【科学者#097】難病に苦しみながらもブラックホールの研究を前進させた車いすの物理学者【スティーヴン・ホーキング】
天文学系の本は世の中に色々出版されていますが、天文学好きなら一度は『ホーキング、宇宙を語る』を聞いたことがある人も多いと思います。
2001年までに35言語に翻訳されたこの本は、20年間で1,000万部以上の売り上げを記録しました。
今回は、難病に苦しみながらもブラックホールの研究を前進させた車いすの物理学者であるスティーヴン・ホーキング紹介します。
スティーヴン・ホーキング
名前:スティーヴン・ウィリアム・ホーキング
(Stephen William Hawking)
出身:イギリス
職業:理論物理学者
生誕:1942年1月8日
没年:2018年3月14日(76歳)
業績について
ホーキングは、一般相対性理論に関する分野で理論研究を前進させたと言われています。
1965年には「ブラックホールの特異点定理」を発表し、
1971年には「宇宙創成直後に小さなブラックホールが多数発生する」という理論を提唱し、
1974年には「ブラックホールは素粒子を放出することによってその勢力を弱め、やがて爆発により消滅する」という理論を発表します。
そして、これらの研究により量子宇宙論という新たな研究分野をつくることになります。
生涯について
ホーキングの父親はオックスフォード大学で熱帯医学を学んでおり、母親は同じオックスフォード大学で哲学、政治、経済を学んでいました。
父親は第二次世界大戦直前に、医学研究所の研究員として働いており、母親も同じ場所で秘書として働いており、2人は出会い結婚しました。
両親は、はじめロンドンのハイゲートで暮らしていたのですが、第二次世界大戦でロンドンが爆撃を受けたため、母親はオックスフォードに疎開してホーキングを出産します。
成長したホーキングはバイロン・ハウス・スクールで初等教育を開始するのですが、この学校では読むことを教えなかったため、のちにホーキングは「学校では何も学んでいない」と非難していました。
1950年には、父親がナショナル・インスティテュート・フォー・メディカル・リサーチ(NIMR)の寄生虫部門の責任者となったので、ロンドン中央部から北へ22キロ地点にあるセント・オールバンズに引っ越します。
1952年にはセント・オールバンズ・スクールに通うのですが、友人とボードゲームをしたり、花火を作ったり、模型飛行機で遊んで過ごしました。
1958年には、数学教師の助けを借りつつ、友達と時計部品、電話交換機、中古部品などを使い計算機を作ります。
ちなみに、この時の数学教師の助言により、ホーキングは大学で数学を学ぼうと決意します。
しかし父親は、数学の専攻だと職が少ないことから、両親の出身校であるオックスフォード大学で医学を学ぶように勧めます。
その結果、当時オックスフォード大学では数学は選択できなかったため、ホーキングは物理学と化学を学ぶことにしました。
1959年には試験を受け奨学金を獲得し、1959年10月の17歳の時にはオックスフォード大学に入学します。
しかし、ホーキングは周りの人たちよりも若く、さらに授業内容は簡単だと思えたので、はじめの1年間は孤独でした。
その後、2、3年の時にはクラシック音楽やSFに興味を持っている人たちのグループと交流するようになったり、ボート部に参加したりして大学生活を楽しむようになります。
大学卒業後は、ケンブリッジ大学の大学院で宇宙論を研究したいと思っていたので、そのためには第一級優等学位が必要でした。
試験の結果、第一級優等学位と第二級優等学位の間だったため、口頭試問が必要になりました。
この時、ホーキングは試験官に対して、
「もしあなた方が私に第一級を与えてくだされば、ケンブリッジ大学に行くでしょう。もし第二級を受ければオックスフォード大学に残りますから、私に第一級を下さると思います」
と伝えます。
この会話が決め手になったのかは分からないのですが、ホーキングは無事第一級優等学位を受け、1962年10月からケンブリッジ大学の大学院で研究を始めます。
大学院では指導教官がデニス・シアマが担当であることを知り失望したり、一般相対性理論を研究するには数学の訓練が足りないことが分かります。
1962年頃には自分が不器用になっていることに気付き、その年のクリスマスに帰省した際には親から病院に行くように説得されます。
1963年には、筋萎縮性側索硬化症と診断されたことにより、うつ状態に陥ります。
主治医は学業を続けるように助言するのですが、ホーキングは余命2年と診断されていたこともあり、勉強することは意味がないと感じます。
しかし、歩行は困難になり、話す言葉も分かりにくくなるのですが、病気の進行は予想よりも遅かったので研究に戻ります。
さらに、この時期に結婚したい女性と出会ったことで就職するには博士号を取得しなければいけないことに気付き、このことも後押ししてくれます。
1964年6月には、フレッド・ホイルとジャヤント・ナーリカーの研究に対して公に異議を唱えたりと、才気あふれ、さらに生意気さがあると広まっていきます。
その後、ケンブリッジ大学のゴンヴィル・アンド・キーズ・カレッジの特別研究員の資格を得ます。
1965年にはジェーン・ワイルドと結婚したり、ロジャー・ペンローズと共同で「特異点定理」を発表します。
1966年3月には、一般相対性理論と宇宙論の専攻で、応用数学、理論物理学の博士号を取得します。
1967年には長男が誕生したり、「特異点と時空の幾何学」でアダムズ賞を受賞します。
1970年には長女が誕生したり、1974年にはロンドン王立協会のフェローに選出されます。
1975年には、ローマ教皇庁からピウス11世メダルが授与されます。
1977年にはケンブリッジ大学の教授職を得て、1979年にはケンブリッジ大学のルーカス教授職に任命され、同じ年には次男が誕生します。
1985年夏には、肺炎にかかり病院に緊急搬送されるのですが、この時気管切開手術をしたことにより声が完全に失われます。
1988年には『ホーキング宇宙を語る』を出版し、発行部数が全世界1000万部のベストセラーになります。
1991年にはジェーン・ワイルドと離婚し、1995年には看護師のエレイン・メイソンと再婚します。
2009年9月にはケンブリッジ大学を退任するのですが、その後もケンブリッジ大学に留まり、応用数学と理論物理学部の研究責任者を務めます。
2011年にはエレイン・メイソンと離婚し、2018年3月14日には自宅で亡くなってしまいます。
ホーキングという科学者
ホーキングは、大学までは友人と学校生活を楽しみながら勉強してきました。
しかし、大学院で研究していた1963年に筋萎縮性側索硬化症になり、一時期はうつ状態に陥ります。
その後は、病気の進行も遅いのもあり、ブラックホールに関わる研究をしたり、一般人向けの本を執筆したりしました。
今回は、難病に苦しみながらもブラックホールの研究を前進させた車いすの物理学者であるスティーヴン・ホーキングを紹介しました。
この記事で少しでも、ホーキングについて興味を持っていただけると嬉しく思います。