【科学者#047】読書家で未知の世界を好んだ日本人初のノーベル物理学賞受賞者【湯川秀樹】
いつの時代も、初めて何かを成し遂げた人は偉大で、知っている人も多いと思います。
毎年発表されるノーベル賞は、興味がない人でも一度は聞いたことがある賞ではないでしょうか。
そんなノーベル賞を日本人ではじめて受賞したのは戦後で、敗戦により深く傷ついていた日本国民に対して大きな影響を与えたと言われています。
今回は、読書家で未知の世界を好んだ日本人初のノーベル物理学賞受賞者である湯川秀樹さんを紹介します。
湯川秀樹
名前:湯川秀樹
出身:日本
職業:物理学者
生誕:1907年1月23日
没年:1981年9月8日(74歳)
業績について
湯川さんは、中間子を理論的に予言し、ノーベル物理学賞を受賞しています。
1935年頃に原子核を構成する中性子と陽子を結びつける粒子として中間子を提唱しました。
現在中間子は、クォークと反クォークが強い相互作用によって結合した複合粒子の一種であると言われています。
ちなみにクォークとは、物質を構成する最小単位である素粒子のひとつになります。
この中間子理論は、はじめ観察されていない中間子を否定的にみる科学者も多くいました。
第27回で紹介したニールス・ボーアや、第32回で紹介したヴェルナー・ハイゼンベルクも否定的な立場をとった科学者になります。
ちなみに、湯川さんはボーアからは中間子理論について直接批判的な意見を言われているのですが、その時擁護してくれたのが第34回目で紹介した仁科芳雄さんになります。
生涯について
湯川さんは5男2女の7人兄弟の三男として誕生します。
母親の教育方針では、男の子供は全員学者にするつもりで育てます。
そのこともあり、長男は冶金学、次男は東洋史学、弟は中国文学の学者になります。
末の弟は戦死してしまうので、湯川さん自身を含め男兄弟はすべて何かしらの学者になりました。
父親は、地質学者の小川琢治(おがわたくじ)で、湯川さんは父親の命令で5歳くらいから漢書の素読を祖父に教わります。
ちなみに素読とは、意味を考えないで文字だけを声を出して読むことになります。
毎日30分~1時間読んでおり、学校に入学する前に四書五経(ししょごきょう)を読み、これを習得した後はどの本でも簡単に読むことができたと言われています。
そもそも湯川さんの家の中にはすごい量の蔵書があり、本を常に読んでいました。
小学校入学前には『太閤記』10巻を読み、尾崎紅葉(おざきこうよう)や夏目漱石の小説、里見八犬伝、三国志、水滸伝、伊勢物語、平家物語などは小学生の間に読破します。
さらに中学生のときには、近松門左衛門や井原西鶴の作品や、イワン・ツルゲーネフ、レフ・トルストイ、フョードル・ドストエフスキーの小説、ロマン・ロランの『ジャン・クリストフ』、西行法師の『山家集』(さんかしゅう)などを読みます。
幼少期の湯川さんは、はにかみでおとなしく、口数も極端に少ない内向的で剛情な性格でした。
他の人に弁解するのがとにかく嫌で、面倒なことは「いわん」っと口をつぐんでしまうので「イワンちゃん」とあだ名がついてしまいます。
そんな幼い湯川さんを見て、父親は「秀樹は何を考えているか分からん」と言います。
そして、他の兄弟と違う湯川さんを専門学校に行かせようと考えるのですが、母親や中学校の先生の強い反対にあいます。
16歳で三高に入学し、老荘(ろうそう)の哲学から西洋の哲学まで読み、特に西田幾多郎(にしだきたろう)の哲学に最もひかれます。
そして、やがて湯川さんは『科学概論』や『最近の自然科学』で20世紀の物理学に興味を持つようになります。
さらにこの頃に、英語版の『量子論』という本を入手します。
その本には前期量子論が書かれていて、湯川さんは「それまでに読んだどの小説よりも面白かった」と言っていました。
高校3年生のときには力学の講義でのちにノーベル物理学賞を受賞する朝永振一郎さんと出会い、朝永さんの頭の良さに気付きます。
1926年には、湯川さんは京都帝国大学の理学部に進みます。
この当時は、量子力学の数学的な基礎が確立された時期で、教科書も指導者もいない新しい分野だったので、原著論文を読み独学で習得していました。
1929年には京都大学から学位を受け、この年の秋にはハイゼンベルクとポール・ディラックが日本に来て連日講義をして、このことが湯川さんにとって大きな刺激となります。
その後、湯川さんは朝永振一郎さんと共に無給の副手として京都大学の研究室に残ります。
1932年には25歳で湯川スミさんと結婚し、婿入りすることになります。
1932年4月からは、京都大学の講師として量子力学の講義を始め、翌年には大阪大学の専任講師になり、京都大学の講義と兼任するようになります。
そして、1932年にジェームズ・チャドウィック(1891-1974)が中性子を発見したことを受け、1934年から湯川さんは中間子論について考え始めます。
そして、1935年に「素粒子の相互作用について」を発表したのですが、2年余りの間は国内での反響は良くなく、国際的にもほとんど評価されませんでした。
さらに、1937年に来日したボーアからは、中間子論について否定的なコメントをもらいます。
実はこの時、仁科さんが湯川さんをかばい、のちに湯川さんは仁科さんの言葉に「非常に鼓舞された」と語っています。
1937年には、カール・デイヴィッド・アンダーソン(1905ー1991)とセス・ネッダーマイヤー(1907ー1988)が新粒子を発見します。
このことにより、第38回で紹介したロバート・オッペンハイマーが湯川さんが予言した中間子ではないかと指摘し、湯川さんの中間子論が一躍注目を浴びることになります。
1948年には、オッペンハイマーは湯川さんをプリンストン高等研究所の客員教授として招きます。
1949年にはコロンビア大学の教授となったためニューヨークへ移り、この年にノーベル物理学賞を受賞しています。
この頃に、反核運動にも積極的に携わり、ラッセル=アインシュタイン宣言にマックス・ボルン(1882ー1970)らと共に共同宣言者として名前を連ねます。
1975年には、前立腺がんを発症し手術を受け、自宅で療養を続けながら研究を続けます。
そして1981年9月に、急性肺炎からの心不全を併発し自宅で亡くなります。
湯川秀樹という科学者
湯川さんは、
「未知の世界を探求する人々は、地図を持たない旅行者である」
という言葉を残しています。
新しい研究の話を楽しんで聞き、未踏の学問分野の開拓を喜びました。
湯川さんは天文物理、生物物理、宇宙物理など新しい領域の育成に貢献しました。
さらに、「混沌会」という集まりをつくります。
湯川さんは、
どの学問でも道が出来てしまうと面白くない
海のものとも山のものともつかない混沌の時代が一番面白い
と主張します。
それまであまり開拓されていないかった量子力学の分野を進み続け、そして周りに否定的な意見を言われても新しい学問の扉を開きました。
今回は、読書家で未知の世界を好んだ日本人初のノーベル物理学賞受賞者である湯川秀樹さんを紹介しました。
この記事で少しでも湯川秀樹さんに興味を持っていただけたのなら嬉しく思います。