待望の長女誕生【中編】
前編はこちら
入院してから、分娩室に入るまでが長いこと
病室へ行くと、嫁は、だいぶ落ち着いた様子で4人部屋の病室のベットの上で一人座って待っていた。朝、付けていた赤ん坊の心音を聞く機械は既に取り外されていた。
嫁は『破水は何だか上の方で起こっているだけだから、心配ないって言われた。赤ん坊も元気に動いているから心配ないんだって…。今日中に生まれると思うけど、もし明日になりそうになったら、陣痛促進剤を使って明日中に産ませるらしい。』と、落ち着いた雰囲気で話してくれた。
4つのベットで患者は嫁だけだった。他のベットはまだ空いていた。
他のベットに誰もいないこともあって、2人でこれから訪れる出来事(出産までのこと)について、話をすることが出来た。この時点で、まだ7分から
10分おきぐらいに陣痛が襲ってくるような状況だった。
自分の親にも報告して、嫁の傍で過ごす
合間を見て、俺のお袋に電話を入れた。『あっ、そう。がんばってやぁ。大丈夫や、今日には生まれるやろ?!産まれそうにないとか言っとったけど、ちゃんと予定日に来たやん。』と言われた。
そして、病室に戻ると助産婦さんには『5分おきになったら、連絡してください。』と言われていた。
病室の中で、俺と嫁は、次々と嫁に襲ってくる陣痛に耐える時間が続いた。嫁は陣痛が来ると、息が詰まるように苦しみ、大きく深呼吸を繰り返した。俺は陣痛が来るたびに嫁の背中をさすり、ただただ陣痛の痛みが消えるのを待つことしか出来なかった。自分の無力さを痛感し続けるしかなかった。
そういえば7月に当時勤務していた母校の大学の研究室でサッカー部の監督のY先生から『旦那は、嫁さんの背中を摩ってやることぐらいしか出来へんねん。本当に無力やでぇ~。』と言われたことを思い出した。確かに、痛がる嫁さんを見て『がんばれ!まだ、子宮口は開かないのか?赤ん坊も無事か??』と、心配することしか出来なかった。とにかく、嫁を安静にさせるために、身の回りの世話は出来るだけこなした。ベット周りの整理、食事の後片付けなど、陣痛が来ない間は少しでも嫁が休めるように努めた。
気が付けば、あっという間に13時過ぎ。
助産婦さんが部屋に入ってきた。向かいのベットを準備し始めた。そして、手馴れた手つきでベットの準備を済ますと、『どうですか?(陣痛の)間隔はどれくらいですかね??』と嫁の状況を聞かれた。
この時も、まだ7分ぐらいの間隔でしかなかった。『じゃあ、もう少ししたら、(陣痛の間隔は)5分ぐらいになるね。頑張ってくださいね。』と、言い残し病室を去っていく。実に他人事である。
もちろん、他人事ではあるが、俺にとっては嫁の身体も心配だし、生まれてくる赤ん坊も五体満足でちゃんと産まれてきてくれるか?と心配だった。赤ん坊に関して言えば、それだけではない。ダウン症、三つ口など、出てくるまでわからない障害は山のようにある。それだけに陣痛で苦しむ嫁を見ていると、そんな恐怖感を拭い去ることが出来なかった。
当時放送されていたTVドラマに影響されて…
というのも2003年4月から放送されていたTBSドラマ『ブラックジャックによろしく』という、妻夫木聡が主演していた研修医の見た病院の現状を表現したドラマの中で双子の早産に関する話があった。
生まれてきた体重は、2,100グラム程度の双子が、両親に認知されずに充分な治療を施すことが出来ず、死んでしまうという話だった。
早産で産まれてきたはいいが「ダウン症」を患っており、そのまま治療をしたとしても後遺症は残る。ということだった。それを聞いた父親(吉田栄作)は、治療を中止して殺して欲しいと言い出した。『そんな、未来にいじめられたり、社会の爪弾きにされるような子を育てるのは、親としては納得できない。』と強がっていた。しかし、毎晩、仕事が終わると病院の駐車場に行き、病室を眺めていたシーンは印象に強く残っている。
これから子供が生まれてくる俺にとっては、とても考えさせられるドラマであったことは間違いない。
何万人に一人の確率で産まれるダウン症の子供が、もし自分たちの赤ん坊だったとしたら、ちゃんと愛してあげられるのだろうか…。と、真剣に悩んだ時期もあった。そういう不安と恐怖感の入り混じった心境が去来する中で、嫁の背中を摩り、『こんなに嫁が頑張っているんだ。普通の赤ん坊が産まれるに決まっている。もし、何らかの障害のある赤ん坊が産まれてきたとしても、ちゃんと愛してあげなくてどうするんだ!』と、自分に言い聞かせていたような気がする。
17時過ぎからの時間が長かった…
そうして同じ陣痛の繰り返しを続け、時間はすでに17時半になっていた。
時間の経過とともに、嫁の陣痛の痛みは強くなってきている様子で、陣痛のときに声を上げて痛がるようになってきた。『うぅぅぅ~、いっ痛い。』と、苦痛に苦しむ。声を上げて深呼吸を続ける嫁を見て、背中をただただ摩ってあげることしか出来なかった。『がんばれ!もう少しの我慢だぞ』と心の中で励ましながら、背中を摩ることしか出来なかった。
そして、17時50分ぐらいから5分~4分ぐらいの間隔で3回ほど陣痛が襲ってきた。その時、産婦人科の先生が、ちょうど病室に入ってきた。
『もう、5分間隔ぐらいです。これで3回目なんですが…。』と、俺が慌てて、先生に伝えると『あっ、そうですか。いい感じですね。では、分娩室に入って、検査しますか?』と、冷静に対応された。
そして、18時ちょうどに3回目の長い陣痛が収まった隙を見計らって嫁は分娩室に入った。昼間にも2回ほど分娩室に行ったが、分娩室での検査は20分ほどかかる。俺も、この隙に、嫁のベットで少し休むことにした。
いよいよ産まれます!と言われてから
そして、18時30分「少し遅いなぁ~」と思っていたら、病室の扉が開いた。入ってきたのは産婦人科の先生だった。
『子宮口が半分ぐらい5センチ強。開いてきました。ようやく半分ですが、これから先はこれまでのように時間がかかることはないと思います。奥さんも赤ちゃんも元気なのでこのまま分娩室で、出産に向けて準備します。もし、この先、子宮口の開き具合が悪くて時間がかかるようだったら、一旦また病室に戻ってきますが、順調であればこのまま出産までいきます。』
と言われた。
『えっ。マジで…、もう、嫁のそばにはいれないの???』と思った。
『大丈夫ですよ。旦那さんは不安かもしれませんが、病室でゆっくり待っていてください。』と、俺の心を見透かしたようなことを言われてしまった。そして、産婦人科の先生は病室をあとにした。
俺は、とりあえず嫁の実家のお母さんに電話を掛けた。状況を説明して、また何かあれば連絡すると伝えた。その後、一人病室に取り残された俺は、気を紛らわそうと読書をしていた。
誰かにメールをしようにも、まだちゃんと産まれてくるかどうかもわからないのにメールをしていて、もし何らかの障害のある子供が産まれたらどうしようという不安もあって一人で読書をするしかなかった。
しかし、読んでいる内容は何となく右から左に抜けていくような感じで全く頭に入っていないような気がしていた。しかし、気を紛らわす方法は、それしかなかった。
そして、1時間ほど経った19時30分ごろに病室の扉が開いた。
入ってきたのはお母さんだった。『えっ!どうしたんですか??』と、ベットに横になっていた俺が慌てて起き上がると『心配やったから、来たと。』と笑顔で応えた。『えっ。どうやってきたんですか?ユキは沖(漁)に出てますよね…?』と聞くと、お母さんは『自転車で来たと。競輪選手並みの脚力やけん。』と、軽いジョークをとばしたが、実はタクシーで来たらしい。
お母さんと2人で病室で待つしかなかった。その後も、読書をして何とか気を紛らわそうしていたが、全然落ち着かない。
分娩室の前をウロウロしたり、詰所(いわゆる、ナースステーション)の前をウロウロしたりしていたら、看護婦さんに『赤ちゃんが見たいんですか??』と聞かれ、『いや、お産です。』と応えると、『あっ、お産ね、多分、大丈夫だから、病室でお待ちください。』と、怒られてしまう始末…。『人の気も知らずに…』と思ってしまった。夕食をとるような余裕もなく、食欲もわかない。とにかく、時間が長いと感じたことは間違いない。時計を見ても、なかなか時間が進まない。
そして22時過ぎ。看護婦さんが病室に来て『お母さんも赤ちゃんも頑張っています。早ければ、あと1時間ぐらいで生まれます。長くても、まあ2時間もあれば産まれてくれると思います。今日中には大丈夫ですよ。』と伝えてくれた。
嫁と離れ離れになってから既に4時間が経過。長すぎる。とにかく、落ち着きようがない。あまりに落ち着かないので、嫁さんと仲の良かった前の人材派遣会社のMさんにメールをすることにした。Mさんは、嫁の大親友。もちろん、俺もずいぶん世話になった。Mさん結婚をして北海道に嫁ぐことになり、会社を退社することになったために俺と嫁が付き合うことになったと言っても過言ではないぐらい、嫁とは仲の良かった大友達である。
まぁ、実際のところはどうだかわからないが、Mさんは「自分が、俺と嫁を結婚に導いた愛のキューピットだ」と思っているらしい。Mさんから俺の気持ちを察するような返事がすぐに返ってきて、時間が過ぎるを少しだけ早めてくれた。しかし、残りあと2時間は長かった…。そのMさんとのメールをしながら、読書をしながら、時間が過ぎるのを待つしかなかった。