【科学者#042】高校教師をしながら重大な業績を残したのに自国に認められなかった科学者【ゲオルク・オーム】
第40回はアレッサンドロ・ボルタ、第41回はアンドレ=マリ・アンペールと、前回、前々回と電気系の科学者を紹介してきました。
電圧の単位ボルト(V)のもとになったのがボルタで、電流の単位アンペア(A)のもとになったアンペールとくれば、電気抵抗の単位オーム(Ω)のもとになった科学者で、そしてこの3つの関係性を表したオームの法則を発見した科学者を紹介しなければならないと思います。
今回は、高校教師をしながら重大な業績を残したのに自国に認められなかった科学者ゲオルク・オームを紹介します。
ゲオルク・オーム
名前:ゲオルク・ジーモン・オーム(Georg Simon Ohm)
出身:ドイツ
職業:物理学者
生誕:1789年3月16日
没年:1854年7月6日(65歳)
業績について
オームの業績と言えば、やはりオームの法則は欠かせないと思います。
これは電気回路で、回路に流れる電流と電位差(電圧)の関係をあらわした法則になります。
電圧(V)=電流(A)×抵抗(Ω)
この公式は中学校の理科でも学ぶと思いますが、電圧は電流と抵抗に比例するというものです。
このオームの法則などの業績により、1861年にイギリス科学復興協会が電気抵抗の単位としてオームを提唱しました。
ちなみにオームの単位は、ギリシャ文字の大文字であるΩ(オメガ)が使用されていますが、これはオーム(Ohm)の頭文字のOでは数字の0と間違われやすいためOではなくなりました。
それではなぜΩ(オメガ)になったのかというと、ゲオルグ・オームをギリシャ文字で書くとΓκέοργκ Ωμとなるため、オームの頭文字がオメガになるのでΩ(オーム)を使うようになりました。
オームの法則は1826年に発見し発表されたのですが、実はこれよりも前にオームの法則は発見されています。
1781年に、第23回で紹介したヘンリー・キャヴェンディッシュが発見していたのですが、生きている間には発表していませんでした。
このキャベンディッシュの研究がの世の中に出たのが、第36回で紹介したジェームズ・クラーク・マクスウェルがキャベンディッシュの遺稿をまとめて1879年に出版したからになります。
生涯について
オームの父親は鍵屋で、母親は仕立て屋の娘だったので、2人とも正式な教育を受けていませんでした。
父親は独学で息子たちに教育をしており、オームは父親から数学、物理学、化学、哲学を学んでおり、父親は優れた教育を子どもたちに行っていたといわれています。
そのおかげもあり、成長したオームは1805年にエアランゲン大学に入学します。
しかし、入学したオームは勉強よりもダンス、アイススケート、ビリヤードをすることに多くの時間を費やしてしまいます。
その事を父親が知り、オームが教育の機会を無駄にしていることに腹を立て大学を辞めるように言います。
そして、オームは1806年9月からはスイスで数学教師の職に就きます。
その後1809年3月にはこの教職の仕事を辞め家庭教師になります。
ちょうどこの時期に独学で数学の勉強を始め、1811年4月にはエアランゲン大学に復学します。
1811年10月25日には博士号を取得し、講師として働きだしたのですが、給料が安すぎ転職を考えます。
そして、1813年1月に数学と物理学の教師の職に就くのですが、その学校が閉鎖されてしまい、また別の学校で数学教師として働くことになります。
ちょうどこの頃に、オームが自分が書いた幾何学入門書の原稿をプロイセン王に送ります。
プロイセン王はその本の出来に感心して、オームに職を提供し、1817年9月11日にプロイセン王の紹介で数学と物理学の職に就くことができます。
ちなみに、そこには設備の整った物理実験室があり、オームはそこで電気関係の実験を行っていきます。
さらに、この時には第29回で紹介したジョゼフ=ルイ・ラグランジュや、
第39回で紹介したピエール=シモン・ラプラス、
ジャン=バティスト・ビオ、シメオン・ドニ・ポアソンの本を読み個人的な研究を続けます。
1820年には、ハンス・クリスティアン・エルステッドが電磁気学を発見したことを知り、実験的な研究を始めます。
1827年には、ルイージ・ガルヴァーニの電流回路の数学的研究を始めます。
この研究は、その後の電気回路学とその応用に重要な意味を持った研究だったのですが、当時の科学界の反応は冷たいものでした。
さらに、オームの性格は内向的だったことと、当時のベルリンで影響力があった人物であるヨハネス・ハインリヒ・シュルツなどに気に入られなかったので、なかなか評価されなかったです。
1833年にはニュルンベルクの工科学校で職を得て、1845年にはバイエルン大学で人文科学アカデミーの正会員になります。
そして1852年には、ミュンヘン大学の実験物理の教授になるのですが、この2年後に亡くなってしまいます。
オームという科学者
実は、オームは当時ドイツ国内では業績を認められなかったのですが、国外では評価されています。
1841年には王立協会からコプリ・メダルの授与され、1842年には王立協会の外国人会員になります。
父親が独学で子どもたちに教育を施し、大学まで行くことができたのですが、その後は色々ありながらも研究し続け、最終的に大学教授の地位まで手に入れます。
しかし、当時はドイツ国内ではあまり評価されず苦しい時期もあったのではないかと思います。
今回は、高校教師をしながら重大な業績を残したのに自国に認められなかった科学者ゲオルク・オームを紹介しました。
この記事で少しでもオームについて興味を持っていただけたのなら嬉しいです。