星の味 ☆1 ”誕生日の気分”|徳井いつこ
年があらたまると、一つ歳をとる。
お正月生まれの私は、わかりやすい。
子どものころはケーキ屋もレストランも閉まっていた。ラジオは春の海ばかり流している。焦った私は親に尋ねた。「今日は何の日でしょう?」
全国民がお祝いしているので、一個人の誕生日は忘れ去られる運命にある。なにしろ新年なのだ。
家の中も、そして街の風景も奇妙にさっぱりしていた。通りはきれいに片づけられ、人一人、犬一匹歩いていない。
世界を覆っている「日常」という蓋が取り外され、どこまでも続くからっぽの道、まっ青な空が広がっていた。
頭上に何もない、
何もないということが、身にしみてくる、
それが、私の誕生日の気分だった。
レイ・ブラッドベリに、「私がすることが私――そのために私は来た」という変てこなタイトルの詩がある。
人が生まれる時刻
眼の上に神が触れ、渦巻きの形にして
神の魂の綾模様を擦りつける!
最初の産声、そして驚嘆。目を皿のようにして産婆と医者が見守るうち、神の指紋はすうっと薄らぐ。
そして、あの生まれたばかりの刻印が消えるとき
小さな貝の耳のなかで、吐息のように消えそうに
神の最後の言葉がして、人は世界へ送られる。
「お前は母でも父でも、祖父でもない。
ほかの者になるな。お前の血のなかに私が記した者になれ。
お前の体内に私は満ちあふれる。それを求めよ。
見つけたら、お前にしかなれないものになれ。[…]」
「ほかの者になるな」と言う神に見送られて、この世界に入場する。そのタイミングは、退場する日とともに、人のあずかり知るところではない。
誕生日と命日。これら二つの決められない日にちに挟まれているのが人生だ、とも言える。
なんとふたしかな、といまさら驚く。
不確実性の海を塵芥のように漂っている私たちは、あずかり知るところでないもの、自分を超えているものを、ときに「星」という言葉で語る。
我が上の星は見えぬ、彼は良い星のもとに生まれた、といったように。
知ることはできない。が、味わうことはできる……
星は、どんな味をしているだろう?
永瀬清子さんの詩に「金星」というのがある。
私はつめたい星空を啜った
しおからくそれは私に流れこんだ。
蝎はそのたばね熨斗の形のまま
しわしわとしぼまり
カシオペアはその長い髪のジグザグを
蛇のようにうねらせ
北斗も念珠のようにつながったまま
私の喉をすべっていった。
しずかなあけ方に
天の星はみななくなって
そして私の内部は
キラキラと彼等の青い燐で燃えた。
最後に喉にかかった釣針みたいな金星を
私はものういため息とともに
東の空にむかって吐きだした。
それはしばらくゆれていたが
さびしいあじさい色の空に一つだけ残って
しずかに綸の先端にひかっていた。
目に見えない、理解できない、理性で捉えられないなにかを深いところで感じているとき、私たちの内部で、詩人が立ちあがるのではないだろうか。
星の味を語るのは、詩のことばだ。
詩を書いていなくとも、存在の奥深くに耳を澄ませているなら、私たちは星を啜り、飲み干すことができる。星の青い輝きを体内に宿すこともできる。
日常のふとした隙間、
ほっとため息をつくとき、
眠る前のぼんやりするひととき。
私は、星の味をひと粒、ふた粒、
コンペイトウみたいにいただく。
言葉は言の葉っぱで、薬草で、レメディだ。
生きるなかであちこちぶつけて、こんがらがったり、とり散らかったりしたとき、頼りがいのある味方になってくれる。
そのことを自覚するようになってから、言の葉っぱを集め、溜めておくようになった。応急につくったはずの薬箱が手持ちの箱で間に合わなくなり、いつしか薬簞笥になっていた。
引き出しのなかには、
星の味のする葉っぱがつまっている。
今夜もまた引っぱりだし、
ちょいちょいつまみ食いする。
「日常」という蓋が取り外され、頭上の広大さが身にしみてくる。空の深みから、ごおっと風が吹いてくる。
いっしょにいかがですか? というのがこの連載だ。