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あちらのお客様からです

分厚い木のドアを開けると、薄暗い店内に伸びる長いバーカウンターが目に入った。随分繁盛しているようで、既に何十人もの人々が酒を飲んでいる。長く伸びるバーカウンターの右端は、もう遠すぎて見えないほどだった。

とても家に直帰する気分にはなれなかったので、たまたま通り掛かったこのバーに入ってみたのだが、どうやら当たりだったみたいだ。


「いらっしゃいませ」

マスターに案内され、カウンターの一番左端に腰を掛ける。
手に持っていた大荷物は椅子の横に置いた。

「マスターのおすすめを頂戴。思いっきり強いやつがいいわ」

「かしこまりました」

そうとだけ返事をしたマスターが、手早くシェイカーに外国の酒をブレンドし始める。

手際の良さに一瞬見惚れかけたが、ふと足元の荷物が目に入り、また気が滅入ってしまった。自然と目から溢れ出してきた涙をハンカチで拭う。

「お待たせいたしました。こちらコスモポリタンになります」

目の前に差し出されたのは、鮮やかなピンク色のショートカクテルだった。

「ウォッカをベースに、ホワイトキュラソー、ライム、クランベリージュースをシェイクしたものです。どうぞ」

「ありがとう……」
涙声で控えめに礼を言う。


「……失礼ですがお客様、何かございましたか?」

「え?」

「いえ、涙を拭いてらっしゃったので……すみません、出すぎた真似を」

「……いいの。彼に、振られちゃって」

「そうでしたか」

「今日彼の誕生日でね、こーんなに大きなプレゼントまで買って行ったのに。ついつい、彼、私との将来はどう考えてるのかなって考えちゃって……。彼に聞いたら、俺の収入がもうちょっと安定したら、って。いつもと同じ答え。それで私、不安で、だんだん口調も強くなっちゃって、いつの間にか大喧嘩。お前とはもうやってられない!って、言われちゃったの」

「そんなときに……。彼氏さん……あ、元、彼氏さん、お仕事は何をされていたんですか?」

「フリーター。最近割のいい仕事が見つかりそうって、喜んでたんですけどね……」

「そうでしたか……あ、お客様。こちら、あちらのお客様からです」

「え?」

すると目の前に、ロックグラスに入った一杯のウイスキーが差し出された。
向こうを見ると、高級そうなスーツに身を包んだハンサムな男性が、葉巻を指に挟みながらこちらに微笑みかけていた。

「こちら年代物のバーボンでして、通常なら一杯4000円のものです」

ドラマや映画で見るような展開。こんなことが現実に起こるなんて。
いつもなら喜んで受け取っていたところだ。だが……。

「……いえ、結構です。返してきてください」

「ほう」

「今は、他の男のことを考えられる心境じゃないんです。それに私、ウイスキーちょっと苦手な……」


ガコッッッッッッ!!!




突如そんな音が店内に響いた。そして追随して響き渡る、男の絶叫。



ビクッとして音のした方を見ると、先ほどウイスキーをこちらに寄越したはずの男性の姿がどこにも見えなくなっていた。


一体、何が?何が起こった?

そう思いマスターの方を見やる。

「不合格です」

「はい?」

「彼は不合格になりました」

「ちょっと、どういう意味?説明してちょうだいよ!」

「あれ、お店の前の立て看板見てないんですか?てっきりそのつもりかと……」

「ごめんなさい、それは見てなかったわ。フラッと寄っただけのつもりだったから。悪いけど、説明してくれる?」

「かしこまりました。ところでお客様、先ほどのようにバーで『あちらのお客様からです』とカクテルをいただいた経験は過去にございますか?」

「ないわ。さっきのが初めてよ」

「そのような場面を映画やドラマで見たことは?」

「それは、あるわね。あんまり現実で遭遇するとは思ってもみなかったけど……」

「ではお客様、実際にこのようにカクテルを受け取ってみて、いかがでしたか?」

「……正直、嬉しかったわ」

「そう!そうなんです!嬉しいんですよ!ね!まるで自分が物語の主人公になったような!ね!!」

「何よ……急に」

「つまりですね、当店は来店されたお客様に常にそのようなときめきを感じていただけるように、"あちらのお客様"を据え置きすることにしたのです」

「は?す、据え置き?」

「はい。お客様がいついかなる時間に来店されても、営業時間中は常に"あちらのお客様"をご用意しようと」

「……よくわからないけど、それがさっきの男だったってわけ?」

「うーん、惜しい。"あちらのお客様"は、誰でも良いわけじゃないのです。顔やスタイルはもちろん、相手の女性が何を求めているかまでを正確に推し量れる技能がなきゃいけない。だから、彼は失格だったのです。あなた、彼の寄越したウイスキーを受け取らなかったでしょう?」

「わ、私が断ったから落ちて行ったってわけ?!」

「左様でございます。もうお分かりでしょうか。今、このバーカウンターにはあなたを除いて100人の……今はもう99人ですが、男が座っています。本日はこの中からサバイバル形式でどんどん男を落としていき、"最強のあちらのお客様"を決めるオーディションなのです!そして一般から立候補を募集した女性審査員、それが、あなたなのです」

「100人!?」
もうわけがわからない。私はいつの間にか聞いたことないオーディションの審査員になってしまったらしい。いや、そんなことよりも……。

「落ちた彼は、どうなってしまったの?」

「そんなことは気になさらないでください……。ところで」
マスターが何やら樽についた蛇口のようなものを捻ると、グラスにドロドロとした赤黒い液体がグラスに注がれた。

「本日も新鮮な"クランベリージュース"が入荷しましたねぇ」

ゾッと背筋が凍った。目の前に置かれたコスモポリタンが、妖艶にピンク色の光を湛えていた。


「わ、悪いけど私もう、帰らせてもらうわ!」

「おっとお客様、それはいけませんよ」

身動きが、取れなかった。
手元を見ると、気づかないうちに腰が鉄のアームのようなもので椅子に固定されてるではないか!!

「ヤダ!!なにこれ!」

「お客様、もうオーディションは始まってしまったんですよ?責任とって最後までやってくれないと」

「……」
なぜだろう、心は思いの外、平穏だった。
きっと彼に振られた傷が癒えないままにこんなことに巻き込まれて、半分投げやりな気持ちになっていたのだろう。


「……いいわよ、やってやるわ」
不安はいつの間にか好戦的な炎へと変わり、自然とそんなセリフが口から溢れていた。

「そうおっしゃっていただけると、思ってました」
マスターが口角をニヤリと上げながら、そう答える。


「では、改めて"ルール"を軽くご説明しましょう。今からこの99人の男たちが、私を介してあなたに酒をご馳走します。タイミングや何を奢るかは彼ら次第です。あなたは、男の見た目や酒の種類などを総合的に評価し、それを受け取るか決めてください。受け取りを拒否された男は奈落へと落ち、最後まで残った男が、当店据え置きの"最強のあちらのお客様"ということで、正式に雇用させていただきます。お客様は、あくまで己の心の赴くままに判断してくださいね」

「狂ってるわね……いいわ。ただし、私は今男に振られたばかりなの。ちょっとやちょっとのカクテルじゃ見向きもしないわよ」

「思ったより早く終わりそうですね。ところで、さっきの男性は何が不満でしたか?」

「さっきも言ったと思うけど、私ウイスキーは苦手なの。それに彼、タバコ吸ってたでしょう?私、タバコ吸う男も無理なの」

「左様ですか……それでは」

ガコッガコッガコッッッッッ!!!


「何!?何!?!?」

「10番と21番と23番と39番と……28人はタバコを吸ってましたので、この時点で失格としました」

「そんなペースで落ちてくのこれ?!私まだ受け取り拒否してないんですけど?!」

「時間の無駄ですから。どうせタバコを片手に持った男にカクテルを渡されても、あなた受け取らないでしょう?」

「そんなの分かんないじゃない……」

「ふふふ……おっとお客様、あちらのお客様からです」

すると、目の前に白いショートカクテルが差し出された。
向こうを見ると、恐らく年下の、かわいい系というか、いわゆる小動物系と呼ばれるような男性が萌え袖でこちらに手を振っていた。

「ホワイトレディ。可憐なお客様にぴったりなカクテルかと」

ふーん。悪くはないが。

「いらないわ。私、甘えられるより甘えたいタイp…」

ガコガコガコガコッッッッッッッ!!


「早い!早い!!なんで急にそんなに落ちたのよ?!?!」

「お客様は甘えたいタイプとのことですので、お客様より年下の56名はここで脱落です」

「私甘えたいしか言ってなくない?!年下でも引っ張ってくれる人なら別にいいんですけど!?それに、私、年齢言いましたっけ?」

「34歳、こちらでそう判断いたしました」

「私まだ28になったばっかりですけど!?!?絶対年上も何人か落ちてるでしょ」

「失礼いたしました。最低でも30はいってるやろと、そう思ってしまいました。しかしまあ、落ちてしまったものはもう手遅れですので」

「もうお前が落ちてくれ」

「と、言いますと?」

「お前みたいな失礼なやつが落ちろって言ってんの!!」

「左様ですか。では」

ガコッガコッ!!


「何よ今度は!!」

「一次面接で失礼な態度を取っていた4名をここで脱落させました。彼らはタメ口を使ったり、店内で唾を吐いたり、常識が欠如していたんでさっさと落としたかったんですよ」

「なら面接で落せよ!肝心のお前が落ちてねえし」

「100人どうしても揃えたかったもので……」

「知らないけどそれは……」

「そうこう言ってるうちにお客様、あちらのお客様たちからです」

「あちらのお客様、たち??」

「ええ、10名の男たちから連名で。一人一万円ずつ出したようで。一杯10万もするお酒をご馳走してくれるそうですよ」

「ふーん、いいじゃない」

「こちら一杯10万円の、超プレミアつき国産ウイスキーでございます!」

「だから!!私ウイスキーは苦手なの!!」

ガコガコガコガコガコガコッッッッッ!!


「ねぇー!!最初私がウイスキー断ったの見てなかった?!?!ねぇーーー!!!!」

「遠かったですので……」

「かわいそうよあまりに」

「そんなことよりお客様!!これで99人が落ちたので、ついに"最強のあちらのお客様"が決まりましたよ!」

「想定の20倍くらいのスピードで終わったわ。というか『最強の』って、彼は何もご馳走してくれてないわよ。ただ座ってただけじゃない」

「でも最後まで残りましたので」

「ルールの穴よ。次やるときは改善しなさい」


マスターの指差す方を見ると、私からおよそ40席ほど離れたところに一人の男性が座っていた。

「ん?」

遠くて薄暗くて顔はよく見えないけど、このフォルム、雰囲気……

「マサキ?」

男がハッとこちらを振り向いた。やはり、彼だ。ここに来る前に私を振った、マサキだった。


「マサキ!どういうこと?!なぜあなたがここに?!」

心底驚き、狼狽した様子で彼が答える。

「アケミ……ごめん!俺、自分に自信がなくて……。真面目に働いてもいないし、君を幸せにする覚悟が持てなかったんだ。でも!今俺はこの店の"最強のあちらのお客様"に選ばれたんだ!これで収入も安定する。アケミ!!今更だって思うかもしれないけど、どうか、受け取ってくれないだろうか!」

そうして彼がマスターに何かを手渡す。かしこまりました、と答えたマスターがそれを持って私のもとに近づいてくる。


「あちらのお客様からです」

それはケースに入った、銀色の指輪だった。
手に取った瞬間、思わず涙が溢れてきた。

「はい……受け取ります……」
涙声でそれを受け取る。薬指にはめてみると、それは少し緩かった。でもそんなところも彼っぽいなと、微笑ましかった。

「マサキぃ!!私たち、また一緒になれるのね!!ずっとずっと一緒なのね!!」

「あぁ!!アケミ!!結婚しよう!!」

「マサキ……!!うぅ……」

そうだ、と思い立ち、足元に置いてあったプレゼントをマスターに手渡す。

「マスター、これを彼へ」

「かしこまりました」

今日渡す予定だった誕生日プレゼント。社会人として立派に働けるよう願いを込めて、彼だけのために仕立てたオーダースーツ。これを着てこのカウンターに座る彼の姿が鮮明に浮かんだ。


マスターがプレゼントを差し出しながら彼に言う。

「あちらのお客様からです」


……遠くてよく見えないが、彼の口角が一瞬、歪に上がった気がした。


「いえ、結構です」





え?





ガコッッッ!!!!






そんな轟音が足元から聞こえたと思った瞬間、フッと重力が消えた。
目の前が真っ暗になった。










「良かったのですか?」

「えぇ。あいつ、浮気相手だったんですよ。今度本命と結婚するんでここ来る前に振ってきたんすけど……まじビビりましたw フィアンセにあげる予定だった指輪失ったのは痛いけど、まぁここ、羽振りいいっすからね。また同じの買いますわw」




カウンターには主人を失ったコスモポリタンが、いつまでもその表面に小さな波を立たせていた。







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