第20回|家庭犬も歯が命
「芸能人は歯が命」というCMは衝撃的だった。日焼けした笑顔に浮かぶ嘘みたいに白い歯を何度も見せつけられることで、ボクにとっては寝癖のようなものだった歯の黄ばみが、他人には見せられない恥部と化し、人前で口を大きく開けて笑えなくなってしまった。そして、歯を白くすると謳う歯磨き粉を雑誌広告で見つけては購入してひっそり試し、効果のなさにがっかりするというサイクルを繰り返すようになった。ホワイトニングや歯科矯正の巨大市場はあのCMがきっかけで急成長したのではないだろうか。
歯のケアは若者にとっては見てくれをよくするための自分磨きだが、中高年にとっては健康維持のための命綱だ。ボクの父も母も総入れ歯になってから食欲が減衰し、認知症が進行した。自分の歯で噛んで食べる行動が食事を楽しむことの、そして食事を楽しむことが人生を楽しむことの前提条件になっているということを思い知らされた。
歯周病が脳卒中、狭心症、心筋梗塞、糖尿病など、まさに万病の元になるというのは今や常識である。ボクも毎日フロスして、半年に一度は歯科でクリーニングをしてもらっている。30年以上前に師匠のディック・マロット先生が "Fross Everyday"と連呼していたときは、内心「健康オタクか」と思っていたのが今は恥ずかしい。
そしてこの新常識は人だけはなく家庭犬にもあてはまるという。家庭犬の寿命は年々少しずつ伸びている。歯周病が原因とは知らずに短命に終わっていた犬も昔は多かったということらしい。
はるを迎える準備をしているときには犬用歯ブラシも購入リストに入っていて、買ってはいた。でも2-3回試して止めてしまっていた。自分の歯を磨くようにはブラシをうまく操作できない。そもそも犬の下の歯は引っ込んでいて、見えもしない。歯磨き粉で泡立てるわけではないので、磨けているのかどうかもよくわからなかった。
まだ子犬で歯垢や歯石もなく、毎日タオルの引っ張り合いで遊んでいたし、豚の耳や馬のアキレスなどを与えていたから、それで十分だろうとたかをくくっていたのだ。野生動物は歯磨きなんかしないでしょとうそぶいて。
ところが十歳になった年の健康診断で獣医さんに歯周病と診断されてしまった。「ステージ2です」と言われる。病気の「ステージ」なんて癌の診断でしか聞いたことがなかったボクは度肝を抜かれてしまった。気づけばタオルの引っ張り合いをしなくなってから何年も経っている。はるの口を開けて歯の様子を見ることもしばらくしてなかった。まったくもって油断です。ごめんなさい。
「ステージは後戻りはしませんが、今から歯磨きすれば進行は止められます」と獣医さん。歯ブラシでの歯磨きは試したけどうまく磨けなかったことを告白すると、「では、こうやってください」と言いながらウエットティッシュを指に巻き付け、口の奥まで指を突っ込み、指を回転させて拭き取る方法を手本として見せてくれた。手を引き戻すとウエットティッシュにはおやつの残りカスみたいなものが付着していた。
「食後にこういうふうにして食べかすをとってあげるだけでも歯垢や歯石になることを防げますよ」と獣医さん。
歯ブラシを上手に使えなかったボクにも、このウエットティッシュ作戦なら実行できそうだ。早速、犬の歯磨き用ウエットティッシュと、それにつける歯磨きジェルを購入して試してみた。
口の周りを触っても、はるは唸ったり噛んだりしない。保護されてからボクのうち来るまでに、山本央子先生やAFCのスタッフのみなさんが脱感作と呼ばれる手順で練習を積んでくださった成果である。
それでも不器用なボクに口の中をいじられまくれば唸ったり噛んだりしてしまうかもしれない。ボクがそれに反応して手を引っ込めたり歯磨きをやめてしまえば、唸りや噛みを増やすことになってしまう。ボクがウエットティッシュを持った瞬間に逃げ回るようになっても困る。ここはことを慎重に進める必要がある。
まずはウエットティッシュを右手の人差し指に巻き付けて歯磨きジェルをつけ、はるを呼ぶ。はるが自分から座るのを待ち、座ったら鼻先に指をそっと出す。するとはるはジェルをペロペロなめる。ジェルがなくなったら終わり。最初はここまで。毎食後、この手順を数日間繰り返して行った。
次は、ジェルをつけたティッシュをはるがひとなめした直後に、左手ではるの顎を下からそっと支えながら、ティッシュを巻き付けた右手の指をはるの口の中に入れる。対面しているボクから見て右側の歯の外側、歯と頬の間に素早く挿入する。指は動かさない。はるは「あれ?」と言わんばかりに眼を見開いてボクを見るが、舌を動かしながらそのまま座ってジェルをペチャペチャとなめている。この手順も数日間繰り返した。
すると、ボクが呼ばなくても、食事が終わるとはるが近寄ってきてボクの前にお座りするようになった。これなら大丈夫と思ったボクは、はるの口の中に入れた指を奥歯のさらに奥まで突っ込んでみた。はるは平然とクチュクチュしている。そこで、指を回転させて歯の表面を拭ってから指を抜いた。獣医さんが見せてくれたときのように茶色いカスがとれている。やった!とれた!!
もう一度ティッシュにジェルをつけ、はるの左側の奥歯を同じようにしてぬぐってみた。はるは抵抗もせずにクチュクチュしている。左側は右側よりカスが多かった。食べカスを見てボクは喜び、すかさず馬のアキレスをはるにあげた。歯磨きを最後まで終えられたら何かご褒美をあげようと考えていたが、ここで通常のおやつをあげてしまったら歯磨きの意味がなくなってしまう。せっかく食べかすを取ったのだから、食べてもかすが残りそうにないものを選んだ。
ただ、毎食後にアキレスを与えると、どうやら胃腸に負担がかかりすぎるようで、お腹がゆるくなってしまった。そこで、その後、最後のご褒美は歯磨きガムに変更した。また、ウエットティッシュだけではなかなか食べかすを取り切れないことがわかったので、食後にまずは歯磨きガムを1本噛ませ、その後にウエットティッシュ、最後に歯磨きガムを1/2本というのが現在のルーチンになっている。
食後にボクがのんびりしていていると、はるは自分から寄ってきてボクの前にお座りし、視線で歯磨きを要求する。おかげで歯周病の進行も今のところは止まっている。
to be continued.