いまにつながるSTORY①生を楽しめてるか?自分を活かしきっているか?
インタビューライターやブログSNSの添削アドバイスを通して、その人のありのままのストーリーを届けるお手伝いをしています。
そんないまの私がどう形づくられたのか、何回かにわけて綴っていきます。
長めですが読んでいただけたら嬉しいです。
人の背景が気になる理由-母子家庭だけど、祖父母や先生など周囲に恵まれた幸せな子ども時代
父と1才で死別し、水戸の母の実家で育ちました。
祖父母ははたから見たら、どこにでもいる普通の人。
でも一見"普通の人"に見える祖父母は、その世代の皆さんと同じように、若い頃から語りつくせない経験、気持ちを味わっています。
モノゴコロついた頃から私は、戦争の体験や若い頃など祖父母の話を本人たちや母から聞き、自分のことのように記憶。
貧乏な農家に生まれた祖父は7人兄弟の長男で、勉強が好きだったけれど上の学校へは行けず、紳士服の仕立て屋へ丁稚奉公に。
その後は戦争に駆り出され、満州、そして台湾へ。
当時日本の領土だった台湾で育った祖母。
実の母を7才で亡くし、その妹(おば)が継母になったもののその継母とうまくいかず、心配した曽祖父(祖母の父)が祖父との結婚の約束を取り付けました。
ただ相思相愛でもなんでもなく、戦争中に台湾へ来ていてミシンを借りに訪れた祖父を見込んで「戦争が終わったら娘を嫁にもらってほしい」と願い、縁談が決まったそうです。
こうして終戦後に祖母は1人、縁もゆかりもなかった水戸へ嫁いできました。
戦争がなかったら…
戦地で祖父がミシンを借りなかったら…
祖父母の結婚はなかったし、母も私も存在しない。
こんなドラマのような人生を生きてきた祖父母のもとで育ったためか、「他の人も程度の差はあれ、数奇な運命があったり、波瀾万丈な人生、魅力あふれる人生を送ってるんじゃないか」とリアルに思うようになりました。
大抵の人には、パッと見とは違う一面や経験があり、面白い話、あるいは貴重な話が聞けるのではと思うし、私はそうした人の背景を知ることが楽しく、その人をより知ることが好きなんですよね。
さらに、祖父母のエピソードを私の小学生の娘に伝えると嬉しそうにしてます。
それを見ると、「自分を知る、自分のルーツである父や祖父母のエピソードを知る」ってあたたかいことだと感じて。
そしてそれはどの人にとっても同じじゃないかと思うんです。
ちなみに父のことは全く覚えていません。
父と母の結婚式の写真しかないのも残念なのですが、他に写真がないのは、いつも私や母を撮影するのが父だったからとのこと。
その、”姿が映っていない写真”に逆に父を感じるというか、父の生きた証でもあると感じます。
証という表現は大袈裟かもしれない。
でも、誰かの話を聞いて残すというのは、「その人が確かに今ここに生きてる、過去を生き延びて今ここにいる」のが感じられるので、やみつきになっています。
私の「書く」を鍛えたのは6年間の日記
今振り返って鍛えられたと思うのが、小学校6年間の日記の宿題。
毎朝先生へ提出して、帰りまでに赤字でコメントや修正の入った日記帳を返されます。
見返してみると1年の頃は単語の間違いなどひどいものでしたし、時に四苦八苦しながらも6年間書き続けました。
特別なできごとがない日でも何か書かなくてはならないので、日常のいろんなことに着目して日記のネタにしていました。
それに、先生からの感想コメントが嬉しくて、「先生によりわかってほしい!」と、できるだけ正確に、誤解のないようにその場面や感情を伝えるようになっていきます。
また間違いは必ず修正してもらえたので、この経験のおかげで書くのが好きになりましたし、どんな小さなことや感情でもそれをネタにできるようになりました。
アウェー感に絶望しつつ、「観察力」「なじむ力」を鍛えられた中学時代
小学校はのびのび楽しく過ごしましたが、中学では最初はかなり苦労しました。
というのも地元の中学ではなく近くの大学の附属中に進学したためでした。
全体の3/4が附属小からの持ち上がり組、1/4が外部からの受験組。
おまけにわずかな知り合いとも別なクラスで、完全に誰も知らない状態で中学生活がスタートしました。
はじめの2か月は、地元の中学へ行かなかったことを心底後悔するほど辛かったですが、「転校なんて簡単にできないし、せっかく運良く合格したんだから」と、とにかくなじむため・自分の居場所を作るために試行錯誤をはじめます。
まずクラスメイトたちの特徴や人間関係をとにかく観察して、目の前の相手に合わせた話題や話し方で話かけてみました。
実はこれは祖母のおかげ。
働く母の代わりに面倒をみてくれた祖母は、初対面の人とでも仲良くなるのが得意で、それをずっと見てきたことがここで活きました。
最初は手応えを感じられませんでしたが、【ひたすら観察し相手ごとにその人に合わせたコミュニケーションを取る】を繰り返して、居場所ができていきました。
振り返ると中学時代はずっと観察して相手に合わせ、とにかく集団溶け込むことを意識したので、合わせすぎてしんどいこともありました。
でも、いろいろなタイプに合わせたコミュニケーションの取り方を習得できたので、大人になってからはいい経験だったと捉えなおしています。
自由で楽しくて部活ばっかりな高校時代
高校は、私にとってパラダイスのような場所でした。
とにかく自由で、小さな大学のような雰囲気で、3年間高校生活を満喫。
部活は、小学校でも入っていた吹奏楽部に入部(小学校の時の顧問の先生がこの高校の吹奏楽部OBで小学生の頃から「入ったら楽しいよ」と刷り込まれていました(笑))。
子ども時代よりもできることが増え、ますますみんなで演奏するのは楽しい!
できないところを練習するのも、音楽の表現の仕方を知ることも、それをみんなで持ち寄って一つの音楽を作り上げることも、めちゃくちゃ楽しかった!!
それに、部活の時間中だけでなく、普段のどうでもいい会話だったり、寄り道だったり、好きな人の話題だったり…
直接音楽には関係ないけれど、ただひたすらしゃべって一緒にいる時間も含めて、部活仲間たちとはとにかくたっぷり同じ時間を過ごしました。
そうした時間は単純に楽しかっただけでなく、一緒に音楽を作っていく時の安心感、信頼感につながる大事な時間でもあったと思います。
自分の存在を、活かしきっているのか?死ぬ時、楽しかったと言えるのか?
高3の秋。
そんな充実した時間を一緒に過ごしてきた部活仲間が体育の授業中に倒れ、亡くなりました。
私たち3年が夏のコンクールで引退した直後のこと。
引退まで2年半、部活仲間とは毎日会うような生活だったので、今でも実は亡くなった実感が薄い時があり、ひょっこり「おはよう!」と出くわすのではと思うことも。
そしてその時からもうまもなく25年経ちます。
彼の時間は18才で止まった一方で、私たちは生きている。
ふとした瞬間に
と思うことがあります。
この部活仲間だけではありません。
中1の時のO君。大学の寮の後輩N。新卒の会社の同期U君。
そして過労で突然死した私の父や、退院前の検査失敗で亡くなった祖母など、まわりには早くに突然亡くなった人がたくさんいます。
その人たちを思う時、
生きていることを楽しんでいるか?
自分を活かしきっているか?
さらに
早くに亡くなったその人たちが、残してくれたものってなんだろう?
と考えずにはいられません。
その答えは、私という存在と、その人たちとの思い出、楽しかった時間なのかなと思っています。
そして「人間がなんのために生まれてきて死んでいくのか」を子どもの頃から時々考えているものの、これだと思える答えはまだ出ていません。
ただ思うのは、
ということ。
だから私は、人と知り合って、その人を理解し仲良くなりたい。
それがきっかけとなりさらに新しいつながりが増えていき、みんなが楽しい時間を、何気ないけれど幸せな思い出を作れたらいいなと。
そんな気持ちでいます。
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いまにつながるSTORY②
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