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三法印・四法印より疑えー仏法をヴァージョンアップしたなら


仏教をヴァージョンアップするというのなら、三法印、四法印から疑ってかからないことには、アップはできないだろう。なぜなら、これらは当然の前提として無意識に受け入れてしまっているからだ。

たとえば三法印にひとつ「一切皆苦」というのがあるが、本当に苦だろうか?
人生は苦どころか生きているのは楽しいという人々は多数いる。飲んで騒いで、語り合って、旅行に行って、楽しいじゃないか。人生が苦だなんていうのは年寄りのことだろうと思うのは若者だけではない。
仏教は人生は苦だという認識から始まるので、それを前提にしないことには説法もできない構造になっている。
苦は四苦八苦に分類されているが、一番は生老病死の前四苦が苦の代表格になっている。楽しんで人生を謳歌している人でも、死を前にすると苦が生じるだろうということだ。

でも、生老病死は苦だろうか?
生まれてきたことは、仕方がない。生まれてしまったのだから。老いるのも仕方がない。ひとりでに老いていくんだから。アンチエイジングで頑張っても老いていく。病気もなりたくはないけれど、なることもあるさ。死はどうしようもない。死なない人は誰もいないんだから、いつかは死ぬ。その時、いよいよになってから、騒ぐなり、おとなしく受け入れるなり、すればいいのだ。どうなるかはなってみないことにはわからない。
それでは、苦はないということなのかというとそうではない。「辛い」は確かにある。しかし、辛いだけだ。人関係で嫌ならそこから去ればいいし、逃げ出せばいいだけのことだ。病は逃げられないけれど緩和することはできる。死は死んだことはないから分からないし、死んでしまえば死はわから、問題はむやみやたらに恐れることだけだ。
そこに、救済という安らぎを与え得るという仏教の教説は有効かもしれないという事はあるだろう。
あるだろうと他人事のように言っているが、実はそこがどうもしっくりこなかった。

法話にしろ、説法にしろ、当然のように苦だと言われることに、リアリティがないのだ。説得力がない。「苦じゃないでしょう」と法話の時、発言した人があった。そんな時でも、住職は「苦でしょう」としつこく繰り返していた。
それがおかしくて笑ってしまいそうになったが、苦じゃないという人に苦だとおしつけるわけにはいかないだろう。
苦だと言いくるめたところで、なにも解決しない。
むしろ、不信と無理解だけが残るだけなのだ。当然、法話は失敗という事になる。伝道できていないのだ。現代人にリアリティがあるように話さないことには、目的は達成されない。
それでは、これまでの仏教と同じ延長線上にあるわけで、ヴァージョンアップなんて不可能だ。
日本ではこれまでの大乗仏教は衰退しつつある。年々寺の数も減少し、無住の寺も増えている。だからと言って、日本人に宗教心がなくなってきているのかというそうではなく、受け入れるべきものがなくなってきている、というよりむしろ需要を満たしていないという事なのだろう。
そこには、これまでどうりの説法に終始している怠慢があり、需要を満たすものになっていないという事だろう。

まずは、三法印から疑えというのは、このことをさしている。

それでは三法印の本体である「諸行無常」、「諸法無我」、「涅槃寂静」についてはどうだろうか?
永井均は、これらの概念に何の検討もなしに当然のように使っている仏教者のことを笑っていた。
それはどんな長老でも、師家でも、老師でも同じことだ。
永井均はこう言っていた。

自我とか無我とかいった問題をめぐって仏教学者もいろいろなことを言っているんですが、文献学的なことはわかりませんが、意見の対立にもかかわらず、ほぼ一様に哲学的水準は低いです。(『マインドフルネス最前線』香山リカとの対談)

それでは、三法印とは何だったのだろうか。
一般的な用語説明では、諸行無常「すべての現象は常ならざるものである」とあり、つまり変わらないものは何もない、すべて変わると言っている。しかし何が変わるのかという事は述べていないので、次の諸法無我「すべての物事は、自己ならざるものである」とあり、普通は総ては本質を持たないものだと解釈される。そしてこのことをとうして涅槃寂静、「ニルバーナは安らぎである」という作りになっている。
その第一原理は諸行無常であって、これはサンスクリットでは次のようである。
anityām sarvasaṃskārāṃ
a nitaya は形容詞で「無常の」の意味。-ām は~によって、~にて、だからSaruvasamskārām によっての意味。
sarva 一切の、すべての、の意味。
saṃskāra 完成すること、荘厳にすること、清浄にすること
 
と言う意味で、諸行と訳しているが行=行為と言うよりもむしろ「飾りたてているも、荘厳にするもの、清浄にするもの」は常にではないというくらいの意味だ。おそらく聖典のことであって、直接的にはそれはバラモンの聖典ということを指すだろう。だから「一切の飾りたてているものは常にではない」というぐらいの意味で、一切は変化すると言っている。当然ブラフマンなりアートマンを指していると考えて良いだろう。
この語の予想される意味から離れても、一切は変化するというのは正しいのだろうか?
思いだせば大学の教養課程の仏教のテキストであった『仏教要論』(百華宛)でも「自然界も人間界も、肉体も精神もすべてのものが時々刻々と移り変わるという諸行無常の原理は、何人も疑うことのできぬ自明の理である」と言い切っている。これは現代の科学思想にも通じるものであるとしているが本当だろうか。
先の永井均の引用文では、対話なのでラフに語っているが、もし真に一切が無常ならば対比項がなかったら、無常ということそのものが成り立たないと言っている。つまり「常」なるものがあるから無常ということが言えるわけであって無常ばかりなら無常は成り立たないと言っている。諸行無常を根拠づける「常」とは何なのかを言わないと無常とは言えないのだ。
また次のようにも述べている。

それに、そもそもこの世界の多くのものは液体や気体ではなく個体で、しかもなぜか非常に確固とした固有の個体性・個別性を保持し続ける「一つ」と数えられるものです。石なんて百年以上経ってもほとんど同じ形のままで、なんとそのまま場所だけ変えたりすることができる!
だからこそ我々は世界を名詞と動詞によって、つまり〈実体―属性〉によってとらえることができて、なお驚くべきことに自分自身をもその仲間に入れて実体化して、世界内の「一つ」の個物として扱うことができてしまう。それゆえに言語というものが可能であって、それゆえ私と今を超えたコミュニケーションが可能なわけです。

無常だというのは、曖昧な概念だと言っている。
諸行無常をブラーフマン、アートマンに限って、永遠ではないと言っているのだと限定するなら、ブラーフマン、アートマンは永遠だとするバラモンに対して、いや永遠じゃないと言っただけのことで、同じ土俵に立っていることになる。
それでは、すでにバラモンの土俵を認めていることになりはしないか。
この無常の概念をそれでも無常だという課題を引き受けたのが、中観以降の大乗仏教だったと永井は言うのであるが、それを言うためには、バラモンとの同じ土俵ではいけなかったのだろう。そのヒントは龍樹の『根本中頌』にあるとみるけれど、そこは別稿で述べるとして、無常なる概念も疑ってみる必要があるだろ。

つぎに、「諸法無我」はどうだったか。
saruvadharmā anatṃānḥ
 「すべてのこと(法)は自己ならざるものである」と訳されている。
sarva すべての dharma 法、真理、ダルマ
an 否定をあらわす接頭語「~ではない」
atmanah →  アートマンだ
atman (男性)自己、自我のNかⅤ格
「すべての法はanアートマンだ」といっている。先にも述べているようにアートマンは永遠・不変の自我、真我をさしていたから、そんなものはないという意味で、無我といったのだ。
これについても、永井均は「自我、真我、無我についてー「気づき(サティ、マインドフルネス)」はいかにして可能か」(『世界の独在論的存在構造』の付録として所収)において議論している。
ここでも、永井が「私」と〈私〉とを分けた議論を踏まえずに、無我などあり得ないと語りだし、無我=真我と言っておどろかし、真我とともに無我も救い出そうとする構成になっている。
しかし、そもそも世俗世界は言語でとらえ得る世界でもあるけれど、勝義(聖なる)世界は言語では語れない。言語を超えているというよりも、言語で語り得ないものを語ろうとするから無理があるのであって、そこが宗教の無茶ぶりであって、永井も「超越的事実を平板な世界像の内部へ強引に位置づけることは一般に宗教というもののもつ特性の一つだ」と述べているので、このような無茶ぶりをするのだろう。
当然仏教だって、宗教だから強引に結びつけようとするけれど、「無我」というのも世俗世間での説法の時であって、永井均のスキームでは「私」という存在をー自らが作り出した私の像ないし物語ーそんなものはありませんよという説法に導いていることになる。
〈私〉がないという「無我」ではないということだろう。
先の言い方に戻すと無我の我はアートマンではなく、日常の我、つまり自己意識だったのではないか。
いやむしろ、永井均にとって〈私〉だけがスタートであったから、無我とは言えずむしろ真我なのであろう。
勝義の世界を言語で語れなかったように〈私〉も言語で持っては語り得ない。そこからは、ゴータマ・シッタルダが悟りの内容を語らなかったということにも通じていて、おそらくブッダは〈私〉を悟ったと考えると極めて腑に落ちる。
永井の議論は実際に呼んでもらうしかなくて、このまま議論を進めるなら、無常にしても無我にしても哲学的水準は低いとしても、なによりもその原理主義を鵜呑みにはできないし、無意識的に前提にしてしまっている点に問題があって、そこを批判しないことにはどうしようもないだろう。仏教をヴァージョンアップすると言いながら、ゴータマ・シッタルダの語ったことでない三法印なるものを原理原則でかたりだしたら、ヴァージョンアップなどできない。

ちなみに、「涅槃寂静」はどうだろうか。 
Śāntṃ nirvānṃ
Santam sam +ti ではないのか。 静寂
nirvana  吹き消す
「ニルバーナは安らぎである」はそのまま、勝義の世界をさしているだけで、原理とはいえないかもしれないがニルバーナ(涅槃)というものがあると言っているだけのことだ。
あまり、意味はない。

永井均もこの論文で、プラトニストを例に挙げて次のように述べている。

たとえば現代においてもプラトニストはたくさんいるが、プラトンの言ったことのすべてを信じているひとなどはまずいない。プラトン思想の核の部分(だと自分が見なす部分)を取り出して、それ以外の部分を大胆に切り捨てるのは当然のことで、それが真にプラトンを生かす道である(とプラト二ストならだれでも思っているだろう)。したがって、じつに多様なプラト二ストが存在することになる。ブッディストも同じことであり、同じことであるべきなのだ。

三法印・四法印でもってブッディストと言えるか?
 
とてもじゃないが、私には言えない。
 
かつて「一切皆苦」「涅槃寂静」はともかく「諸行無常」「諸法無我」は原理としては正しいのではないかと思っていた。しかし、それに疑念が生じ、これは違うぞと感じ出した時より変化がおこり、それでは何をもって仏教と言うのかの問いを突き付けられて、それは〈私〉の発見ではないかと考えた。永井均の〈私〉とは違うかもしれないが、私の理解した〈私〉論で説明すれば、なぜ悟りの中身を語らなかったのかという問題も、かつ無我=真我という議論にも説明がつくじゃないかということだ。
私はゴータマ・シッタルダもこの〈私〉を発見したのだと感じた一瞬が唯一仏教徒といえる根拠かもしれない。
古代から仏教教団の世界では、悟りの内容を言いふらすことは波羅夷(ハライ)と言って、教団追放になるぐらいの重罪であるが、現代においては積極的にのべて他の人の参考になれば幸いだというぐらいのことだと考えている。〈私〉のなかで起こった現象だけれども、参考になればいいのだと考えるから。
 
 

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