待望の長女誕生【前編】
初めて、その姿を目にした時は、感動というよりも、ホッとした感情の方が大きかった。
2003年8月5日 長崎県壱岐公立病院
23時38分 体重3,104gで、元気な産声を上げた待望の娘。
出産予定日の8月5日、朝5時過ぎ。長崎県の壱岐にある嫁の実家で、俺は3回目の朝を迎えようとしていた。隣で寝ていた泰子の異変を感じて、目を覚ました。お腹が張る感じで、少し苦しそうにしていた泰子が『何か出てる・・・。』と、苦しそうに訴えた。慌てて、お尻に手を当てると、パジャマの上からでもわかるぐらいに、羊水が流れ出していた。『破水した・・・?』
昨日の朝に若干の出血、いわゆる『おしるし』が出ていたので、心の準備は出来ていた。しかし、陣痛が来る前に破水をするのは、生まれてくる赤ん坊にとっては危険だという知識はあったので慌てて1階にいた嫁のお母さんに報告した。
お母さんに病院の方へ連絡を取ってもらい、俺も病院へ向かう準備をした。と言っても、嫁が準備していた入院用の大きな手提げ袋を確認し、自分の着替えを簡単に済ませただけである。
破水したせいなのか?軽い陣痛が来ているのか?苦しそうに横になっていた嫁のそばに寄り添い、痛みが弱くなったときを見計らって嫁を車に乗せた。お母さんも一緒に車に乗り込み、病院まで車を走らせた。
車で20分程度の道のり。嫁は少し痛みを感じながらも、落ち着いた状態で病院まで到着した。そのとき、俺はとにかく事故の無いように慎重に運転をしたという記憶はあるが、運転をしたときの心境は全く覚えていない。
とにかく、夢中だったことは間違いない。
5時50分ごろ、病院に到着。嫁はすぐに、分娩室で検査に入った。
廊下でお母さんと2人で待った。このとき、初めて『出産を待つ、父親って、こんな感じなんだぁ』という感覚に襲われた。
それまで、確かに6月25日に嫁が里帰りをしてから、心配だった時もあったが、その頃の心境とは全く違う強い不安が入り混じった心境に襲われた。
6時過ぎ、お母さんと俺は病室に案内された。待つこと15分・・・、嫁が病室に入ってきた。病院に着いて気持ちも落ち着いたのか、表情は明るかった。
『子宮口が少し開いているって。破水しているのは心配ないって、助産婦さんが言ってた・・・。』と、少し怪訝そうに話した嫁。
その後、6時30分に朝食が運ばれてきた。質素な食事だった。
『やっぱり、病院の食事って、こんなものか・・・』と内心思った。
嫁が目の前に戻ってきて、俺もようやく心が落ち着いてきたのを覚えている。朝から、とにかく嫁と赤ん坊の事が心配で落ち着いていられなかった。
嫁が診察している間に出会ったおじさんの話
嫁を待っている間に一度、1階のロビーで缶コーヒーを飲んで気持ちを落ち着かせようとしたときのことは覚えている。松葉杖をついて右足を怪我した50代の元気なオヤジが寄ってきて、何やら話しかけてきた。九州弁で話をしてきたので、詳しい内容までは覚えていないが、要約するとこんな感じだ。『朝だっていうのに、暑いなぁ。3箇所も傷があるから、暑くて汗が染みて、痛むんだよなぁ。包帯が何とかならないなぁ、アンちゃん(お兄ちゃん:つまり俺)。』
『ところで、こんなに朝早くから、病院に来てなんだ?怪我はしてないみたいだけど、内蔵の病気か?診察の順番カードを取りに朝早くからわざわざ来たのか?』と、機関銃のように話し掛けられた。
九州弁が理解できないので聞き取るのに必死で、気が付けばこれだけの会話の中で、俺は相槌を打つか『はぁ~、はい』という返事しかしてなかった。
そして『いやぁ、嫁さんがお産で今朝から陣痛が来たみたいで・・・』と話を持ちかけると、『おぅ、そうか。それはめでたいなぁ。初めての子供か?(『あっ、はい』)。そうか!!どっちか(性別)わかっちょいか?(困って、『いやぁ~』と答えるのを渋っていると…。)そんな生まれてくる赤ん坊の性別なんて、男が心配せんでよか。でも、初めてだったら心配じゃろ?俺も昔は、そうだった。でもなぁ、俺のところは俺が島にいないときに生まれたからな。帰ってきたら、ひょっこり生まれてたんだよ。』な~んて、会話が弾んで(?)いました。
田舎特有と言うか、離島独特の『他人でも、何か話しかけてきてくれるこの雰囲気』に、普段生活している東京だったら「ちょっと煙たいような感じ」を受けるのであろうが、このときばかりはオヤジの九州弁が嬉しく思えた。
しかも、壱岐の人の会話はエンドレス。人が話している途中でも、用事があれば、断りも無く立ち去らなければならない。断ろうとすると、そこからまた話が始まってしまうのである。初めて見ると、不思議な光景である。
話をしている人も、聞く人がいなくなれば、独り言をぶつぶつ言って会話を終える。聞く人がいれば、ずっと会話をしているのである。特に40代から上の人たちはみんなそうである。
嫁が朝食を済ませた後、陣痛の痛みも、気分的なものもあってか和らいだと言うので、お母さんと俺は一旦家に戻ることになった。車をユキ(義弟:とは言っても、俺よりも4つ年上)が使うだろうから、一旦は家に戻り、準備を整えてから病院に戻ることにした。家に帰ると、お母さんがすぐにパンと一杯のアイスコーヒーを作ってくれた。それをすぐに食べ終えると2階に上がり、産まれた後のことを考えて持ってきたデジカメとビデオを準備して、長期戦をにらんだ着替えと歯ブラシを準備して、すぐに1階に下りた。
時間はまだ8時10分。慌てていた気は無かったが、お母さんが『慌てんでもよか。バスはすぐそこから出るけん。8時25分ぐらいまでゆっくりしぃ。バスは8時30分(出発)やけん。』と、笑っていた。
ちょっと恥ずかしかった。
焦る気持ちを抑えるために新聞を読むが全く落ち着かなかった。そして、25分過ぎバス停に向かうために、家を出た。お母さんが、裏まで付いて来てくれて、『あそこにバス停があるけん』と、指差した先に「となりのトトロ」にでてくるような昔の古いバス停が見えた。少しバス停に向かって歩き出し『あっ、お礼を言っていかなきゃ』と思い、振り返ったらすでにお母さんは家の中に戻っていた。これもまた、壱岐特有の光景なのであった。『やっちゃったぁ~』と思いながら、バス停に向かった。
家の目の前の防波堤のそばにあるバス停でバスを待つ。実に、気持ちがいい
普段、あわただしい生活をしているんだなぁ~、とつくづく実感した。ここは、時間がゆっくりと流れている。
それは、壱岐に来た二日目にも感じたことである。俺が『暑いし、暇だから海に行きたい』と嫁に話していたら、嫁がユキに頼んでくれた。ユキは快く砂浜のある海岸まで、車で送ってくれた。
壱岐には、あまり砂浜は存在しない。どちらかと言えば、岩場が多い。家から車で7分ぐらいのところに狭い砂浜がある串山海浜公園というところだ。
もちろん、俺が泳げないことはユキも知っているが『浮き輪はいらんと?』と、冗談を言いながら車を走らせてくれた。そして、俺一人が海パン姿になって海で泳いでいる間、ユキは砂浜にある警備棟兼更衣室の木陰からずっと、俺のことを待っていてくれた。
普通ならば(どっちが普通なのかわからないが・・・)、俺は年下の旦那なんだし、『*時間ぐらい経ったら、向かいに来るからな』といって、家に戻るなり、自分の用事を済ませるのが普通だと思うが、ユキは違った。
タバコを吸いながら、近くにいる人と談笑しつつ、ずっと3時間ばかり付き合ってくれた。途中には『お腹すいたろ?昼飯を持ってくるけん、待っちょき。』と言って、コンビニでサラダ巻を買ってきてくれた。
あぁ~壱岐の人たちって、こういう優しさがあるんだぁぁと実感したのである。時間がゆっくりと流れている。都会に住む人たちが忘れている、ゆっくり、のんびり、自然の流れに逆らわず、生活をするということをこの壱岐で実感したのである。
病院へ向かうバスも風情がある
小型のバスが来てバスに乗車。運転手のおじさんも愛想はいいし、俺以外の人たちは、ほとんど知り合いか??と言うぐらいに会話の弾む車内。とはいっても、乗車していたのは俺を入れて3人ぐらい・・・。田舎独特のバスの風景。しかも、バスはとばすことも無く、逆に後ろに乗用車が3台以上並ぶとどこを走ろうと左に寄せて、乗用車を先に行かせるのんびり運行だった。
しかも、バス停でもないところで、普通に止まる。「何ごと?」と思ったら、乗客のおばさんが畑作業をする畑の前で止まって、おばさんが下りて行った(笑)。普通では考えられないこともありながら、なんてのんびりしたバスなのだ…。って、なんかほっこりした。
そんな島特有の雰囲気を楽しみながら、9時過ぎに病院に到着。自分のお昼ご飯と泰子に頼まれたジュースを購入して、いざ病室へ。【続く】