【科学者#017】予測をして亡くなったニュートン『プリンキピア』の陰の立役者【エドモンド・ハレー】
現在3600以上の彗星が発見されていますが、その中でも有名なのはハレー彗星ではないでしょうか。
彗星に自分の名前が付いた科学者は、次彗星を見ることができる日を予測しましたが、その日が訪れる前に亡くなりました。
今回は、予測をしたけれども彗星を見ずに亡くなり、そしてニュートンの有名な本『プリンキピア』を出版する際になくてはならない人物であるエドモンド・ハレーについてです。
エドモンド・ハレー
名前:エドモンド・ハレー(Edmond Halley)
出身:イングランド共和国
職業:天文学者・物理学者・数学者・気象学者
生誕:1656年11月8日
没年:1742年1月25日(85歳)
業績
ハレー彗星
彗星は太陽系の小天体で、氷やちりでできています。
そして、太陽に近づいたとき一時的にちりやイオンの尾を生じるものを言います。
ハレーは1695年頃から彗星の軌道を注意深く研究します。
その結果、1682年にあった彗星が周期的であり、1531年の彗星と1607年の彗星と同じ天体であると計算します。
そして1705年、その彗星が76年周期であるという予測を発表し、ハレーは1758年12月に彗星が現れると主張します。
その後、ハレーは1742年に亡くなるのですが、1758年12月25日に彗星が観測され、この彗星をハレー彗星と呼ぶようになります。
生涯について
幼少期から結婚するまで
ハレーの父親は、ロンドンの裕福な石けん製造業者でした。
1666年、ハレーが10歳のときにロンドンで大火があり、多くのものを失います。
このロンドンの大火は、パン屋のかまどから出火して、4日間にわたって燃え続け、ロンドン市内の家屋およそ85%が燃えてしまいました。
1673年にオックスフォード大学に入学します。
17歳のときには、ハレーはすでに父親から天文機器を買ってもらい、天体観測を行っていました。
1675年には、王室の天文学者のジョン・フラムスティード(1646ー1719)と協力して、オックスフォードとグリニッジの両方で観測の手伝いをします。
そして、1676年6月11日、オックスフォードで月による火星の蝕など重要な観測を行います。
同じ年の1676年11月に、学業をいったんあきらめ、南半球のセントヘレナ島に航海に出ます。
この時、父親や王立協会会長のウィリアム・ブラウンカー(1620-1684)などから支援を受けます。
ハレーはセントヘレナ島には18か月滞在します。
南半球の341個の星をまとめたり、ケンタウルス座に星団を発見したりします。
1678年にはイギリスへ戻り、南半球の星図でをつくり『南天星表』(なんてんせいひょう)を出版します。
そして同じ年の11月30日の22歳のときに、これまでの天体の業績を評価され史上最年少でロンドン王立協会のフェローになります。
さらに同じ年の年12月3日、ハレーは大学の学位試験を受けることなくオックスフォードの博士号を取得します。
1679年、王立協会はハレーをダンツィヒに派遣します。
なぜ派遣したかというと、第13回で紹介したロバート・フックと
第15回で紹介したヨハネス・ヘヴェリウス
との間で行われた論争を仲裁するためでした。
フックの主張は、望遠鏡を使わずに行ったヘヴェリウスの天体観測は正確ではないというものでした。
そこで、ハレーがヘヴェリウスの行った観測をチェックし、正確であると宣言することでこの論争は決着がつきました。
この論争後は、ハレーはしばらく職にはつかずにヨーロッパ旅行に行きます。
1682年に、イギリスにもどりメアリーという女性と結婚します。
ハレーの実の母親はこの10年位前に亡くなっているのですが、この同じ時期に父親も再婚しています。
しかし、1684年3月に父親は突然行方不明になり、5週間後に死亡しているのを発見されます。
ニュートンとの関係性
1684年8月、ハレーはニュートンを訪問します。
ハレーは、第2回で紹介したケプラーの惑星運動の法則を証明しようとしており、ニュートンと議論を行いました。
その中で、ニュートンがこの問題をすでに証明し終えているが、発表していないことを知ります。
そして、ハレーはこのことを発表するように説得し、ニュートンはプリンキピアという本を出版することを決めます。
この出版に関しては、最初は王立協会が援助することを確約していたのですが、資金難のため途中で援助することができなくなってしまいます。
この出版の危機を救ったのも、実はハレーでした。
ハレーはプリンキピアを出版するにあたり全ての費用を支払い、無事出版することができました。
1691年、オックスフォードのサヴィル教授職の募集があり、ハレーはこの職につこうとします。
しかし、フラムスティードが強く反対します。
なぜ反対したかというと、ハレーの宗教観と相いれなかったことと、フラムスティードがニュートンに対して好意的ではなかったと言われています。
最終的には、サヴィル教授職には違う人が任命されるんですが、ハレーはサヴィル教授職には1703年に任命されます。
1696年にニュートンがロンドンの王立造幣局の所長になるのですが、同じ年にチェスターの造幣局の副長官にハレーを任命したり、ニュートンとの関係はその後も続いていきます。
ちなみに、造幣局には2年間勤めます。
それと微積分法についてゴットフリート・ライプニッツと論争になったときは、ハレーはニュートンを支持します。
航海へ
ハレーが造幣局を2年間しか勤めることが、なぜできなかったのかというと、1698年にウィリアム3世から軍艦パラモア号の指揮を任されます。
1698年11月にいったん出航するのですが、問題が発生しすぐに帰国します。
そして、1699年9月に再び出航し大西洋岸を調査し、1701年にはイギリス南部の潮汐と海岸を調査します。
その後帰国し、1703年にはオックスフォードのサヴィル教授職に任命され、1720年にはフラムスティードの後を継いで王室の天文学者(グリニッジ天文台長)に任命されます。
ハレーという科学者
ハレーは、グリニッジ天文台長になってからは、死ぬまでその職に就きます。
そして、自分が予測した彗星を見ることなく亡くなります。
そう考えると、天文学という学問の時間的感覚は途方もなく長く、自分で結果を知ることができず、未来に託す研究も多いことをハレーの業績から改めて気づかされます。
そして、その当時でもかなり有名で、歴史的にも重要なニュートンのプリンキピアを出版へ導き、支援したのがこのハレーになります。
ハレーがいなければ、もしかしたらニュートンの研究は世に出ずに、最悪の場合歴史の中に消えていったのかもしれません。
そんな、ハレーのことを少しでも知るきっかけになれたのなら嬉しいです。