悲観は気分、楽観は意思
これは最近知ったフランスの哲学者アランの言葉だ。
すごく深い言葉。人によって解釈が異なりそうな、挑戦的な言葉。
この言葉をネガティブに捉えるかポジティブに捉えるか。
あなたはどう解釈しますか?
さて、僕が思っていたよりもかなり早く新型コロナウイルスの恐怖が落ち着いてきている。
大阪ですら緊急事態宣言の段階的な解除が始まった。
本格的なwithコロナの時代が幕を開けたわけだ。
ワクチンが出来ていない中で外出許可が出るわけだから相当数の感染者・死亡者は増えるだろう。
より一層気が引き締まる思いだ。
でも周りを見渡すと「コロナは収束に向かっている」という空気が出始めている。
勤務先のクリニックの患者数も日に日に増えている。
これは非常に危険だと感じた。
この現象が不思議でしょうがない。
なぜこんなにも一気に危機感が薄れていくのか。
昨日のWEEKLY OCHIAIでこういう話があった。
そこで話されていた中で出た発言。
「現状、人の行動を変えるほど死者数が出ていない」
この言葉が一番腑に落ちた。
僕は今回のコロナショックで世界がリセットされ何もかも変わると思っていた。
出遅れてはならんと準備を進めてきた。
でも実際はそこまでの行動変容は起きていない。
この程度じゃ時代は変わらない。
なんとも痛烈な現実。
まだ油断できる状況では全く無いが、今の時点でこの緩みが出ている感じが僕に取っては衝撃的だった。
コロナショックが起き始めた頃、明らかに世間は不安に包まれた。
みんな悲観的になった。
身内や近しい人で感染者が出ていない人(大多数)はメディアの影響で悲観的になった。
そして緊急事態宣言が全国で解除されつつある今、世間は
コロナに対して楽観的になってきている?
いやいや、僕の見解では1人2人と外に出始めると「じゃ、自分も」となっているだけで自分の意思決定では無い。
僕が今回のコロナショックで学んだことは、
「現状を楽しもう」だとか「未来を作ろう」という
自らの意思で楽観的になる人は、ほぼいない。ということだ。
コロナにかかることでの風評被害。
マスクをしないことでの他人の視線。
多くの人がそこだけを気にしている自粛生活。
気を遣うという大事な心持ちではあるが、それは思考停止になっている気がする。
むしろ「健康」という考え方すら見直す必要があるかもしれない。
長生きすることが良い。風邪を引かない方が良い。
これらは家族や会社のため(他者のため)。だったのではないか?
たとえ短命であっても持病があっても障がいがあっても自分自身が満足できる人生を送ることができればそれで良いのではないか?
今後コロナウイルスの影響で様々な社会問題が起きると予想される。
僕は29歳でこのショックのど真ん中を経験している。
僕には考える力も行動する体力もある。
せめて周りにいる人たちが楽観的に未来に期待して生きられるような環境を作っていきたいと強く思っている。