「今ならなだけ」 前進するずとまよの「眩しいDNAだけ」。
先日から僕がnoteで紹介している「ずっと真夜中でいいのに。」(以下ずとまよ)の新曲がYoutubeにUPされた。
眩しいDNAだけ/ずっと真夜中でいいのに。
ひとまずこれを流し終わってから、本記事を読んでいただけると話が早い。
東名阪ツアーが決まり忙殺されるだろう中、Vocalの「ACAね」さんから先日予告されたツイートはこうだった。
曲名は出ていなかった。
僕がこのツイートを見て最初に思ったのは「変化」だった。
「今ならだけ」という言葉が、今までのずとまよのイメージから一歩進んだように感じたのだ。
例えば
「秒針を噛む」では「このまま奪って隠して忘れたい」「形のない言葉はいらないから」
「脳裏上のクラッカー」では「意味ないこともわかってる」「わかってるから繋ぎ止めてよ」「目に見えるものが全てって思いたいのに」
「ヒューマノイド」では「誰にも当てはまることない基準なんていらないよ」「届かないのならボタン押して消去しよう」
これらの歌詞の端々から感じる諦観、停滞、自己完結の重みと言えば。
真夜中に膝を抱えて天井と自分の間にある虚空を見つめているときのそれをじんわりと心ににじませるものだ。
けれど「本心だけ」「委ねるだけ」「今ならなだけ」「だけ」。
今なら 今だけなのだ。
わざわざ、「だけ」 と強く決意するように念を押してすらいる。
ずとまよの音楽は、「弱虫のための歌」だと思っている。どうにもならない現状や心情を、つぶさに観察し、書き取り、言葉にし、声にし、もう一度心に刻み付けることで共感を呼び起こすような音楽。
少なくとも僕の中ではそうだった。
そしてリリースのツイート。
前進のうた。
そう、これはずとまよが、ひいてはACAねさんが、前に進むためにできた曲なのだ。
今回は四つ打ちの軽快なリズムから始まる。毎度感心するが、ずとまよは毛色が大きく変わる。単調な音とリズムで耳に心地よく、歌詞も気にせず聞くことができるメロディーから始まっている。
けれど、1番のサビの前からぐっと歌詞の世界に引き込まれるのだ。
「今は傷つくことも願ってる 見たことない光を望むなら」
繰り返すけれど 繰り返したいけれど 満たされていたくないだけ
僕はこの部分にすべてこもっているような気がしている。
今回はずとまよの新曲が出た、という記事を書きたかっただけでもあるので、一通り聞いて興味が出たという方はここで引き返してくれればいい。結論はここに書いたとおりだ、あとは完全なる自己満足の解釈を綴っていくつもりだ。
ずとまよの新曲が出るたび、公式から歌詞がYoutubeにUPされている。
そして映像の世界観、曲…それらを一通り見て僕が思ったことを書く。
僕が見た「眩しいDNAだけ」
どんな空でも同じところに佇む少女。
その少女が、換気扇だらけの路地裏に佇んだその瞬間、そこにびっしり並んだ液晶(のようなもの)から凝視される。
だが歌詞はこう歌う。
「知らない所に降りたった途端 ミルクとコンクリートで出来た猫が 私の毒をみて鳴いてくれた」
所謂ルーティーンというものだろうか。そこから抜け出した途端、の世間の目、そして自分の中の「毒」であるものを見て、(ミルクのように優しく、コンクリートのように固い)特別な猫が鳴いてくれるのだ。
猫は自由だし、鳴くは泣く、かもしれない。警鐘、という意味で鳴いているかもしれない。
そして結局、普通と特別(あるいは現在地と目的地)についてぼんやりと考えても、不安で満たされ、お腹は減り、ルーティーンへと還っていくのだ。
実際次の歌詞は「普段通りの段取り 熟して小慣れて 繰り返して演じるほど」と続き、少女はルーティーンである食事を作る。部屋の窓から映る重機もその前に映った床屋のサインポールも寸分の狂いなく動く。
けれど「遠ざかるみたい 茹で上がってない 肌に泡を汚すみたい」なのだ。
なんとなく違和感を感じるのだ。
泡は本来肌を美しくするものだ、それが自らを汚しているように感じ、ルーティーンをルーティーンにしてしまっている自分への、どことない違和感。
顔の塗りつぶされた人々が映り、少し先の場面で少女は鍋の淵へ腰かけゆらゆらとリズムに乗って揺れる。足は鍋に浸かり、彼女は「茹で上がってない」はずだ。
「色が吸えない 味も読めない 孤独が眩しすぎてるほどのDNA 誰も立てないほどの生き映え」
この場面で映る背景は最初、不安で腹の減った少女が引き返した場所だ。
この場所は世間の目から見て異端な場所である、その中に独り、いても違和感のないほど眩しいDNA…存在(あるいは定義)があり、それは誰もが到達できないようなキラキラとした生き生きと映えた存在なのだ。
それを思いながら鍋に足を浸ける少女。
そして顔の塗りつぶされた人達は先ほど少女が切った、曲調が変わるときの野菜の頭へと変化する。それらはきっと、彼女が作っている食事…恐らく鍋に入れるための食材だ。
ここからきっと鍋の中は少女の思うルーティーンの世界、世間一般の目、価値観というある種縛られた、小さな世界のように思える。
「まだ迷ってしまうけど 街灯がない道だけど 届かない呼吸だけ 有り余る」
「とまれみよ」と書いた踏切りに、服のないマネキンと一緒に従い役割を果たすかのように止まる少女。
ルーティーンの象徴である鍋を食しながら歌う少女。
そして大根頭の女子高生たちを真似るように少女は目を野菜で覆い、また踏切りに指示通り立ち止まるのだ。ただしその胸には大きな穴が開いている。
「このまま反射しても」
また、機械的に動く重機が映る。
「何も変わりゃしないことも」
真っ暗な夜、重機が運ぶガラクタの中少女が寂しげにぬいぐるみを抱く。
「過ぎって蔓延るよ」
ルーティーンを繰り返す。
「今は傷つくことも願ってる」
野菜頭に責め立てられるように囲まれ、真ん中にしゃがみこんだ穴の開いた少女。
「見たことない光を望むなら」
そして少女は嫌悪の目を向け、鍋を閉めるのだ。
物語はサビへ向かう
「犠牲にしたって本心だけ 誰もわからず乏しい罠 分類したって自尊心はもう 薄暗い朝に委ねるだけ」
異端の地に立つ鉄塔に花が咲き、それでも鍋を頬張る少女。
野菜頭のくるくる回す縄跳びに合わせ、今までの「ずとまよの曲の主人公」たちが映る。心には穴が開いたまま。
ルーティーンを繰り返し、抜け出したい気持ちを隠し、何度も悩むけれど、真夜中と共に悩みと自分の気持ちを違和感の拭えない朝へと委ね、またルーティーンへ流れるのだ。
「時々たまに従うまま シナリオ通りに暮らしてゆくなら」
また朝が来る、少女は鍋を頬張る。
そして夜には少女は胸の穴を塞げ、倒れている。花の頭の人々に囲まれながら。異端を消した、とでも言わんばかりの傲慢さで。
「悩み方も何も知り得ずに頷くだけ ビリビリに破り始めるだけ 今なら 今ならなだけ」
鍋を頬張る少女は寂しげに外を見た。鍋には野菜の葉が張り付いている。少女が腰かけていたその場所に。
鍋の蓋は開き、「今なら」と歌われると同時、「いただきます」と声がするかのように手が合わせられ、映像はブラックアウトする。
そしてまた床屋のサインポールが映り、鍋のふちが映る。だがそこには何もない。
「今ならなだけ」。
真夜中ぬいぐるみを抱きしめた廃墟で、踊る人間が鴉になる印象的なシーンから、鍋との間を何度か映したのち、鋏に断ち切られるように鴉は廃墟に朽ちる。そして恐らくこの廃墟の背景は少女のいた場所と真反対だ。
そちら側へいけない(もしくは行かない)とぶつ切りにされてしまったあの鴉は、もしかすると「ミルクとコンクリートでできた猫」だったのかも。などと思う。
そしてずとまよのアイコンともいえるハリネズミが登場する。
ハリネズミが二匹並ぶそのシーンで僕は「ハリネズミのジレンマ」を頭に呼び起こした。オスらしきハリネズミが帽子をかぶるが、当然ハリがあるので破れるのだ。だが、何個も何個も横には帽子がある。きっとハリネズミはその帽子をかぶるのだろうし、破くのだろう。それを冷めた目で見つめるメスらしきハリネズミは、自らを理解してマフラーをしているのだ。だが、オスらしきハリネズミにそれを伝えることはない。
「与えられたもの、手に入れたものを」「破る、無駄にする」ことを何度も繰り返すとしても、メスのハリネズミは近づくと互いに傷つくだけと、彼にはきっと伝えることはないのだ。
そうして断ち切られた。それは思考だったのかもしれない。真夜中に考えた精いっぱいの不安が、また朝に持ち越されたように。
曲調が違う
なんか1番と違う。少しリズムに強弱がついてくる。耳は流すことをやめて、言葉を聞き取ろうとする。
「無駄を楽しむ勇気がなくて 物語るために罵るね」
ところ変わって、サインポールが規則正しく回る不思議な場所で、先の鴉のウエイターが少女に料理を振舞う。
だが少女はどこか諦観の気がある表情で、憂いをたたえながら頬張る。
「変なところ 正直だって そっちの方が楽だから」
それもそのはずだ。少女が頬張っているものはどれもレストランで振舞われるようなものではない。
実際、映像で出てくるウエイターの給仕した料理に少女は一口も手を付けていないのである。
自分と断ち切った存在のウエイターの差し出す「なにか」を彼女は受け取ろうとしないのだ。それはきっと歌われた「無駄」であり、彼女は「それを楽しむ勇気がない」。だからせめて「物語るために罵った」のだ。
「鍵閉め忘れたみたいに君失っても もう何も悟れないよ 」
そんなだからこそ諦めてしまったウエイター(恐らく君、であり、猫、である)を失っても悟れない。それはまるで家を出るとき鍵を閉め忘れてしまうくらいよくある、あっさりとしたことで無くしたとしても。彼女はそこに至るまで君を理解する、許容することができなかったのだ。
ふろふき大根のような何かが怯えたハリネズミになっている。このハリネズミはオスである。帽子を何度も無駄にしたあのハリネズミだ。だからこそ少女に与える好意が、行為が「無駄であること」に怯えている。
だが仕方ないのだ。彼女は「無駄を楽しむ勇気がない」。ジャンクフードばかり頬張る彼女も最後はメロンパンを齧りながら諦観も色濃く俯いている。
だから最後に「君」が差し出した花は、黒くどろりとタールのように零れて消えてしまうのだ。
そして失って気づいた少女は嗚咽する。そして君に言えなかったことを今さら叫ぶのだ。
「笑って」
そしてまたサビへと「戻る」
そう「戻る」のだ。歌詞は1番のサビとほぼ変わらないのだ。
だけれど、少女は気づいたのだ。確かに自分がルーティーンの中でそれを断ち切って、失ったことを。
そのまま彼女は一度懐中電灯を握るが、その後布団にもぐり、時計はぐるりと短針が一周する。これは、きっとルーティーンに戻れなかった一周なのではないかと思う。
そして、扉を開ける、懐中電灯を持って。
鴉が遠くへ飛ぶ。
「腹が減った」先へ行く
そして少女は異端の地を歩く。
最初の抑揚のないリズムの中、換気扇の道を奇異の目で進んでたどり着いた「立ち入り禁止」の工場。
先のシーンでは、工場が出た後に彼女は歩いていた。「腹減るよ」と理由をつけて彼女は引き返した。ルーティーンへ戻ったのだ。
けれど今回は違う。彼女は工場の前にいたどり着いた。
だからこそ、この歌詞がここで先とは別の意図で聞こえるのだろう。
「ビリビリに破り始めるだけ 今なら」
全ての思いがここに集約されている
「毎度 決まった縁を なぞってゆくのこわいよ」
「いらっしゃい」と書かれた暗い道を懐中電灯で進む少女。(上に「CA」とあるが「ACAね」さんと何か関係があるのだろうか、とは深読みしすぎかもしれない。)
「繰り返すけれど 繰り返したいけれど」
あたりを見回し、少女が見つけた明かりの先は
びっしりと液晶が並ぶモニタールームのような場所だった。
ずとまよファンの真夜ラーならお気づきかもしれないが、こちらは同ずとまよの前作「ヒューマノイド」で登場するモニタールームとほぼ同じ…もしかすると全く同じなのかもしれない。
(リンク先、ちょうど1分からにかけてのサビ部分が一番わかりやすいだろうか)
因みに「ヒューマノイド」サビ部分で歌われる歌詞を抜粋したものだが
きっと水でさえ この熱でさえ
感じていないのなら 使い切って声に出そう
通えない記憶を全部 冷凍したって形に残るんだ
こんな気持ちだけ 名前があるだけ
手を握るたび プログラムだってこと?
誰にも当てはまることない 基準なんていらないよ
この映像では主人公が「プログラムだってこと?」という部分でモニタールームに主人公をおちょくるような映像が流れ、サビが終わるとともにDELETEボタンで全ての映像を削除し主人公は項垂れる。というものだった。
そして「満たされていたくないだけ」
このモニタールームに流れる映像に、少女は愕然とした顔をするとともに、顔にヒビが入り、また映像にノイズが入る。とても痛々しい。
それでも進むだけ 「眩しいDNAだけ」
「既製にしたって本心だけ 誰もわからず乏しい輪奈 分類したって自尊心はもう 薄暗い朝に委ねるだけ」
だが、少女は懐中電灯を投げつける。
彼女は自分の、あるいは誰かに作られたルーティーンをまざまざとモニタールームで見せつけられるのだ。
悩み続けて変えられなかった自分を、流されて毎日を変えずに生きてきた自分を、ルーティーンと化して時の流れを止めてきた自分を。
そして少女の身体にもバキバキとヒビが入る。当然だ。「彼女はルーティーンを壊した」のだから。
「解き怒気たまに従うまま 無難に無害に暗してゆくなら」
今までの映像がルーティーンのようにまな板にたたきつけられるナイフによって切り替わっていく、が、最後、踏切りの遮断機が壊れたモニタールームへ連れていく。
「笑い方も何も知り得ずに頷くだけ」
そして壊れたモニタールームからは、少女を含め外枠以外のすべてが消え去る。
あのときの「とまれみよ」に従わず、彼女は向こう側へ。ルーティーンを壊しに行ったのだ。
「ビリビリに破り始めるだけ 逸らせない光を選ぶだけ 今なら」
そして、壁にかかった時計たちは動き出す。
(こちらも真夜ラーならおなじみの処女作「秒針を噛む」でかけられている時計だ。0:45くらいが見やすいかと思う。)
だからこそ最後の意味が変わってくる。
「犠牲にしたって本心だけ」
そう最後に歌詞はつぎ足され、ACAねさんの心地よい伸びのいい声が響く。
そう、それに意味はない、「無駄だ」というように。
そしてその少女の姿をとらえた鴉のウエイターが、暗闇から明るい少女の方を見ている。
そして、新たな形の時計が映像に現れ、「音を立てて止まる」のだ。
これが何を意味しているのかはわからないが、また次回作への布石かもしれない。
貴方の日常はルーティーンになっていないか
僕らは毎日をなんとなく生きている、眩しいほうを向けずに生きている。
毎日こう変わろうとか、ああなってみようとか、次はこうしてみようとか。世の中の疲れた顔のサラリーマンが蔓延る電車の中で、そんな前向きな気持ちは見えない。
どうせこうなる、どうせ彼女はああいう、どうせこうなるだろうからこうする。
そうやって誰かから与えられた花を無駄を楽しまず罵っていないだろうか。
誰かから与えられた何かに、僕たちはもっと勇気をもって、心をもって、応えていかなければいけないのではないだろうか。
少しだけ、少しだけでいい。勇気を少しずつためて、今の何も変わらない毎日を、なんとなく生きている毎日を、なんとなくでなくしていくことはできないのだろうか。
そうしなければ、勇気をもって与えてくれた誰かの花を、僕らはきっとどろどろのタールにしてしまう。
痛くても苦しくても、僕らはこの先へ進んでいかなければいけない。
腹が減ったとか理由を付けて引き返してはいけないのだ。
大事なものを失う前に。
この緩やかに平和にこなしていくだけのルーティーンを崩すためにもがくことを、また僕も同じように抗っているということを伝えたく、この記事を世に放つ。ここまでもし読んでくれた方がいるならば、少しでも意見をくださるととてもうれしい。
誰かにみられたくないというのであればメールでだってかまわない。貴方の気持ちを伝えてくれたらと思う。
最後に、こんなに長くなってしまった自己満足の自己解釈を、読んでくれてありがとうございます。
貴方の中でずとまよの前進する一曲が、何かをもたらしてくれることを祈っています。
(2019/02/07 00:51 追記)