【科学者シリーズ#083】炭疽菌、結核菌、コレラ菌の発見者で細菌学の父【ロベルト・コッホ】
第35回目で紹介したルイ・パスツールは、近代細菌学の開祖と言われているのですが、実はもうひとり近代細菌学の開祖と言われている人物がいます。
パスツールは、低温殺菌法を発見したり、狂犬病のワクチンを開発したりしました。
それに対して、様々な菌を発見したり、細菌培養法の基礎を確立した科学者がいます。
今回は、炭疽菌、結核菌、コレラ菌の発見者で細菌学の父であるロベルト・コッホを紹介します。
ロベルト・コッホ
名前:ハインリヒ・ヘルマン・ロベルト・コッホ
(Heinrich Hermann Robert Koch)
出身:ハノーファー王国
職業:医師・細菌学者
生誕:1843年12月11日
没年:1910年5月27日(66歳)
業績について
コッホは、炭疽菌、結核菌、コレラ菌を発見したり、細菌培養法の基礎を確立しました。
ちなみに、コッホの研究室で発明された寒天培地やペトリ皿は今日でも使われています。
さらに、コッホの原則を提唱して医学の発展に大きく貢献します。
このコッホの原則というのは、感染症の病原体を特定する際の指針のひとつになります。
その内容は
・ある一定の病気には一定の微生物が見出されること
・その微生物を分離できること
・分離した微生物を感受性のある動物に感染させて同じ病気を起こせること
・その病巣部から同じ微生物が分離されること
になります。
この法則により数多くの病原体が発見され、医学微生物学は急激に発展していきます。
ちなみに、現在はコッホの原則では証明できない感染症も存在しています。
生涯について
コッホの父親は鉱山技師で、コッホは13人兄弟の3番目として誕生します。
幼い頃からとても優秀で、学校に入学する前に読み書きを独学します。
1848年には学校に入学し、1862年に中等教育を終了するのですが、学校では科学と数学が特に優れていました。
1862年の19歳の時にはゲッティンゲン大学に入学し、数学、物理学、植物学を学び始めます。
その後、病理学博物館の助手に任命されたことをきっかけに、研究分野を医学に変更します。
そして、ヤーコプ・ヘンレから子宮の神経構造に関する研究プロジェクトに参加するように誘われます。
この研究が大学から評価され研究賞が贈られ、その褒賞として当時ドイツで最も有名な医者だったルドルフ・フィルヒョウの下で短期間学ぶことができます。
1866年には大学を卒業し、ハンブルク総合病院で短期間助手として働きます。
1866年10月にはランゲンハーゲンの精神疾患の病院に一般内科医として赴任します。
1867年7月には、エマ・アドルフィン・ジョゼフィーヌ・フラッツと結婚し、翌年には娘のガートルードが誕生します。
その後は何回か場所を移動し、1870年にフランス帝国とプロイセン王国の間で行われた戦争である普仏戦争が始まり、1871年に戦争支援のためにボランティアの外科医としてドイツ軍に入隊します。
1872年にはポーランドで正式に地方医師になります。
コッホは妻から顕微鏡を贈られ、さらに自分の研究室をつくります。
そして、顕微鏡で微生物学の研究を行い、特に炭疽病について詳しく調べ始めます。
この時コッホは細菌を増殖させる技術を開発します。
1876年には、炭疽病が1つの特別な病原体である炭疽菌によって引き起こされることを発見します。
そして、コッホは特定の微生物を特定の病気と結びつけることで、これまでの自然発生説を否定し、病気の細菌理論を支持します。
この炭疽菌の発見は、ブレスラウ大学の教授である細菌学者のフェルディナント・コーンが感銘を受け、1876年にコッホが炭疽菌に関する本を出版する際に協力してくれます。
1879年には地区医師としてブレスラウに転勤し、1880年から1885年には帝国保健局に勤務します。
1880年代には結核の研究に興味を持ち、結核菌を発見します。
コッホは、結核は細菌によって引き起こされ、感染症であると確信していました。
1883年には、結核ワクチンをつくろうとするのですが失敗します。
1885年には衛生研究所所長兼医学部教授に就任します。
1890年11月までには結核のワクチンであるツベルクリンを投与することにより人間の治療における有効性を実証します。
しかし、この治療はモルモットで行うと重篤な症状が現れることが明らかになります。
さらに、ツベルクリンで治療を受けた21人の被験者たちは亡くなってしまいます。
そして1891年のツベルクリンを治療薬とする臨床試験に関する報告書は、コッホの「最大の失敗」と評価されます。
このことがコッホの評判を大きく下げる結果となり、同じ年の1891年には衛生研究所を辞職し、今度はプロイセン王立感染症研究所の所長になります。
1893年には妻と離婚し、同じ年の後半には30歳年下のヘドヴィグ・フライブルクと結婚します。
1883年8月には、ドイツ政府はコッホ率いる医療チームを、コレラ解明のためエジプトのアレクサンドリアに派遣します。
すぐにコッホは、コレラで死亡した人々の腸の粘膜には常に細菌感染があることを発見します。
しかし、この時は細菌が原因であるとは確定できませんでした。
その後、エジプトでの流行が沈静化したため、今度はインドのカルカッタに派遣されます。
そこでは、すぐにガンジス川がコレラの発生源であることを発見します。
そして、100体近くの遺体を解剖し細菌感染を発見するのですが、この時も決定的な証拠を完全に確定することは出来ませんでした。
コッホは、病気を引き起こす細菌のある種の毒が関係あると仮説を立てます。
この毒については、1959年にインドの医学者であるシャンブ・ナス・デがコレラ毒素を発見します。
1905年には、結核に関する研究の業績によりノーベル生理学・医学賞を受賞します。
1906年にはトリパノソーマ症の治療法を研究するためアフリカに移住し、1日あたり最大1000人に実験薬で治療をします。
コッホという科学者
コッホと同じ時期に活躍していた細菌学者としては、第35回目で紹介したルイ・パスツールがいます。
実は、コッホとパスツールは面識があり、さらにこの2人は最終的に敵対します。
まずは、1881年8月にロンドンで第7回国際医学会議ではじめて会うのですが、この時はお互い友好的でした。
しかし、1876年コッホが炭疽菌を発見し、菌が感染症を引き起こしたと解釈するのですが、この考えをパスツールが批判します。
1882年には、2人は国際衛生会議で公開討論を行います。
その時、コッホは「パスツールの方法は信頼できない」と言い、その後もパスツールを攻撃し続けます。
さらにコッホは、「パスツールは医師ではないので、彼に病理学的過程や病気の症状について適切な判断を下すことは期待できない」と言います。
このことで、2人は完全に敵対関係になってしまいます。
小さい頃から優秀だったコッホは、途中から医学の道へ進み、細菌学で様々な発見をします。
さらに、細菌培養法の基礎を確立し、その後の細菌学に多大な影響を与えました。
今回は、炭疽菌、結核菌、コレラ菌の発見者で細菌学の父であるロベルト・コッホを紹介しました。
この記事で、少しでもコッホについて興味を持っていただけると嬉しく思います。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?