があったかもしれないとうつろう環境──
この世界にあまた存在する現実の庭を前にして、この定義はあまりにも抽象的だ、と思う向きもあるかもしれない。たしかに、自然と人間の関係はどこまでも広く、多岐に渡る。そうでなくては、ひとは生きられないからだ。そのすべてを庭と呼ぶことは、ときに空虚に響くかもしれない。しかしなお、これほど明解に庭を定義づけ、この世界にあまた存在する現実の庭を揺さぶり、これから生じてくる庭のきざしに満ちた言葉もないのではないか。そうして、仮にこうしたことのすべてを庭と呼んでみる、その誘いに乗ってみたならば、どうしてもこういうことになる。この惑星そのものが、庭であると。
そうして私は、庭師となった。ほかでもない、この一文を読んでしまったからである。正確には、これを読んだ当時は庭師としてはまだ見習いに過ぎなかったが、職業的な庭師である以前に、この惑星にひとが生きていくことの実相は、それはひとが庭師となることではないだろうか、とそう思ったのだ──たとえば生活のひつようにさいして、草から帽子を編むことになった彼女がそうであるように──。私が職業的に庭師となったのは、そのことを忘れないための便宜に過ぎない。
この一文を読んで以来、庭について考えること、話すこと、書くことは、私にとって生きる習慣となった。またそうしたなかで、土地土地の庭でじっさいに庭師としてはたらきながらつど思い知ることは、庭は伝統的に、そうして今もなお、多くは観賞用につくられ、そのように保たれ、他の実用的な目的からは切り離されている空間だということ。端的にそれが、生きるためにつくられ、使われることは稀だということだ。
だが、なお繰りかえす。自然と人間の関係は、どこまでも広く、多岐に渡る。そうでなくては、ひとは生きられないからだ。だとすれば、庭もまた、もっと広く、もっと多岐に渡る筈ではないだろうか。そうと気づいていないだけで、ひとは誰でも庭をひつようとしているのではないだろうか。
「すべてのひとに庭がひつよう」
この連載は、庭という一語を巡っての、職業的庭師による随想である。それは土地土地の庭での現実から、これまで庭とされてこなかった庭──つまり世界の可能性を遥かに望むこころみであり、そのようにして生きる人間──庭師の、より生きるための企てである。
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