星の味 ☆16 “星々にとり残されて”|徳井いつこ
「夏なら冬のことを書くのだ。イプセンがしたように、イタリアの一室からノルウェーのことを書くのだ。ジョイスがしたように、パリの机からダブリンのことを書くのだ。ウィラ・キャザーはニューヨークからプレイリーのことを書いた。マーク・トウェインは……」
と、さまざまな作家を引き合いにだして、「書く」ことにおける「遠さ」の効用を説いたのは、アニー・ディラードだった。
遠いこと、遠いものが、創造的に作用するのは、どういうわけだろう? 「遠い」という語を辞書で引くと、「二つのものが空間的、時間的に、また心理的に離れているさま」と書かれている。
海洋詩人と呼ばれた丸山薫は、終生「遠さ」を見つめ続けた詩人だった。海の詩と同じように、星の詩をたくさん書いているのは、必然と言えるかもしれない。
官吏だった父の転勤で、幼少時から長崎、東京、京城、松江……と転々とし、薫の言葉を借りれば、どこにいても「いつも近くに在るものを無視して遠方だけをあこがれる子供になっていた」という。
「海風」という詩は、「遠く」という語からはじまる。
遠くの沖からうねりがやつてきた
それは渚によせてつひに崩れた
と そこに誰かが立つた
それは砂を上がつてきた
彼には形がない
ただ 泡の瞳だけをしてゐた
そしてまつすぐに
芒の光る丘へ去つた
まざまざと「彼」を見たように感じられるのは、「泡の瞳」という言葉に撃たれるからだ。
「海の瞳」という詩。
船が大きく傾くと
一瞬 僕の生活は波浪の下になった
すると サイドの円窓がまつ青に染つて
冷い海の瞳が覗き込んだ
曾ての昔 水族館の厚いガラスを透して
魚たちを覗いた僕のように
それは 小さな船室に棲む魚のような僕を覗いた
不安の陸を逃れてきて
しかも いま 海の不安の中に逃げ場のない
僕という憐れな魚を覗いた
薫は少年のころから船員を志し、2回の受験ののち東京商船学校(現・東京海洋大学)に入学している。だが、脚気のために退学を余儀なくされた。現実世界での挫折は、遠い海への思いをいっそう募らせたのだろう。42歳の時、練習船「海洋丸」に乗り込んで太平洋を2ヵ月間航海し、56歳で貨物船「山下丸」に便乗して南半球を巡っている。
終戦前、山形県岩根沢に疎開した薫は、奥深い山村で国民学校の代用教員として働いた。そのころ暮らした山腹の崖の家を、「手を突き出すと、掌のひらは星と同じ空間に在り、足を伸ばせば、足のうらは星を蹴りそうになった」と描写している。
「星」という詩だ。
なんのことはない
私は星々の間に起き伏していたのだ
冬の雪が消えると
山肌は 噴き出す緑でたちまち染まる
夜はつよく匂った
草と木と星と
植物と鉱物とが――
火星 金星 シリュウス 北極星
北斗 さそり 白鳥座
それら どの一つを見つめても
星ほどしだいに親しく思えてくるものはなく
同時に 星ほどだんだんに遠く思えてくるものもない
夜ふけ 星を見疲れた眼をつむつて
私は快く睡りにはいつた
まつたく 山の住居では
私は夢もみずにぐつすり眠つた
森で小鳥達の囀りが
にぎやかに暁を告げるまで――
見れば見るほど親しく、しかし遠く思えてくる……。星々を見疲れた目を閉じると、不思議に深い眠りが訪れた。
同じ時期に紡がれた「美しい想念」という詩がある。
夜空に星が煌めくやうに
真昼の空にも星があると
さうおもふ想念ほど
奇異に美しいものはない
私は山に住んで なぜか度々
そのかんがへに囚はれる
そして 山ふかく行つて
沼の面を凝と瞶つめる
すると じつさいに
森閑と太陽のしづんだ水底から
無数の星がきらきら耀き出すのが
瞳に見えてくるのだ
浮かびあがってくるのは、真昼の星々。しかし、それを見出すのは、直接ではない。水の面を介して、間接的にだ。
遠いもの、肉眼で捉えられないものにふれ合う術は、古の昔からずっとそんなふうだった。魔法使いの鏡、占い師の水晶玉を思い浮かべるまでもなく。
「月と土星」という詩のなかで、詩人は望遠鏡を覗く。
一五〇という倍率にしては
月も星も小さく見えた
だが不思議に月の面ははつきりしていた
あのデコボコの山々も 噴火口に似た無数の穴も
「海」と呼ばれる陰影も
一つ一つが鮮明に浮彫になつて見分けられた
土星は少し赤く
縦にリングを嵌めていた
それらはどれも美しかったが
二つの天体をとり巻く宇宙の深さは
さらに異常に耀いて見えた
そのかがやきの真近さに
数万年の未来の時間が手にふれる思いがした
私はレンズの中の衛星から眼を離した
そして 改めて肉眼で 月と土星とを仰いだ
瞬間 つい眼の前に在つた空間と時間とが
ふたたび いつさんに 遙かな未来へ駈け戻つてゆくのを感じた
この私を 苦しい現在に置き去りにして――
詩人は、星々にとり残される。
現実が戻ってくる。何も変わらず?
いや、何かが変わっている。
「遠い」ものにふれた後、人は、ふれる前と同じであり得ない。苦しさと呼ばれる感情も、どこかべつの味わいになっている。
詩が、そこから生まれてくる。