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空海『即身成仏義』にみる〈私〉の存在

空海の即身成仏をフト調べてみようと思って、『即身成仏義』を再読というか、読み返してみた。
昔読んだことがあるが、あの当時はまったく理解の範囲ではなかったような気がする。
はじめて、読んだようなものだ。
なぜ、調べてみようとしたのかというと即身という生身のままで、生きたまま成仏できるということに関心があった。(成仏は死ぬ意味ではなく、覚醒者になるという意味です。)

むかし、安東更生『日本のミイラ』(毎日新聞)という本が、家にあって、本をよく読むような家ではなかったのだが、誰が買ってきたのか、ちいさな本箱に入っていたのだ。すでにボロボロになっているが、東北地方のミイラの写真が表紙を飾っていて、そのインパクトにひかれたようだ。興味津々だったが、中身は取材した記者のもので、なぜミイラになろうと修行したのかについては、理解していなかった。(註:確認してみると安東更生は美術史家で、毎日新聞の記者ではなかった)
しかし、その「即身仏」ということが妙に心に残っていて、「即身成仏」という言葉を聞くとすぐに連想してしまう。
『訳注 即身成仏義』を著した松永有慶もこの本の冒頭で「東北地方のある地域では、断食修行を続けて亡くなったミイラ状の行者の遺体が、即身仏といわれているが、それはもともと仏教でいう即身成仏とは関係はない」と切り捨てている。

閑話休題
なぜ即身なのかというと、〈私〉論においては、死んだ〈私〉ではなく生きていないと〈私〉も「私」も成り立たないからだ。そこに生身の私が成仏しないといけないというのが肝になる。
釈尊が生存中は成仏する、つまり覚醒者になるということを前提にしていた。しかし、釈尊の死後,残された弟子たちは、我々にはとっても無理だということになり、せいぜい阿羅漢までだというように仏が遠くなった。大乗に至っては、仏の前に如来をおき、さらに菩薩をおいて、遠い、遠い存在となってしまった。それでは生前中には悟りに至らないということになってしまう。それを、空海は生身のままで成仏可能だと言ったのだから、釈尊に戻るということになるのではないかと考えたのだ。これが関心の中心で、読んでみたいという課題だった。

読んでいて一番困難と感じるのは、正直なところ、経済的に豊かで、そして暇がたくさんある人でないと、そんな修行は不可能だろうと考えられること。当時なら、知力のある貴族か、出家した僧侶しか不可能だろうと思われること。むつかしいというより煩瑣で、理論体系としては興味深いテキストを提供してくれるけれど、一般人は実践不可能だろうと思われる。

これらの批判はおそらく私だけでなく当時からあったであろうし、そのことが鎌倉仏教の祖師たちが登場してきた理由だとするのは、うなずける話だと感じた。

ところで、この本文というのは、かなり技巧を凝らした構成になっていて、かつコンパクトにまとめた構成になっている。
冒頭には自問自答した書き出しで始まる。
「お尋ねいたします。仏教のさまざまな経典あるいは論疏の中には、人が成仏するには、三劫という極めて永い歳月が必要だと説いております。ところで今あなたは即身成仏、つまりこの身このままで、現世で成仏するという説を立てられますが、それはどのような経典・論疏に典拠がありましょうか。」(松長有慶『訳注 即身成仏義』(春秋社)より、以下同書)
自分で質問して自分で答えるという方法から入っている。

松長は、「非凡な才能に起因するみごとな方法であった」とこの始まりを評価している。
ここに登場するのは、『大日経』『金剛頂経』『菩提心論』など伝統的二経一論八か所の証文と呼ばれる引用文である。それを独自に空海の密教解釈から、読み直したものだ。
これまでの仏教文献に分け入っての証明にあった。

大下大円による『即身成佛観法入門』という本を貸してもらったことがる。
そこには、大下の長年の研究を集約したような本だったけれど、この本を読むまえに、同著者の啓蒙書のような『瞑想力』から読んだので、理解はスムーズだったけれど、おそらく著者による専門家向けを意識した本なのだろう。とくに3章は、仏教の歴史的各派に分け入り仏教学的な位置付けを試みているが、かなりついて行くのが辛い。退屈だ。
著者のもう一つの仕事である、臨床宗教師という救済の部分との繋がりはこれからの課題となる。
臨床宗教師というのは、終末期にある病者に宗教の立場から心理面での寄り添いをおこなう宗教者なのだが、これは明らかに菩薩の利他行だというのだ。

大乗仏教特有のみんなが救われないといけないという根本から発するのだろう。
ボランティアも社会福祉もこの延長線上にある。大下大円の仕事は、真言密教の瑜伽行(瞑想のこと)とこの利他行をつなぐ仕事がライフワークだったようで、その集大成のような本なのだろう。それも仏教学的な論述と瞑想の科学的な知識とを合わせたものになっている。
おそらく、これまでかかわった関係者に配ったのだろう。
それはそれで、いいでしょう。とくに文句をつける気はない。

ただ、先に少し示したように、密教瞑想はそう簡単ではない。どれだけの人ができるかは疑問の残るところだ。かつ、その瞑想実践は、観想(思い描く)という方法で、そこは結構あいまいで新鮮ではない。
それもいいとしても、そもそも本当に瞑想というものが、癒しだったり、脳がよくはたらくようになったり、救いになるのだろうか?

そういう疑問がわたしにはある。

そんな、世俗的な現世利益を求めるものではないと思うのだ。瞑想をしたから、こういういいことがあったというのは副次的な効果であって、それが主目的ではないはずなのだ。少なくとも勝義の世界(聖なる世界)にあっては、そんなことはどうでもいいのではないだろうか? 
なぜ瞑想をするのかというと、「やりたいから」としか言いようがないのではないか。瞑想が決して健康にいいとは言えない。足を組んで長い時間坐ると足は痛いし、ながく背を伸ばしているのも大変だ。腰が引けてもいけない。でも、それを無理からしてでも得たいものがある。それでするのではないだろうか。

その得たいものとは何か?

それは各人によって違うが、私は、〈本来の私〉を見つけることだと主張している。つまり〈私〉の発見だ。これが、ハタとわかればとりあえず開梧は成立だ。
しかし、分かったとて、世俗的にはなんの役にも立たない。
でも私は変わるのだ。

まとめ
真言密教が、むつかしくはないけれど、仏教用語を使った言語の森をつくり煩瑣的だということは間違いがない。まあ、たいししたことないわけだ。そこに実存は入ってこないから。私に宗教師をやれと言われても、とってもじゃないけれどやれない。そんな他者の実存なんかにかかわりたくないからで、責任はとれませんもの。
もうひとつが、密教というものがやはり他の宗教と同じように、「一なるもの」を求める体系だということだ。一なるものを求めないのは、釈迦と龍樹だけだと確信した。
かつて、南直哉がすべての思想・宗教を仏教とそれ以外に分けたが、仏教の中にも「それ以外」の思想が、宗教が入っているということなのだろう。
 
 

註:ここまで書いて、数年前に途中でほぅり出していた。それはなぜか物足りなさを感じていたからで、それがなになのか分からなかったからだ。空海の仏教理論の中身への言及がないというようなものではなく、なにか違うと。
どうも、書きたかったのは、日本のミイラ(即身仏)と即身成仏という、似て非なるものが、なぜ引っかかるのかと言ことだったように思う。そこがよくわからなかったが、この文章の続きを書き始めたので、それはいずれ公表するつもりだ。

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