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僕の蕎麦屋が出来るまで①

目指せスーパースター。蕎麦宗です。

蕎麦打ちを始めてからまもなく20年となる、と先日書いた。お客さんからどうして蕎麦屋になったのかと聞かれることはよくあるものの、蕎麦好きが講じてとか職人に憧れてとか、そういったカッコいい理由は一つもなく、自分が店を出すにあたって

「蕎麦屋ならなんとかなるかなぁ」

と言う程度の軽い気持ちでしかない。それが随分と甘い考えだった事は始めてすぐに気付くことになるけれど、今もこうして店をやれているのは来てくれるお客さん達のおかげ。それは有難いとしか言いようがない。でも、鳴かず飛ばずの売れない時代が長かったので、いや今でもそうかもなので、正確に言えば『続いた』と言うよりも、『続けた』だ。

当時、アルバイト店長を任されていた総菜屋がオープンからわずか半年足らずで閉店が決まりクビになった。来店してくれるお客さんの評判は良かったが、当時の三島の住人には早過ぎたスタイルだったし、経営者は兎に角せっかちだったと思う。その店にも思い出深いエピソードもあって【デリカテッセンと拒食症】にて紹介した。そのあと庭師のアルバイトを妻の友人伝いに3ヶ月ほどやらせて貰っていたのは幸運で、*ランドスケープに興味があって入った東静造園の矢ノ下さん達も後々力となってくれるが、その時はまだ知らない。

そんな凹んだモラトリアムの32歳の僕と妻と、韮高サッカー部時代からの友人・辰野の3人で僕の手料理を肴に家飲みをしていた時のこと。ふと呟いた彼の言葉

「宗ちゃんもそろそろ自分で店やれば」

の言葉が妙に響いて膝をポンと叩いて動き出したのがキッカケである。

板前としての自信なんてカケラもなく、漠然としてしまった将来をウダウダと朧げに描きながら、それでもなんとか暮らせて行けたのは、《ひむ香》というリフレクソロジーを中心にした自然療法の店を僕より5年先に営んでいた妻のおかげ。そうして資金的にも腕前的にも蕎麦屋ならばなんとかなるかな、というイメージを膨らませることが出来たのは、僕の料理の師匠である、今は無き沼津の名店『懐石八千代』の店主、故・菅沼一郎氏に感謝せねばならない。

そんなこんな、蕎麦宗ができるまでのあれこれを書くことにしたのがこのシリーズ記事。時々書きます。まずは親方と蕎麦打ちの話が次回。つづく

*ランドスケープアーキテクト…造園建築。1990年代半ばに脚光を浴び始めた建築用語で、建物のみでなく庭園や風景も含めたデザインが求められた。

#手打ち蕎麦屋  #モラトリアム #転職を繰り返す #将来の不安  #あの選択をしたから






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