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霊的開眼とは何か 第9章マイケル・ポランニー『個人的知識』『暗黙知の次元』

〈私〉というのが、知る存在だとすれば、マイケル・ポランニーの暗黙知はまさに霊的開眼の正体ではないかという視点から考察してみる。
必ずしも〈私〉論からだけでなくてもいいのだけれど、文脈上からは、その方がわかりやすいかもしれない。ただし、言及しているのは霊的開眼であったから、霊的開眼にいかにせまれるかという事が主眼であることにはかわりない。霊的開眼の周辺をめぐることで、なんとかそれがなんであるかを探ろうとして、これまで廻ってきたのであるから、今回も暗黙知を題材にしてみたいということだ。

 マイケル・ポランニーは1891年生まれの、ユダヤ系のハンガリー人物理化学者であるが、1949年に社会科学へと転身したとある。社会科学というより哲学なんだろうけれど、いわゆる分析哲学ではなく、新たな認識方法論というか、知るという事についての暗黙知という概念を提出したとされる。新たな概念としてではなく、まさにこの「暗黙知」を知った時には、おどろくというだけではなく、まさにこれだ、と直感したことを覚えている。

仕事で行き詰っていたときに、通俗的で申し訳ないが「身体に訊け」と言われたように、まさに暗黙知が作動しなければなにごともわからないし、かつ暗黙知に従うことが解決と成功への道であることを思い知らされた。それは科学研究でも、人文研究というようなものではなく、営業職というビジネスでの活用だったのだけれど、それが大きく作用したという経験を持っている。

ビジネスでは有名な『マネージメント』のピーター・ドラッガーはポランニー一家と交流のあった人物だった。また1980年代後半から1990年代にかけて盛んに紹介された。

 日本では『暗黙知の次元』(紀伊国屋書店1980)が先に出版されていたが、実は『個人的知識』(ハーベスト社1985)のほうが1962年で先にシカゴで出版されている。その著書の原題は『Personal knowledge』であったから「個人的知識」といよりは「人格知」と訳すべきだと栗本慎一郎は述べていた。この栗本慎一郎の紹介からマイケル・ポランニーを知ったので、私も「人格知」とすべきだと思う。そこには身体がかかわっているのであるから。

この人格知と暗黙知がどう違うのかという事については『暗黙知の次元』の原注で個人的知識のなかで暗黙知の概念を初めて引き出したのであると述べている。だから、個人的知識の中に含まれるが、潜在的な知覚を意味していると思われる。この本の副題に「言語から非言語へ」とあるように、言語思考という意味合いではなく、言語以前の思考という事を意味している。それは言語では語れないものだ。

このように言うと、これまで言及してきた、悟り・解脱という思考ないし知的にして宗教的でもある人間の知覚作用と類似しているのではないかと考えても不思議ではないだろう。

 そこで、まずこの個人的知識と呼ばれるものが、いかに類似しているかについて考えてみよう。

それは、この本の緒言に要約してある文章があるので、そこからはじめてみる。

 

 

私は、①〈知る〉こと(knowing)とは、知られる事物の能動的な括握(comprehension)のことだと看なしているが、②これは技能(スキル)(skill)を要する活動である。③技能(スキル)をもって〈知ること〉と〈為(す)ること(doing)〉は、一組の個別的要因(particulars)を、手掛かり(clue)ないし、道具(tool)として、技術的な達成―それは実際的なものでも理論的なものでもよいーの形成に従属させることなのである。そのときわれわれは、④これらの個別的要因を、こうして達成される内的に調和した実体(entity)についての「焦点的意識(focal awareness)」の内部で、「従属的に意識した(subsidiarily aware)」と言ってよいのだ。⑤手掛かりや道具は、そうしたものとして用いられる事物であり、それ自体が観察されることはない。それらは、⑥われわれの身体の装備の延長物として用いられるのであるが、⑦これによってわれわれ自身が〈在ること(being)〉の様相がある程度変化することになる。⑧括握の行為は、この限りでは非可塑的(irreversible)であり、また非批判的(non-critical)である。われわれは、これまで⑨固定されていた枠組みの再形成をその中で、批判的に検証できるようないかなる固定的枠組みも持つことはできないのだ。これが、いかなるものであれ、⑩理解する行為における〈知る人〉の個人(・・)的(・)参加(・・)(personal participation)である。だが、だからといってわれわれの⑪理解が主観的になるものではない。⑫括握とは恣意的な行為でも受動的な経験でもなく、普遍的な有効性を主張する責任ある行為である。このようにして⑬〈知ること〉は、実際、隠れた実在(reality)との接触を確立するという意味で客観的(・・・)である。⑭この接触とは、まだ知られていない(そして多分まだ考えられない)真の合意の、未確定の広がりの予感のための条件、と定義されるようなものである。この⑮個人的なものと客観的なものとの融合を、「個人的知識」と記述するのは合理的なように思われる。⑯個人的知識は、知的な自己投出(commitment)であり、またそうであるから、内在的に冒険的なものである。⑰誤りでもありうる断定(affirmation)だけが、こうした種類の客観的知識を伝えると言うことができる。⑱本書にも公表される断定は総て私自身の個人的自己投出であって、それらは、それ自身で、このことを主張しており、またそれ以外のことは主張していないのである。」(①から⑱は引用者)『個人的知識』p-ⅰp-ⅱ)

 (・・とあるのは原文では傍点されていた)

 ほぼすべてに太文字にしているようで、煩雑で読みにくいかもしれない。

各文章それぞれに番号をふってみた。

 

①  は瞑想が、何らかの知ることであることは智慧であるから、まさにその通りだし、これが括握(comprehension)だというのだ。括握はつかみ取る、包含する、理解するという意味だから、瞑想時の直観にちかい。

②  はスキルを用いるというのは、坐り方なり呼吸に集中することだろう。また、ほかに印を結んだりするなどの実際的なものだろう。

③  はスキルをもってすることは、坐法であり、doingは実際に坐ることであり、手掛かりとは、各種瞑想におけるスタートとして、こころを落ち着かせること、そしてそれらは個人が行うことで、個人的要因だ。この坐法をもって達成する。つまり従属させるとは、これまでにない知の気づきのことだ。

④  entityは実体と訳されているが、存在者のことだろうから、瞑想者だろう。焦点的意識のなかで従属的に意識した。awareとあるので、やはり気づきなのだ。

⑤  手掛かりや道具は坐蒲であったり、線香や鐘の音であるが、それらが対象になることはないということ。

⑥  それらは、身体の延長物というに過ぎない。

⑦  在ること(being)がそのものが変化するとは線香による清浄な空間であったり、坐りやすく坐骨を立てたりすることによって、背筋が伸びるなどの変化だ。

⑧  irreversibleは不可逆の意味なので、反対には作動しないということ。non-criticalは検討して評価しないという意味だから、ダイレクトに分かるということだ。

⑨  固定したきまったものの意識なり観念を持つことができないということであって、個人的知識はこれだと決まったものがあるわけではないということ。同じく瞑想でも決まったものがあるわけではない。なにが出てくるかわからない。

⑩  個人的参加とは私のことであって、私しか知らないし、私が参加するということ。私が知るのだということ。

⑪  もちろん私だからって主観的なものではない、つまり主観(subject)というものを前に立てるという事ではないのだ。私は〈私〉である。

⑫  Comprehensionは、恣意的なものではなく、受動的なものでもなく、普遍的な正当性の責任ある行為だと言っている。

原文では

「Comprehension is neither an arbitrary act nor a passive experience, but a responsible act claiming universal validity.」

だから、有効的であるかどうかはわからない。

⑬  これはそのまま、知ることはrealityとの接触で、客観的だという。

⑭  この知られることは、まだ考えられないものであり、どのようなものかわからない。すでに知っていることを知るのではないということだ。

⑮  故に「個人的知識」とすることは正しいと。

⑯  個人的知識は自己投出、つまりコミットメントだと。だから個人でなされる。(個人というよりむしろ個体としてなされる)

⑰  Affirmationは肯定する、確認する、断言するの意味だから、「こうだ」と述べて伝えることができるということ。

⑱  この断言は、自己投出であって、私にとっては正しい。しかし、万人にとってはわからないので、「それ以外のことは主張していない」と結んだ。さらに、コミットメントはまだ続くということだ。つまり瞑想も続くということ。

 

 

どうだろうか。

ほぼ一致するのではないだろうか。そうだとすると個人的知識とは霊的開眼のことだったのだろうか?

しかし、個人的知識と謂い、人格知と言っても、そこは言語思考の知識も関与しているし、綯い交ぜになっている感がある。いったい、なにがそうさせるのかというと暗黙知だというのだろう。

そこで、その抽出された暗黙知こそがより的確に霊的開眼をうながす正体だという点について言及してみたい。

『暗黙知の次元』は三回の講義を文字起こししたものであるらしいので、時代背景を無視することはできない。

それは1962年のイエール大学で行われた。まだ1950年代の大問題である、スターリン批判のあった時代であり、ポランニーの著作が、このスターリン批判を乗り越えることに主眼が置かれていることは間違いないだろう。つまりは科学主義を名のるイデオロギーの克服ということだった。例の科学的社会主義という名の政治への克服だった。

逆言うと、そうであるからポランニーは次のヴィジョンを求められていたし、また提出する必要を感じていたことが、この講義からもうかがえる。

そのことは、そのまま暗黙知においてもバイアスとして働いているということでもある。

 

 本書は講義の再録であるから、3部に分かれている。

Ⅰ部 暗黙知 Ⅱ部 創発 Ⅲ部 探求者たちの社会 となっているが、暗黙知の概説から始まって、無生物から生物そして人類に至る階層構造を創発という概念で述べる。そしてそれらを探求を続ける自由な探求者たちの社会を構想している。

 我々にとっては、この言語思考とか思想でなんとかなるというようなことは、もう不可能だという認識に達しているので、人類が言語思考によって何か未来を見つけ出せるかという期待はもうない。せいぜいが、それぞれの政策は四分六で良とするなら、やってみようというぐらいのものでしかないという認識にある。これが実現すれば、すべて解決されるようなものなどどこにもないのだという認識だ。イデオロギーは終焉したし、形而上学も終焉したし、宗教だって終焉したという認識にある。

 そんな中で、残せるのは、やはり暗黙知だと思うので、その全体像を知りたいということだった。この本の中で言及している点で、注目すべきことに議論を移す前に、私がどのように暗黙知を理解しているかということにつて、すこしだけ述べてみたい。

 暗黙知(tacit knowing)は暗黙に知ること、ないし無言の知、言葉に言い表さない知、とかの意味だろう。しかし、~ing形なので、まさに今~しているという表現だろう。するとそれはいつも現在なのであって、かつて~出会ったとか、未来に~であるということではない。常に現在なのだということだ。

先の個人的知識が(Personal Knowledge)だったから名詞なのだ。その正体が暗黙知だった。それは、言語より先に知ってしまうこと、言語化できないが、知っていることなのだ。それよりも、そもそもこの暗黙知が作動しないことには、すべての「分かる」ということは始まらない。言語思考で行き詰ったとき、この暗黙知に従えば抜け出せることがる。

これはなにも言語思考にかかわることだけでなく、よく例に出される自転車に乗ることなり、パソコンを操作するなり、あらゆる道具を使うことなりも同じことだ。

 おそらく、明示知(形式知のことで、文章や図、数式などで説明できる知)と言われるようなものも、この暗黙知の働きなしには成立しないものであろうし、発達史的には、言語以前の感知する、ないし分かるという本質をなしていたものと思われる。

一匹のアメーバが触知して異物と感じて分かるというレベルまで戻ることができるものなんだろう。そうすると免疫における分野と接触するが、そこでタンパクや化学物質による解明が可能かもしれないが、そこで立ち止まらずに、一気に複雑化したヒトのレベルにまで引きあげてみても同じように暗黙知は作用しているようだ。

 それでは、気になったところを中心に議論してみたい。

32ページに次のような記述がある。

 

知的であろうと実践的であろうと、外界についての我々のすべての知識にとって、その究極的な装置は我々の身体である。(『暗黙知の次元』p-32)

 

つまり、言語を使った脳の作用だけではないということだ。また、脳は言語だけではない多くの情報を持っている。だって、脳だって身体なのだから。身体が究極的な装置であることにかわりはない。

 

ヒトのレベルにおける暗黙知は、①機能的側面②現象的側面③意味論側面④存在論的側面に分けて解説している。

①  はある感知から運動を起こすときの(筋肉の個々の様子要素的活動から、それらの諸活動が共通して筋肉の動かし方を感知しているがその活動の目標に向かって焦点を移動するときに作用しているというほどの意味だ。

②  は「我々はあるものから他のものへと注目するさい、前者を後者の姿の中に感知しているのである」とあるので、ここでも近接項から遠隔項への注目の移動であって、~から~へという過程であろうか。近接項は向かう遠隔項の中にすでに感知していると言いたいだろうが、これが現象的側面ということには、いささか違和感が残る。

③  は 「手が道具から受ける感触は、道具があてがわれている物体に道具があたえる作用、というかたちで意味をもち、我々はその意味に注目している」とあるので、この意味的側面は、道具から離れても、瞑想とすれば足を組んだり目をつぶったりする(つぶらない方法もある)が、それにあたえる作用というかたちで意味を持っている。もっともだろうという側面のことだと理解できる。

④  は①②③から導き出す順で、暗黙知が何についての知識であるかを我々に語るのを存在論的側面としている。それは何かというと、包括的な存在を理解することであるとして、包括的存在(comprehensive entity)と呼んでいるのだ。括握するコンプリヘンドは、包括と訳すべきだと注にあるので、なにからなにへコンプリヘンドするのだとわかる。これを行っているのが身体だというのだ。

 

ここが一番重要な点であると思われる。

 

そうだとすると、科学的な知識の問題だけではなく、瞑想において暗黙知は何をコンプリヘンドしようとしているのかということが問題になるだろう。サマタ瞑想における場合で言えば、浮かんでくる観念をスルーして、今、ここに集中するということは観念だから、今この身体(呼吸に集中するのが一般的だが)に向かう、コンプリヘンドだと言える。そこで何を見出したのか? 上位概念に向かうさまざまに湧き出してくる観念をコンプリヘンドして、何を見出したのかということになる。

これはあくまで人格知のことだから、その個人によって異なるのだろうが、その根源に身体があるということによって、ヒトの遺伝子の枠を超えるものではないだろうから、ほぼ同じあたり(偏差値内)に落ちるのだろう。

かつ31ページにどうも投射(自分の思いも含んで感覚を形成していくこと)を含むらしいので、自分の思いも含んで知覚が形成されていくので、瞑想なら、瞑想への既存の観念、思いが影響してくる事はあるだろう。

例えば、瞑想は無念無想になるという観念を事前に知っていたとすると、そうなるのだろうと予想して瞑想に取り組むかもしれない。

しかし別にそんな事はなくて、まず無念無想等はありえないというのが、現在の瞑想の考え方だ。

もう一つ、原注に「その原理とは、我々の身体内部の過程が我々の意識にのぼるときにはいつも、その過程を暗黙知は、我々が注目をよせている経験というかたちでとらえるであろう、と言う原理である」とあるので、全くの荒唐無稽なものとして現れてくる事はありえないということだ。

またもう一つは、方法としてdwell in(潜入する)ということが重要であると思われる。諸細目から包括的全体へと向かう暗黙知は、まず事物にdwell inすることだと理解したい。

つまり固定観念のように瞑想はこうあるべきだ。こうするのだということではなく、まずは自分の身体を使って、いろいろdwell in してみたいということだ。

 注目すべきは36ページに、諸細目に過剰に注目すると、その意味そのものが消えていくという現象があることに注意している。諸細目から包括的全体へということではなく、逆に諸細目のそれぞれに集中する、分析するという意味だ。

例えば単語に注目すると、意味が失われるし、また全体相にもどすと意味がもどってくるという現象がある。例えば日本語なら文字をひたすら見つめていると、だんだんその文字が分解して、その文字の本来持っていた意味がわからなくなるということがある。

ピアニストが指に注目すると音楽は失われ、全体相にもどすと音楽が現れてくるという例をあげている。

 このことは、例えば呼吸に注目すると、変な呼吸になりおかしな動作をおこすが、自然呼吸にもどすとなんなく呼吸ができる。数息観は呼吸の数を数えるのだけれど、それによって全体相に移れるのかというとむつかしいのではないか。

つまりこうだ。

 

諸細目を知ることによって、事物についての真の観念が得られる、と考えることは根本的にあやまった信仰なのである。(『暗黙知の次元』p-37)

 

瞑想するのに、瞑想とは何かを考えていたら、瞑想はできないということだ。

 

この章の後半部分は、科学的な知識であっても、非個人的な基準を求めることは不毛だと語っている。完全に個人のかかわらない知識などというものは無いのだということだ。いわゆる、完全な客観的知識などというのは、不毛だと述べている。

瞑想においては、万人が認めるような明示知になるというものはないから、そこは不毛だということは関与しないかもしれないが、宗教における救済ないし、心の安定、安らぎ、そして健康などと言い出したら、そこにいたりつく結論の「科学において客観性という理想にかかわる安定した理想」なるものを、宗教的に言いかえたもので、不毛に終わるだろう。

 

Ⅱ部の「創発」にはいると、この暗黙知を拡大して、それが上位の概念へと層をなしていることが語られる。下位は物理化学的な無生物の原理から、上位は人間の道徳意識まで層が形成されているのだという。その上位へ向かうのが「創発」だというのだ。無生物から、生物一般へとそして人間へと(ここで人類と言わずに人間であることに注意しよう)貫く概念におどろくのであるが、路傍の石にも暗黙知が働いているのかというとそこまでは言い切っていないようなのであるが、基本「創発を暗黙知と同一視したときに」(p-128)とあるので、路傍の石にもあるのだろう。

 しかし、ここでは暗黙知の根源は身体だというので、身体(生命体)としておこう。

それでも、その生命体は炭化水素、などの原子で構成されているから、その諸細目の原理に依拠するのだから、あながちそう言えなくもない。むしろ、Ⅲ部で「宇宙の活動を喚起するポテンシャル」という概念が出てくるので、暗黙知もそのポテンシャルの延長上にあることは間違いないようだ。

そこまでいってしまうともう手に負えないので、ここでは上位の概念へと至る創発としておこう。

霊的開眼の本質がメタ作用であると先に述べた。それが、暗黙知なのだということを示唆しているといいたいのだ。*

*本原稿を脱稿後、中島秀人『科学者マイケル・ポランニー 暗黙知の次元を超えて』(河出書房新社)2023が出版された。ここでの暗黙知の扱いは、科学的な分野での暗黙知の使用に言及しているわけで、そこから出ないものなのだけれど、けっして科学の研究に特化する必要はないと考える。

 

 

 

未完

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