東大入学式の祝辞について
河瀨直美さんの祝辞が話題になっている。その全文がこちら。
この中の言葉
これにイラッとする気持ちはわからないでもない。
でも、その続きの文章を読んだのか?
その前にも「これは私の感じ方に過ぎないと思って聞いてください。」と前置きしている。今年1月、五輪誘致に関する発言で「誘致したのは私たち」と表現したことが大炎上した。その失敗から学んだ前置きだと思う。
だから、まずは冷静に相手の話を聞くべきだ。
ニュース配信会社が、一部だけ切り取ってセンセーショナルな記事にしてしまったならば、プロフェッショナルとしてあるべき配慮が欠けている。そして読者も、その記事(もしくはタイトルだけ)に脊髄反射せず、きちんと原文を読んで、扇情報道に乗らないようにしないといけなかった。
河瀨さん、が言いたいことは、これだろう。
双方の正義のぶつかり合いによる争いごと「も」ある
「悪」を存在させることで、安心していないだろうか?
自分たちの国がどこかの国を侵攻する可能性があるということを自覚しておく必要がある
この言葉は戦争を推進したい為政者には不都合だったかもしれない。
この考えには俺も同じだし、みんなと共有したくて俺も藻掻いてる。
でも、河瀨さん、
それを言うタイミングがいまなのか?
それを言う場所がそこだったのか?
敢えて選んだのか?
全体主義に偏りがちな世間に、分かりづらいのは知っているはず。
ましてや侵略戦争の真っ最中、いじめの横で肯定するような言葉。
それは被害者の心身の傷に塩を塗るようなこと。
浸透させるように伝えるならば、間違いなく今じゃない。
どうした?
悪者扱いされてでも、注目させる覚悟だったのか?
だとしたら、やるな、河瀨直美。(同い年とわかって親近感)
そうなんだよ。
自分の頭で考えることが大事なんだよ。
誰かを悪者扱いすることで
自分の気を休める構造。
求められてないのに参戦する。
当事者じゃないのに攻撃する。
呼ばれてないのにジャジャジャジャーン
それは自分が社会構造の一員だと自覚してる証拠
いじめを作る社会構造に安住する。
いじめを作る社会の一員。
自分の行動も社会の一部。
いじめの片棒を担いでいる。
そう思いたくないけど事実だ。
いじめを作らない社会構造なんて知らない人、
DVの無い家庭を知らない人は、
好きで暴力を連鎖してるわけじゃない
被害者だったから本当は辞めたい
でも、どうしたらいいかわからない。
その構造しか知らないだけだ。
触法者の社会復帰
法に裁かれ贖罪に努める
更生保護で社会復帰
身体には罰は、これまでの歴史。物質社会、土の時代
精神には対話、これからの歴史。精神社会、風の時代
一寸の虫にも五分の魂だと?
ふざけるな、虫扱いするな
盗人にも三分の理だと?
まぁそうだな、話を聞けよ。
話を聞いてみると、大概こうだ。
加害者は被害者だった
被害に我慢できない衝動が加害だった
加害者には加害者の正義があった
被害を受けた内なる子供の正義だった
内なる子供の正体は本人にも見えない
大人の自分が自分の本性を正当化する
対話で本性に近づく、苦しみに近づく
苦しい…
苦しませるお前は敵だ、
次はお前だ、ぶっ殺す
いや違う、戦う相手が違う
福祉、医療の力
抗う心に寄り添う力
共感、エンパシー
永遠の味方
やり直しが効く社会、これから
福祉、医療、専門職、一般職
ネットワークは整備中
社会変革が整備する
個人の意識が変革を起こす
自制心
自分の軸
自分を知る
自分を見つめる
他人をとやかく言って気を休めない
今の居場所に胡座をかかない
平和の一歩は自分の行動
戦う相手は自分自身だ
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