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特別支援は「特別扱い教育」??

以前も似たようなタイトルで書いた気がしますが、やはり特別支援教育というものは「特別扱い教育」になってしまっている学校が多いように感じます。
ADHDやASD、LDといった発達障害の子、知的に遅れがある子等への理解が広がってきていることは間違いないでしょう。最近では、発達障害をアクセサリー化して「だから俺はしょうがないんだ」といわんばかりの人口も増えているのは、言葉や知識、情報が広く出回ったからなのかもしれません。

だからといって、特別支援教育を学校運営の中心に据えてしまうような経営をしてしまう校長がいますが、もっと視野を広く深くもってほしいと思ってしまいます。
あのね、確かに発達障害や知的に遅れがある子は手がかかるかもしれませんが、特別扱いしてしまってその環境に慣れてしまったら、のちの社会はすべからくつらい社会になってしまうように思うのです。良かれと思っていわゆる「ふつう」の子と分離してしまうこともありますが、どんな根拠をもってそうしているのでしょうか。精神医学はとてもあいまいではっきりしないものだと益田メンタルクリニックの院長が動画で言っていました。実際、診断は括りとしてくだるものの、1000人いれば1000通りの人がいるとも言っていました。
なぜ、それが現場の教員にはわからないのでしょうか。

私は今年度から教員ではなくなりましたが、同期の教員とはいまだに連絡を取り合っています。その一人は、教員同士で結婚をして3人の子どもがいますが、最近離婚したとの報告を受けました。どうやら相手には男の影があるそうです。不倫なのかな?
以前一緒に働いた教頭も、過去に不倫したとか。
教員も不倫するんだね。
っていうか、トイレにカメラを設置して、高学年女子を盗撮していた教員もニュースになってましたね。

定型発達、「ふつう」と言われてきた人たちも、大人になってバカなことをして人さまに迷惑をかけることは普通にあるのです。
「この子は大人になったらバカなことをして捕まる」という未来が、もし見えるのなら、その人を特別支援学級に入れる?精神叩きなおす?

ちょっと良くわからない話になってしまいましたが、言いたいことは、

だから、インクルーシブを本気で進めようよ


ということ。
いろんな人が世の中にはいるんだな。結婚する人もしない人も、子どもできる人もできな人も、集中できる人もできない人も、泣く人も泣かない人も、通常学級(っていう名前もどうかと思いますが)で、ごちゃごちゃやって徐々に理解していくのが大切だと思います。
障害があろうが、かわいがってもらえて「助けて」と言える人は友だちができたり、幸せになれると思います。
優秀でも、意地汚くて、自分のことしか考えてないやつは不幸になると思います。これを何千年も繰り返してきて今があるんでしょ?

人よりちょっと知っているくらいで「特別支援コーディネーター」になれます。もちろん、深く考えてプロとしてやられている人もいます。
でも、私が知っている「特別支援コーディネーター」は、自分が身に付けた知識が愛おしくてたまらなくて、正しいに決まってると思っていて、自信満々に「○○くんは通常学級だとかわいそう」と言いました。自分のために働いていました。

数年前に担任した、難聴でほとんど音が聞こえない子が、先日テレビに出ていました。弁論大会の全国大会!優秀な子たちの中にその子がいました。しかも特別な素晴らしい賞をもらっていました。
その子が5年生の時、その「特別支援コーディネーター」は、母親に、中学校は聾学校に行くことをすすめました。
耳が聞こえないことで友だちとトラブルが増えていましたから、そのような提案があっても普通だとは思いましたが、「かわいそうだから」という理由で分離することを軽々しく提案するその「特別支援コーディネーター」。プロではないな、と思いました。

弁論大会のその子の言葉の中に、力強い言葉の数々…。あの経験、あの感情は、あの5年生の時、担任と母親がその子の障害ではなく、もっと奥の方にある将来をちゃんと見て決断したからこそ得られたと思います。

特別支援は特別扱いじゃない。
かわいそうじゃない。
かわいそうだと思ってしまうお前がよっぽどかわいそうだ。
せいぜい、ウソだらけの校長から「特別扱い」してもらって、勘違いしながらその立場にしがみつくと良い。

取り乱してすみませんでした。

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