
なんで、カンボジアで『アート』なんてやるの??
カンボジアにいると、文化的なものに触れる機会が少ない。
なんとなく、インプット不足になる。
自覚症状がないのだが、日本に帰って美術館に行くと、なんだか潤う。
文化の吸収する感覚。
つまり発展途上国では、『アート』的なものに触れる機会が少ない。それが、カンボジア在住の個人的な弱点だった。

とはいえ、我々ソーシャルコンパスは、アートコンペディション『WhiteCanvas』を運営し始める。
個人的には、すっかり『アート』で文化的な、カンボジアンライフにはなった。
まだまだ、西欧や日本に比べたら、つたないアートかもしれない。文化とはまだ、呼べないかもしれない。
しかし、これはこれで面白い。
いや、逆にもっと可能性が秘めているのかもしれない。
個人的には、映像やインスタレーションなどの現代アートは好きだったが、『WhiteCanvas』はプリミティブ(原始的)な絵画オンリー。
とはいえ、思い出して欲しい。
例えば、現代美術館の常設展の出口が近づく、最後の方の展示。
単なるストライプや、単色一色の抽象的な絵画あるのを思い出さないだろうか?
正直、何が何だかよくわからない、シンプルな『アート』。
ミニマルアートなんて、呼ばれていたりする。

そんな「ミニマリズムアートの先って、なんなんだろう??」と、私はいつも考えてしまう。
映像だろうか??
テクノロジーだろうか?
バイオロジーだろうか?
複雑だったものを極力削った先にあるものは、なんなんだろうか?
そんな近代の芸術は、今後、何を表現して、どう評価されていくのだろうか?
もう、キャンバスの白い布で表現できるものは、現代にはない気がしてならない。表現するものではなくて、表現技法が進化するしかなくなってきている気がする。
『先進国は、ミニマルという名の行き止まりにぶち当たっているのかもしれない。』カンボジアに住んで、私はそんな風に思えてきた。
カンボジアの子どもたちや若者が描くプリミティブな絵画は、もしかしたらその先を指し示している。
緑に、赤い土。
牛の絵を描かせれば、肩の筋肉は盛り上がっている。
キャラクターではない、目の前にいる自然を描くピュアさは、プラスチックに汚染された先進国の子どもには描けない目線だ。

通常、『アート』というのは、文化的、もっというと貴族的な道楽だ。
日本の一般的な人でもあまり馴染みがないかもしれないのに、途上国カンボジアでは『アート』なんて程遠いと思うだろう。
とはいえカンボジアは、チャリティーやボランティアの国だ。
数々のNGOやボランティア団体が、世界中から集まっている。
普通、絵筆なんて持たない人たちが、アートセラピーの名目で、支援の一つとして絵を学んだ人たちが、カンボジアにはいる。
アートの出会い方としては、珍しい国なのではにだろうか?
それがカンボジアだ。

とはいえ、カンボジアも支援対象国としては、脱却しつつある。
いや、脱却すべき国なのだ。
誰か、その支援の先に、持続的に活躍できるアーティストが生まれたら。
そして、カンボジアの若い世代から、憧れられるアーティストが生まれたら。
持続的にアーティストが生まれるサイクルが作れるかもしれない。
カンボジアからチャリティーやボランティアの先に、持続可能なアーティストが生まれることができたら、支援の結果の現れ方の一つなのではないかと思っている。
アフガニスタンや、アフリカの国々のように、今後、チャリティーやボランティアを受けていく国にとっても大きな希望になるのではないだろうか。
その『アート』が、現代アートのように、高値で売買されるのかはわからない。
ただ、カンボジアの『アート』は、現在、世界が目指すSDGsを表現しているように私には感じている。
それが、SDGs×ARTを標榜している『WhiteCanvas』の可能性だ。
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