Noteの書き方(1)スキを狙わない
先日、Noteにオススメされて読んだNoteがにこんなこと書いてあった。
そして、そのNoteも、引用元のNoteも「そりゃそうだよな」的な感じで、Noteの「スキ」の数がだいぶ重要に思われているようだった。
そんなに大事か?
スキを取りに行くこと
俺はFacebookは、繋がりが柵になって、表現しづらくなって辞めた。友達として繋がっている以上、システムがその人達に俺の投稿を送りつける、そう思うと、その人達を意識せずに書けない。言葉を選ぶ。だから辞めた。
今の時代、わかりやすくて、深い意味が無くて、自分の価値観に共鳴するものが求められている。そういう瞬間的に美味しいと感じるファーストフード的な物、食べ物、テキスト、サービス、娯楽、アパレル、芸能が求められている。みんな考えるの疲れてるし、世間が多様化して間もないから、脳がダイバーシティ慣れしてないと、異質を受け入れられないのだ。
共感を得る、Noteだとスキと取りに行くこと、これは多数派の価値観に合わせた文章を綴ること。それが悪いわけではない。ポピュラー音楽はそういうものだし、大衆芸能はそういうもの。それを生業とするのであれば、それが正しい。商売人としてのライターを究めてほしい。
スキを気にしないこと
俺はNoteでは思いのままに書く。思ったことを思ったままに書き記す。だってノートだもんね。読み手のことを気遣っていたら、自分の発想がぼやけてしまう。その瞬間の閃きを生生しく残す。そのためのNote。そして、その閃きが、後々の考察と新たな閃きに役立つ。創造のために役立つ。
表現とは自分自身の発露だと考えている。自分自身とは、自分が生まれてから今に至るまでに体験したこと、学んだことを統合して培われた、自分の「思想」や「信念」だ。誰一人として同じ系譜で生きていない。自分の認知は過去の喜怒哀楽で形成され、すべての人が異なる認知を持っている。その認知が「自分らしさ」で、それを自分の外に出すのが表現、と思っている。
人は、好印象の経験を再体験することで親しみやすさを感じる。たまたま俺と同じような着眼点で、同じような深みで考察していたならば、俺の記事に親しみを感じるかもしれないが、そんなこと滅多に起きないし、そもそも書いてる俺がスキを欲しがってないから親しみやすさなんてない。
逆に、スキされないくらいが良い、と思ってるくらいだ。含蓄のない浅いコンテンツなら別だが、俺は読み手を無視して、今日の考えを吐き出すようにNoteに叩き込む。そこには時々自分でも感心するするような考察に至ることがある。荒々しいテキストの中に面白い光を放つ言葉が産まれることがある。それが通じにくくても良い。リユースできる素材なら、読みやすく二次加工してお膳に上げればいいし、素材のままでも通じる人には通じる。
他の人のNoteでもそうだ。含蓄のあるNoteには安々とスキなんて出来ない。敬意を持って可能な限り言霊に迫る理解に努めるし、その言霊が自分にとって画期的であればあるほど、自分に組み込むことは簡単ではない。脊髄反射的にスキなんて出来っこない。俺はね。だからスキの数なんて意味ないのだ。
Noteの使い方は人それぞれ
俺は、自分を表現するツールとしてNoteを使っている。もちろん共感してくれる人が居て嫌ではないけど、表現段階ではまだ究めていない考察かもしれない。考えを深める素材を並べる場所であり、その考えが統合して新たな考察を創造する場所であり、あるいみ公開アトリエのようなもの。駄作ばかりかもしれないけど、磨きたくなる原石が見つかるかもしれない。そんな保証もないから押し付けるつもりはない。嫌なら勝手にブロックすれば良い。自分はそういうツールとしてNoteを使っている。
商売人としてのライターか、表現者としてのライターか、それによってNoteの使い方は異なるだろう。俺が表現者として尊敬する人達、忌野清志郎、甲本ヒロト、向井秀徳など、みんな尖ったクリエイティブをしている。椎名林檎も初期はそうだった(向井秀徳の影響かもしれない)。
売る狙いのクリエイティブは娯楽を超えない。生身のクリエイティブは傷を残す。その傷が受けての人生観を変えるかもしれない。それは売れることよりも素晴らしいことだと思うのだ。それが文化、文脈だと思うからね。
とは言え、世間ははやい・やすい・うまいを求めている。それを非難しないけど、乗っからない。ただ、ひっくり返せる隙を見計らっている。
2年前の、このクリエイティブのように。
さ、ひっくり返そう。