介護の終焉
2024年3月某日朝7時(少し前だったかな)
年度の仕事も全部終わってまったりとした朝。オンタイマーでテレビがついていて、その音で起き上がる。
普段なら、ベッドの上で唸る母はとても静かだった。
今日は休みだから彼女を起こす仕事はもう少し後でもいいかなと、水を飲んだ後で、寝ている部屋に戻りカーテンを開けた。
「めめちゃん(母のことをそう呼んでいた)、おはよー」
いつもの言葉。変わらない日常。返事をすることは滅多になくなっていたから、返事が返ってこないのはいつものこと。
だけど、いつも開いている目は閉じたまま。
すこし口を開き、目を閉じたままの母。
「...…おかーさん」
違和感と同時に悟る。とっても冷静に。
だけど、その行動はとてもおかしかったと思う。
「おかーさん!」
ぺちぺちと頬をたたくと、その頬はもう冷たかった。
「おかーさん!」
瞼をもちあげても目は動かなかった。
枕元の電話で救急車を呼ぶ。
冷静と異常の背中合わせ。
ちゃんと住所も名前も、聞かれる前に言えているのに、その口調は早口でまくし立てる。
「ハハが息をしていないんですっ。顔も手も冷たくて、お腹は少し暖かくて...…」
電話の向こうで胸を押して蘇生(?)のようなことをしてくれと言われたからやったけど、頭の片隅で『もう息していないのに、意味ない..…』そう思っていた。それでも手を止めることはできなかった。
開いてる玄関から消防の人が入ってきて、ものの数分で搬送が決まる。
さすがに寝巻ではいけないから、普段着を着て準備している間に母は救急車に乗せられ、搬送病院も決まっていた。
搬送先は家から数分の大学病院。
搬送されてから十分程度で臨終の宣告を受けた。
その時、私から医師に聞いたのはたった一つ。
「ハハは苦しかったんでしょうか?」
医師の答えが少しだけ私をすくった。
「本人も分からないくらい眠ったまま静かに逝かれたと思います」
結局、CT検査をしても死因に直接結びつく病気はなかった(一最終的に循環不全)。
年齢84歳
慢性腎不全で人工透析6年
過去に肝膿瘍による敗血症性ショックで生死を彷徨い、大腸癌も患った。若い時から高血圧で薬を常用していた。
原因不明の痙攣があったり、下血があったりとなにかとあったけど、寝たきりになった2年4か月は比較的穏やかだったと思う。
亡くなる5日前に3か月に1回の大学病院受診。そのあとにドトールでコーヒーとコーヒーゼリーパフェを食べた。
いつも通りに透析に行き、亡くなる2日前には訪問入浴で綺麗にしてもらった。
亡くなる前の夜まで自分で食事を食べ、テレビを見ていた。
そして眠ったまま、目を覚まさなかった。
前の日の夜、おかずを少し残したことに、ぐちぐち文句を言った。
今考えたら食べられなかったのかもしれない。
後から考えれば...…だけど、食べなければ透析もつらくなる。こっちも通常営業だった...…。
寝たきりになる前なんて、ヒステリックに金切声をあげて怒る娘に介護されていたのに...…。
前の日に、ちゃんと食べろと怒る娘なのに...…。
それでも、娘の仕事に一切支障の出ない日を選ぶようにして、自宅のベッドの上で眠ったまま息を引き取ったハハ。
子供孝行なんてしなくていいのに...…。
子供孝行のハハの介護は「突然」、だけど「穏やかに」終焉を迎えた。
後悔がないかと問われれば...…後悔だらけだ。