【連載】異界をつなぐエピグラフ 第4回|私は引用が嫌いだ|山本貴光
第4回 私は引用が嫌いだ
1.そんな本があったのか!
コンピュータやプログラムに関する本を読んでいると、しばしばエピグラフにお目にかかる。
かつて、とは高校生や大学生の頃のことだが、コンピュータ書にプラトンやニーチェといった哲学者の言葉がエピグラフとして掲げられているのに出会うたび、ちょっと驚くというか、意外な場所で意外なものと遭遇したという気分になったりもした。いまにして思えば、別段驚くようなことではない。むしろそんなふうに感じた私の側に、理系と文系の区別のようなものがあったからこそ意外に感じたのだろうと思う。そういう意味のことを、この連載の第1回で少し述べた。この話にはもう少し続きがある。
いまを遡ること二十数年前、学生時代から今日にいたるまで師と仰ぐ先生に、この件について尋ねてみたことがあった。コンピュータ書を読んでいると、あちこちから、それは自由自在にさまざまな本から引用をしているのですが、いったいどうしたらそんなことができるのでしょうか。やはり日頃読んだ本からそうした言葉を抜き書きしたりしているのでしょうか、と。たぶん、自分でも真似してみたいと考えていたのだと思う。
「山本さん、それはですな……」とは、先生が弟子の愚問にイヤな顔ひとつせず、話して聞かせてくださるときの前置きで、あらましこんな内容だったと記憶している(文責は山本)。
たしかにそういうこともある。かつて読んだ本から気に入った言葉を覚え書きにとっておき、これというときに引用するという人もあるだろう。他方で別のやり方もある。世の中には引用句辞典、英語で言えばQuotations Dictionaryなる本がある。ここには、古今東西の名著から抜粋された文章が集められていて、テーマ別に分類もされている。そこで手元にこの辞書を持っておけば、自分の文章を飾る気の利いた言葉を探すのも難しくはない。例えばその辞書で「科学(science)」の項目を見ると、ニュートンやヴァレリーの引用句が見つかるというわけだ。
そんな本があるとは知らなかった私は、積年の謎が解けてゆくのを感じた。先生からは本当にたくさんのことを教えてもらってきたのだが、これはなかでもよく覚えていることの一つなのだった。話を聞いて、自分でも実物を見てみたいと思った。
2.引用が嫌いな人の引用?
山本青年は、間を置かずに洋書を置いている書店を訪れた。探してみると、英語では何種類もの引用句辞典が出ている。まず手軽そうな『オックスフォード重要引用句辞典(The Oxford Essential Quotations Dictionary)』(Berkley Books, 1998)という小さなペーパーバック版を手に入れてみた。どんなものなのか、様子を見てみようというわけである。
表紙には書名の下に「アメリカ版」とあり、「7000以上の引用句を掲載」「多くの引用句には関連情報あり」「参照しやすいようにトピックごとに配置」「著者/出典索引」と謳い文句が並ぶ。
「はじめに」を見ると、表紙の謳い文句がより詳しく説かれている。曰く7000以上の引用句を集めて引きやすく工夫した。引用句はテーマごとに分類してあり、テーマはアルファベット順に並べてある。キーワードではなくテーマによる分類なので、例えば、同じ「猫」というキーワードが現れる引用句でも、モンテーニュの「私が猫と遊ぶとき、猫のほうは、私ほど楽しんでいるかどうか、誰に分かろうか」(同書の英訳からの翻訳)は「猫」というテーマに分類する。でも、マーク・トウェインの「猫と嘘の最大のちがいはなにかと言えば、猫は九回までしか生き返らないことだ」は「猫」ではなく「嘘」というテーマに分類する、という次第。
また、あるテーマの下に集められた引用句は、年代の古い順に並べてあるので、同じテーマについてでも、時代によるちがいを味わえたりもする。そしてとどめとしては、この辞書に集めた引用句は、ものごとの本質を突いた言葉ばかりなので、「引用の価値ある引用句(quotable quote)」なのだと請け合っている。テーマはきちんと数えてないけれど、ざっと400前後はあるだろうか。
せっかくなので、ちょっと具体例をお目にかけよう。どうせなら「引用句(Quotations)」という項目はないかしらとページを繰れば、編纂者もそこは抜かりがなかった。
ご覧のようにQuotationsというテーマの下に17の引用句が並ぶ。
筆頭はドナトゥス(Aelius Donatus)といって、4世紀中頃の文法学者からの引用。それからサミュエル・ジョンソン(1709-1784/イギリスの文学者・辞書編纂者)、ハンナ・モア(1745-1833/イギリスの作家)、ジョン・ラッセル卿(1792-1878/イギリスの政治家)、そしてラルフ・ウォルドー・エマソン(1803-1882/アメリカの思想家・詩人)と続く。
今回、エピグラフとして引用した「引用が嫌いだ。いいから君が知っていることを教えてくれないか」という文句は、実はこの引用句辞典で教えてもらったのだった。「引用句」と訳したquotationは「受け売り」としてもよいと思う。よりによって引用句辞典にこの文が載っているなんて! とうれしくなって、つい引用してしまった。
3.エピグラフの心
こう書いてみて、これはひょっとしてエピグラフについて考察するチャンスではあるまいか、と気がついた。この場合、私はどんな思考を辿ってこの文を引用するに至ったのか。試しに述べてみよう。
後から思えばということになるが、二つほど思い当たる。一つは、「面白いから見て!」という気持ちがなかったといえば嘘になる。
二つめは、いままさにお読みのように、そもそもこの引用句自体が引用句辞典から拝借したもので、今回の話の内容を示す上でもよいのではないかと考えたのだった。というよりも、今回は引用句辞典の話をするだけに、ひとつ、同書からなにか選んで冒頭に掲げよう、という動機が先にあったと言うべきかもしれない。ただし、これを書き始めるまでは、どの引用句を使うかまでは考えていなかった。
あとは先ほど述べた通りで、「引用句」という項目があるかなと探した、というわけである。
ところで、こんなことをしておきながらこう申しあげるのもなんだが、私自身は引用句辞典から言葉をそのまま引用することはほとんどない。どちらかといえば、集められた文章を読んで楽しむという使い方をしている。引用句辞典は、古今東西にどんな書き手や本があるのかをサンプルつきで教えてくれる文章の宝庫でもある。
そういえば、日本語でも引用句辞典がないわけではないけれど、私が見ている範囲では、どちらかといえば「名句辞典」や「名言辞典」といった表現を多く見かける。「名言」や「名句」とは、引用するかどうかという用途ではなく、いい表現という文章に対する評価に重点が置かれているわけだ。この違いはなんだか面白いので、機会があったら検討してみよう。いまは引用句辞典に戻る。
では、エピグラフなどに誰かの言葉を引用する場合、私はどうしているかというと、本を読みながら「これは見事な言い方だなあ。自分ではとてもこんなにうまくは表現できないな」と感じる個所があると、余白にcitと書き込む。これは自分用の符牒で、citeあるいはcitation(「引用」という意味)の略というつもり。これをあとでカードやファイルなどの覚え書きに出典、特にどの本のどのページかという情報とともに写し取っておく。後日ものを書くときに、「そうそう、そういえばこんなときにぴったりの言い回しをしていた人があったよね……」と、覚え書きを見て、「これこれ」となったら、元の本で前後の文脈を確認する、という具合。要するに、元の文脈を見た上で引用したいのだった。
そこで、引用句辞典を読む場合も気になると原文を探しにいくことになる。
4.現地を訪ねる
例えば、いま見ているエマソンの引用句はどうか。先ほどの引用句辞典にはこう書かれていた。
1行目が引用句で「引用が嫌いだ。いいから君が知っていることを教えてくれないか」と訳してお目にかけた文章の原文である。2行目以下は出典で、まずは著者名と生没年が記されている。特に著者名は太字で強調してあって、ぱっと目に入るようになっている。そして3行目が引用句の出所で、この場合なら「1849年5月の日記」だ。
ここから先はどうするか。ネット以前の世界なら、そもそもエマソンの著作としてどんな本が出ているかを調べるのも一苦労だった。図書館にエマソンの邦訳書なり原書があることを祈って探しにいくことになる。たまさか近くにエマソンに詳しい人でもいれば別だが、まずはそうした書誌を載せている文献を見つけるか、図書館や書店で探すところから着手する。
それを思えばいまはとても便利で(とは、ネット以前の調べ物の記憶があるせいか、いまだに何度でも噛みしめてしまう)、こんなときにはGoogle booksをはじめとするデジタル化された本を集めたアーカイヴを探すとよい。試しにGoogle booksで”I hate quotation”を検索すると、各種の引用句辞典やこの文を引用している本(中にはエピグラフにしている本もある)に混ざって『ラルフ・ウォルドー・エマソンの日記とノート』という英語の本が見つかる(★2)。
エマソンは厖大な日記や覚え書きを遺していて、これが全16巻の書物としてハーヴァード大学出版から刊行されている。第1巻は1819年から始まっており、最終第16巻は1882年に至るというから、時期によって濃淡はあるとはいえ、1803年生まれで1882年に没したエマソンは10代半ばから晩年まで日々考えたことを書き継いでいたわけである。
検索にかかったのは、同書のうち1848年から1851年の文章を収めた第11巻。先ほど見た引用句辞典の出典には「1849年5月の日記」とあった。うん、平仄は合っている。そこで該当個所を見てみると、こんなふう。
Google Booksで検索をかけると、該当する個所に黄色いマーカーが引かれる。引用句辞典に出ていたのと同じ” I hate quotation. Tell me what you know.”という文章の前に、もう1文ある。また、見出しのような言葉があるのも分かる。そう、引用句辞典ではたいていの場合、こんなふうにして原文から一部を抜粋している。前後を省略して切り抜くと、元の文脈を離れていろいろな場面で活用しやすくもなるわけである。便利な反面、先ほど少し述べたように、私などは元の文脈が気になって確認したくなったりもする。
引用句辞典では省略されていた部分も合わせて、このエマソンの文章を訳せばこうなるだろうか。
こうなると、元牧師であり、父や弟や妻といった身近な人たちを早くに亡くすという経験をもち、死や不死についてもさまざまに思索をめぐらせたエマソンの著作にも足を伸ばしたくなる。とはいえ、切りもないこととていまは措こう。
5.つい……
エマソンが「不死」について述べたことは、他のトピックについても言えるように思う。なにかについて述べるとき、他人の言葉を借りて済ませるのではなく、自分の理解を述べろというわけで、私などもたいそう耳が痛い。気をつけないと、気の利いた他人の文章を持ち出して、自分でなにかを理解したり考えたりしていると思い込んでしまう、ということは大いにありうる。
外ならぬエマソンも、言語についてこう言っている──と書きかけたところで手を止める。