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【科学者#099】金庫破りに夢中になったユーモアあふれる物理学者【リチャード・P・ファインマン】

科学者や本が好きな人の中には、『ご冗談でしょう、ファインマンさん』という本を聞いたことがある人も多いと思います。

この本は、ファインマンの友人であるラルフ・レイトンとファインマンの会話を7年間にわたって録音した中から題材を選び、レイトンが編集した回想録になります。

この本を一度は読んだことがある人なら、ファインマンのユーモアあふれるエピソードに魅了された人も多いのではないでしょうか?

今回は、金庫破りに夢中になったユーモアあふれる物理学者であるリチャード・P・ファインマンを紹介します。


リチャード・P・ファインマン

リチャード・P・ファインマン

名前:リチャード・フィリップス・ファインマン
   (Richard Phillips Feynman
出身:アメリカ合衆国
職業:物理学者
生誕:1918年5月11日
没年:1988年2月15日(69歳)



業績について

ファインマンは、経路積分という新しい量子化の手法を考案しました。

この経路積分を用いると、水素にみられるエネルギー準位のずれであるラムシフトを簡単に説明できるようになります。

このことが、量子電磁力学の発展に大きく貢献したことにより、1965年にノーベル物理学賞を受賞しています。

この時一緒に受賞した人が、第48回目で紹介した朝永振一郎さんになります。

さらに、カリフォルニア工科大学時代の講義の内容をもとに作成した、物理学の教科書になる『ファインマン物理学』は、世界中で高い評価を受けています。



生涯について

ファインマンは、小さな海辺の町のユダヤ人の家庭に、2男1女の長男として誕生します。

はじめは寡黙な子供だったのですが、2歳ごろから周りが驚くくらいよく話すようになります。

そして、父親が購入した大英百科事典をむさぼり読むようになります。

ちなみに、父親はベンダー・アンド・ゴールドスタイン社の制服販売業をしていたのですが、息子を科学者にしたいと考えていました。

そのため、父親はファインマンに自然科学の面白さを熱心に教え、ユダヤ教の日曜学校に通わせてヘブライ語を学ばせます。

1924年1月の5歳の時には、弟が誕生するのですが4週間で亡くなってしまいます。

その後、9歳の時には妹が誕生します。

11歳か12歳の時には、自宅に木の荷箱に棚を取り付けただけのものを、実験室と呼び、色々な実験をして遊ぶようになります。

さらに、壊れた古いラジオを直すようになり、近所の大人がラジオの修理を依頼することが度々あったらしいです。

ファインマンは、高校までは化学と数学が学年のトップの成績で、高校卒業後はコロンビア大学を受験します。

しかし、ユダヤ人学生の上限枠のため不合格になったので、1935年にマサチューセッツ工科大学に入学して物理学を学ぶことになります。

1939年から1943年には、プリンストン大学の大学院生になりジョン・ホイーラーの助手を務めます。

1942年には、アーリーン・クリーンバウムと結婚します。

その後ファインマンは、ホイーラーに勧められ、電気力学の量子論についてのゼミをすることになるのですが、その前評判を聞きつけて、ユージン・ウィグナー、ヘンリー・ノリス・ラッセル、第67回目で紹介したジョン・フォン・ノイマン、第66回目で紹介したヴォルフガング・パウリ、第98回目で紹介したアルベルト・アインシュタインなどが出席します。

ユージン・ウィグナー
ヘンリー・ノリス・ラッセル

その後、アメリカの原子爆弾を開発するマンハッタン計画に誘われるのですが、はじめは断ります。

しかし、ヒトラーが原子爆弾を先に開発する恐れがあると思い直し、計画に参加することになります。

はじめの方はプリンストン大学内で計画に協力するのですが、のちにロスアラモスへ行き研究に携わるようになります。

ファインマンは、ロスアラモスにいく直前に6週間の休暇を取り、電磁場の先進波についての博士論文を書き上げて博士号を取得しています。

1943年4月から1946年11月には、ロスアラモス国立研究所に移り、原子爆弾の計画に携わるのですが、この期間中の1945年に妻のアーリーンが結核で亡くなってしまいます。

ちなみに、マンハッタン計画では理論グループに所属するのですが、下っ端の雑用から、ウラン凝縮工場の視察、計算機を使った膨大な計算など、さまざまな任務に携わります。

1946年11月6日から1951年にはコーネル大学の教授に就任し、1951年からはカリフォルニア工科大学の教授に就任します。

1952年6月には、メアリー・ルイーズ・ベルと結婚するのですが、4年で離婚してしまいます。

これは、ファインマンによる楽器のボンゴの騒音と、常に微積分に没頭していたためだと言われています。

1953年には、国際理論物理学会で京都に滞在しています。

1960年には、前の年に女中として雇っていたイギリス人のグウェネス・ホワースと結婚し、実子のカールと養子のミシェルを授かります。

1962年にはアーネスト・ローレンス賞を受賞し、1965年には量子電磁力学の発展に大きく貢献したことによりノーベル物理学賞を受賞します。

1972年には、エルステッド・メダルを受賞します。

1986年1月28日には、アメリカのスペースシャトルのチャレンジャー号事故について、ロジャース委員会の調査員のひとりとして事故の原因を調査します。

1978年から1987年10月までに、腹部の癌で合計4回の手術を受けます。

そして、1988年2月15日午前10時34分に、UCLA医療センターで亡くなるのですが、翌年の1989年には妻のグウェネスも亡くなってしまいます。

ファインマンは、生涯を通じてユーモアあふれる語り口であったと言われていたのですが、死ぬ間際の最後に残した言葉が、
「2度死ぬなんて、まっぴらごめんだね。全くつまんないからな」
だったらしいです。



ファインマンという科学者

ファインマンはノーベル賞を受賞したとき、受賞をお知らせする電話が朝の3時半前後にかかってきます。

このことに腹をたてたファインマンは、「今眠たいんだ!」とだけ言い放ち、すぐに電話を切ります。

しかし、その直後から次々と電話がかかってきて、うんざりしたファインマンはノーベル賞を受けなければこんな目に合わずにすむと考えて、受賞を辞退しようと考えました。

その後、ノーベル賞の受賞を断った方が、余計に騒がれると雑誌のタイム誌の記者に諭されたことにより受けることに決めました。

ファインマンの回想録としては、『ご冗談でしょう、ファインマンさん』があるのですが、その中で金庫破りに熱中したことや、芸術やサンバ音楽に傾倒したことなどが書いてあります。

金庫破りの腕を磨き、他の研究者たちを驚かせたエピソードは、本当に起きた話なのかと疑いたくなるくらい、印象的なエピソードのひとつなのではないでしょうか。

今回は、金庫破りに夢中になったユーモアあふれる物理学者であるリチャード・P・ファインマンを紹介しました。

この記事で少しでもファインマンについて興味を持っていただけると嬉しく思います。


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