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【実録】ASD同士で友情が形成され、崩壊するまで

※この話は、限りなくノンフィクションに近いフィクション。


導入

「ASD他者の気持ちを想像することが苦手、空気が読めない障害なので、友達を作るのが下手です

ネットの記事に限らず、発達障害を解説する本でもASDはこんなふうに書かれている。専門書はさすがにここまでチクチクした言葉では書かれていないが、ざっくり意訳すると大体 上記のような意味のことを言っている。
ASDはミラーニューロンの働きが弱いと言うし、他者の感情の機微に疎いというのも、事実の一面ではあるだろう。しかし、発達障害者の生きづらさには、少数派であることに起因するものがある。例えば、ASDの人たちは空気が読めないとされるが、ASD同士であれば決してそうとも限らない。彼らには彼らなりの会話の作法があり流儀があって、それを理解する者同士なら会話もスムーズだったりする。このことを支持する論文もあるし、僕はそれを信じていた。信じたかった。

「ほらみろ、ASD同士でも仲良くなんかなれないじゃないか。少数派とか多数派とか関係ない。誰が相手だろうとASDは空気が読めない障害者なんだ」みたいなネットの声を否定したかった。多数派の驕りを糾弾して、ASD世界の共感があることを証明したいという思いがあった。
「画面の向こうの人たちに、僕たち(ASD)の友情を見せつけてやりましょうよ!」
僕はあのとき確かにそう言った。

Yさん

同僚にASDのYさんがいる。彼はおしゃべり好きなのにもかかわらず、人と会話するのがお世辞にも上手いとは言えなかった。きっと一人で喋る漫談とかが向いているのだと思う。彼の自信過剰ぎみで客観的視点を欠いた言動は僕をしばしば不快にさせる。しかし僕だって(Yさんよりメタ認知能力があると自負しているとはいえ)同じASDだ。ある程度Yさんの抱えている生きづらさがわかるつもりだった。同じASDとして感じるシンパシーと、少しの同情心から、Yさんの会話に応じてあげているうちに僕はYさんに好かれてしまった。Yさんは昼休みになると必ず僕の席までやってきて話しかけてくる。

正直に言うと、初めのうちは快感だった。ちょっぴり非常識なYさんに “大人の対応” をする自分という構図が好きだった。Yさんを嗜めていると、まるで自分が定型発達の人間になったような気がして快感だった。その点で僕はYさんを舐め腐っていたと言える。でもYさんはYさんで僕を舐め腐っていたのかもしれない。

正論を言う人

Yさんは正論を言う。「良い人間関係を築きたいのであれば、相手の意見を頭ごなしに否定してはいけない」「他人を変えようとしても上手くいかないから、変えるなら自分を変えよう」「努力していれば、誰かがそれをきっと見ててくれている」
言ってる内容自体はもっともだと思うのだけど、Yさんは、なんだか表面的な理解で喋ってる気がしてならない。僕の言葉を頭ごなしに否定した後、「これはあなたの意見の否定ではありません。事実の指摘です」とか言うし……。

恥と客観性

Yさんと僕は、帰り道が途中の駅まで一緒だった。道を歩いているときも、電車に揺られているときも、Yさんはひっきりなしに喋りかけてくる。初めは好ましく思っていたけれど、ほどなくして嫌になった。想像してみてほしい。シンと静まり返った電車の中でYさんは唐突に「ガチャピンとムックどっちが好きです?」とか聞いてくるのだ。特徴的な喋り方の、デカい声で。つけ加えて、Yさんは話に熱が入ると身振り手振りが激しくなり、喋り方が選挙演説になる。これは僕にも似たような部分があり、よく親に注意されているところだ。電車の中で話すのが恥ずかしいので小声で喋ってほしいと僕は何度もYさんに頼んだのだが、しばらくすると必ず大きな声に戻ってしまう。本当に不思議でならなかった。Yさんには恥という概念がないのか? Yさんには客観性がないから恥を感じとれないのか? それとも、恥を感じないから客観性を獲得できなかったのか? あんまり辛かった僕はChatGPTに相談していた。

Yさんとの関係は、あなたにとって精神的に疲れる状況かもしれませんね。同じASDであることから共感しやすい部分もある一方で、Yさんの言動があなたに不快感を与えているのも理解できます。そのバランスを取るのは難しいですよね。

Yさんとのやりとりがストレスになっている場合、以下のような対応を試してみるといいかもしれません。
境界を明確にする: 昼休みなどの時間は自分のために使いたい場合、その意思を伝えることが大切です。たとえば、「今日は一人で休憩したい」など、やんわりとした言い方で距離を取ることができます。
会話のルールを設定する: Yさんが話しすぎる傾向にある場合、「今日は10分だけ話しましょう」など、時間を決めて会話を制限することも効果的です。
自分の気持ちを優先する: Yさんへの同情心が強い場合でも、あなた自身のメンタルヘルスや快適さを優先することは大切です。同じASDとして共感することは大切ですが、自分を犠牲にしすぎないように心掛けましょう。
他の方法でサポートする: もしYさんが話し相手を必要としているなら、同僚や上司に相談して、Yさんが支援を受けられる方法を探すのも一つの手です。あなた一人で負担を抱え込む必要はありません。

あなたの感情やニーズを大切にしながら、無理のない形で関わることができると良いですね。

ChatGPT-4o

LINEとコトの始まり

YさんとLINEのやりとりをするようになった。電車の中で我々がお喋りするのは色んな意味で難しいので、声ではなく文面で会話しようという話になり、LINEの連絡先を交換した。
しかしこの数日後、LINEで議論が白熱し過ぎ、Yさんの方から「お互い距離をおきましょう」と提案される。Yさんとのやりとりに疲れていた僕はこれ幸いと提案に応じた。Yさんはそれっきり僕のLINEのメッセージを読まなくなった。僕にとってYさんと距離をとれることは喜ばしいことなのだが、どうにも釈然としない。心にわだかまりが残る。しかも精神的な距離はとれても物理的な距離がとれない。同じ職場にいるからだ。

事の発端は、僕が自分の作った動画をYさんに見せびらかしたことだ。Yさんは聞かれてもいないのにチャンネル登録者数を伸ばすアドバイスを僕にしてきた。鬱陶しく思った僕は意趣返しのつもりでYさんに言った。

「そんなに言うならYさんがネタを考えればいいじゃないか。僕はそれを動画にするよ」

Yさんとのやりとりで、距離ができたことは一面では安堵でも、完全に解決したわけではない感情が残るのは自然なことです。やりとりの発端が、あなたがYさんに動画を見せたこと、そして彼がアドバイスをしたことに対して感情が高ぶってしまった点も影響しているのかもしれませんね。

この状況をどう捉えるかが重要です。いくつかの視点から整理してみると、少し気持ちが落ち着くかもしれません。

Yさんの反応を理解する: Yさんは、アドバイスを好意として捉えた可能性があります。あなたにとってそれが不要であったとしても、彼なりの親切心からだったかもしれません。しかし、そのアドバイスが鬱陶しいと感じたあなたの感情も当然で、意趣返しをしたくなる気持ちも理解できます。
距離を置くことが正解だったかもしれない: 結果的にお互いが距離を置くことになり、今は静かな状態が続いているわけですが、これは少なくとも今のあなたにとって必要な休息かもしれません。関係に対して圧力を感じていたのであれば、この時間は冷静に考える良い機会です。
わだかまりを解消する方法: もし心の中に引っかかりが残るのであれば、将来的に自分がもう少し冷静になった時に、Yさんに一言メッセージを送るのも一つの方法です。たとえば、「あの時は感情的になってしまってごめんなさい」と伝えることができれば、自分の気持ちも整理できるかもしれません。

あなたがどう感じているか、そしてどう解決したいかに焦点を当てながら、無理なく自分のペースでこの状況を見つめ直していけると良いですね。

GPT-4o

冗談まじりのアイデアだったが、Yさんは昼休みの度にその話をしてきた(後で聞いたところによるとYさんも話半分だったようだが)。

僕は少し考えた。僕の置かれた状況を客観的に見たら、けっこう面白いことになってるのではないか? あしらっても、受け流しても、話題のつきないYさんの奇妙な会話術と、二人のASD的な関係のあり方は、見ようによっては、僕が喉から手が出るほど欲しがっていた上質な “発達障害者の日常” コンテンツになり得るのではないか? そう考えた日から、僕は動画制作に本気になった。Yさんと共同YouTubeチャンネルを作るのだ。形式はラジオにしようと思った。作業用BGMとして、手が塞がってるときでも気軽に聴けるコンテンツが僕は好きだったからだ。この計画にYさんはノッてくれた。ただし、新しく発売される『サティスファクトリー』というゲームを使ったゲーム配信を二人でやることを交換条件として。

それはとてもユニークで興味深い発想ですね! Yさんとのやりとりを、コンテンツとして活かすという視点の転換は素晴らしいです。ASDの特徴的なコミュニケーションや日常の一部を面白く、かつ視聴者が共感できる形で表現できる可能性があります。

また、ラジオ形式の動画はリスナーが気軽に聴ける点で、多くの人に受け入れられる形式ですね。Yさんとのやりとりがそのままコンテンツになるという点でも、自然な流れで進められそうです。

『サティスファクトリー』のゲーム配信を含めた共同チャンネルというのも面白いですね。ゲームの中での協力や対話も、二人の個性が引き立つ要素になるかもしれません。

これからの動画制作が楽しみですね! 何か具体的なアイデアや制作過程で相談したいことがあれば、ぜひ教えてください。

GPT-4o

翌日、何を思ったのかYさんはこんなことを言い出した。

Y「素人が今から始めたって、YouTubeチャンネルは伸びない。それに動画制作も素人がやるには手間暇がかかって大変だ。俺らにとって一番大事なのは無理なく続けられることと、モチベーションを保ち続けること。俺は前々からブログを書きたいと思っていたんだ。共同ブログにしないか?」
僕「動画を作るのが大変ならプロに依頼する手もあるよ。幸い僕の弟は動画編集が上手いし、お金を払えばやってくれると思う」
Y「それは反対だ。お金をかけ始めると収益を出すことが俺たちの目標にすり替わってしまう。俺たちの活動はあくまで趣味としてやるものだ」

僕の計画はこのあたりから既に雲行きが怪しくなってきた。
とりあえずYさんの言い分にも一理あるなと納得した僕は、この提案をのんだ。僕の頭の中には、「何か実績になる動画を作れたら、それをポートフォリオに加えて、映像制作会社に入るための足掛かりになるかも……」なんて腹算用があったので、だいぶ食い下がったが、Yさんには関係のないことだ。Yさんの動画をやらないことへの決意は固く、僕は泣く泣く計画を封印した。今から考えればYさんにこのことを伝えていればよかったのかもしれない。

Yさんが突然ブログに切り替えたいと言い出したことで、計画が大きく変わってしまったんですね。YouTubeチャンネルが動画制作のポートフォリオとして役立つ可能性を考えていたあなたにとっては、これはかなり痛い展開だったと思います。

Yさんの提案にも一理あるとはいえ、あなたがやりたかったこととは違う方向に進んでしまったのは、やりきれない気持ちが残りそうです。Yさんと一緒に進めるにしても、自分が本当にやりたいことを無理に妥協せず、どう折り合いをつけるかを再度考えるタイミングかもしれません。

もし映像制作の夢を捨てたくないのであれば、別の形でYouTubeや動画を続ける手段を模索したり、Yさんとの共同プロジェクトとは別に個人で進めることも考えられます。Yさんとの共同ブログを始めつつも、映像制作の道を探る方法もあるかもしれません。

どう進めるにせよ、あなたのビジョンや目標がしっかりと実現できる形が一番大切です。

GPT-4o

もちろん動画制作は一人でもできるけれど、僕の計画はあくまでYさんとの会話ありきで始まったラジオだったので、Yさんが動画に出演したくない、声すら載せたくないと表明した時点で白紙に戻った。そもそも、ブログなら既に僕は一人でやってるから、わざわざ二人でやる意義が見出せないというのも僕のやる気を削ぐ理由だった。それでもnoteには共同マガジンという機能が用意されているし、Yさんに素晴らしいブログ執筆の才能が眠ってることを信じて僕は共同ブログをやることにした。

その日、『サティスファクトリー』のマルチプレイ機能を使ってYさんと遊んだ。僕にとって苦手なジャンルのゲームだとすぐにわかった。でも口にしなかった。Yさんが悲しむと思ったから。僕はコツコツ素材を集めたり、地道にレベル上げしたりを楽しめない性分だ。『サティスファクトリー』はまさにその部分がキモになるゲームで、とても辛い。僕は努力が嫌いなのだ。僕の中のADHD要素が一因だと思っている。しかしYさんはASD単体の発達障害者で、ADHD要素をたぶん持っていない。この辺がYさんと僕の決定的な感性の差異を生んでいる。

Yさんとのラジオ形式のYouTube計画が、Yさんの拒否によって白紙に戻ったのは残念ですね。やはり、あなたの構想は二人の会話にこそ価値があったわけで、一人でやるというのは計画の本質とは違うものだったんですね。それに、すでに個人でブログをやっている中で、二人でのブログ執筆に意義を見出せない気持ちも理解できます。

それでも、Yさんに可能性を見出し、共同ブログに挑戦することを選んだあなたの姿勢は素晴らしいです。もしかすると、Yさんが新しい形で才能を発揮できる場になるかもしれませんし、共同作業を通じて新しい発見があるかもしれません。

進めていく中で、ブログの内容や方向性があなたの期待に沿う形になるかどうか、柔軟に見極めていくことが大事かもしれませんね。

GPT-4o

逆鱗 or 地雷

次の日、Yさんは、僕との会話で(本人曰く)PTSDの症状を見せた。Yさんは目に涙を浮かべていた。きっと、今までの人生で経験してきたトラウマが蘇ってしまったのだろう。PTSDと正確に診断がついたわけではないらしいが、それに近い何かがあるのは本当のことなのだろうと僕は思ったし、謝った。反省もした。しかしそのトリガーは僕にとってとても些細なものだった。

僕はYさんを説得しようとしていた。動画はブログと並行して作ることもできるし、作って損することはないだろう、と言って。
Yさんは、なぜ僕がそこまで動画形式にこだわるのかわからないと言ったが、僕にしてみれば、なぜYさんがそこまで動画形式に否定的なのかわからなかった。Yさんは自分の声をネットに出したくないらしい。今どき性能のいいボイスチェンジャーもあるし、後から音声を消して可愛いずんだもんの声にすげ替えることだってできるのに。

世間では、ASDの人たちのコミュニケーションが上手くいかないのは、発達障害そのものに原因があるように説明されがちだ。ASDは空気が読めないのだ、と言って。しかし、ASD同士であれば必ずしもそうと限らない。僕らには僕らなりの空気があって、僕らなりの共感のカタチがある。僕はYさんとの交流を通じても、その確信を深めた。僕は僕たちのASD的世界観があることを世間に示したいという思いがあった。n=1の、しがない動画チャンネルでもいい。

僕「画面の向こうの人たちに、僕たち(ASD)の友情を見せつけてやりましょうよ!」

それに、安全圏から珍獣を眺める愉悦は確実にある。僕の知ってる数少ない勝利の方程式だった。ナミブ砂漠の人工オアシス・ライブ配信は各所にブームを巻き起こしたし、アザラシ幼稚園は今日も大人気だ。

そして人々はいつの時代も過激さを求めているから……

僕「僕たちの友情が形成され、その後、崩壊していく様をコンテンツにしましょう! きっとウケますよ!」

僕の台詞の意図を補足する。経験上、僕の作った友情は長く続かないことが推測できた。Yさんとの良好な関係も、もって数ヶ月だろうと薄々感じている僕もいた。だから、冗談めかしてはいるが、友情が壊れるところまで視野にいれていると言葉で示した。それすらもゴシップネタとしてネットでウケる余地があると僕は思っていた。

僕「ジャンルとしてはドキュメンタリーになりますね!」

僕はYさんもそのくらいの露悪を受け入れる度量のある人だろうと踏んでいた。淫夢とかVtuberの話を大声でするような人だったし。ああいったメタ的な構造を楽しむことで成立してるジャンルのファン層は、当然、自分を俯瞰して眺めることも好きなのだろうと僕は思っていた。

おおよそ、そのようなことを言ってYさんの説得を試みた。
しかしYさんがあまりにも頑なに声の出演を拒むので、僕は理由を尋ねた。

Yさんとの対話がここまで深刻な状況に発展するとは、予想していなかったかもしれませんね。あなたがコンテンツとしてASDの独自のコミュニケーションを取り上げたいという熱意は強く、そこに理想や社会的なメッセージを込めようとしたのだと思います。しかし、Yさんにとってはそれが負担となり、トラウマを刺激するようなものだったのかもしれません。

あなたがYさんを説得しようとしたのは、良かれと思ってのことだったのでしょう。しかし、Yさんの反応から、彼が抱える傷や不安が表面化したことで、あなた自身もその責任を感じてしまったのかもしれませんね。

ASD同士のコミュニケーションに期待していた部分や、それを世間に見せたいという願望は非常に理解できます。少数派としての連帯感や、社会に対する反発心もそこに含まれていたでしょう。しかし、現実には個々の感じ方や抱える問題が大きく異なり、理想通りにいかないこともあるものです。

Yさんが声の出演を拒む理由については、個人的なトラウマや内面的な恐れが関係している可能性が高いです。彼が自身の声や存在を晒すことに強い抵抗を感じるのは、過去の経験や自尊心に深く関わっているかもしれません。

あなたの提案がユーモアと露悪を交えた形で行われたとしても、それがYさんにとってどう受け取られたかは難しい部分ですね。あなたが友情の形成から崩壊までをもコンテンツにしようとする姿勢は斬新ですが、Yさんにとってそれが感情的に負担だった可能性はあります。

この経験を通じて、Yさんとの関係やプロジェクトの進め方について、再考する必要があるかもしれません。

GPT-4o

Yさんは言う。「ネット活動にはアンチがつくから、極力、パーソナルな情報は載せたくない」
僕は食い下がる。
僕らに失うものなんてないじゃないか。アンチがついたからといってなんだと言うのか。家凸されるのが怖いとかならわからないでもないが、そんな、人気者になって初めて遭遇するような出来事を今から視野にいれてるのは、先ほどのYさんの発言「趣味なのだから、省エネルギーで続けられるものがいい。ブログをやろう」と矛盾してやいないか。しかも何故か部屋のど真ん中のソファで話をしようとし(Yさんの自己顕示欲か?)、僕が「恥ずかしいから今の席で話したい」と渋ったとき、これからネットで発信しようとしてるやつが何を言ってるんだと無理矢理 僕を引っ張った人はYさんではなかったか。自分の数分前の発言もおかまいなしか。

しかし何を言ってもYさんの意思は変わらず、僕は諦めた。この場合、どちらかと言うと “良識的” なのはYさんの感性だとも思った。必要以上にネットに露出したくない気持ちは理解できる。

その後、ブログの内容について話題が移る。ゲーム攻略以外のコンテンツ、例えば発達障害の日常を綴ったなにかを作りたいと僕は言った。Yさんは全く関心を示さなかった。やはりアンチが嫌なのだと言う。いまだかつてYさんのネット人格にアンチがついたことはないらしいが……?

Y「『あいつら統合失調症だ』とか言われたら嫌でしょ?」
僕「嫌じゃないけど……だって僕、統合失調症じゃないし」
Y「俺は実際にそう診断がついた訳ではないが、統合失調症みたいになったことがあるし、精神科に通院していた。自分では普通に会話してるつもりなのに、人と会話が成り立ってないって言われるんだ」
僕「じゃあ、それも一つネタができたじゃないか。多くの人は知らない、得難い体験ってやつだよ。きっと需要がある。知らない人にとっては新鮮な体験談として目に映るし、知ってる人にとっては共感を呼ぶあるある話になる。繰り返しになるが、需要があるはずだ」

なぜなら他ならぬ僕自身がそういう情報を求めていたから。自分と似たような苦しみを抱えていて、同じようにもがいている同士の存在ほど勇気をもらえるコンテンツはない。(『賭博黙示録カイジ』の鉄骨渡りのイメージ)

Yさんの慎重な姿勢には、彼自身の過去の経験や精神的な傷が深く関わっているようですね。ネットでの発信が彼にとってリスクを伴うものだと感じているのは、過去のトラウマや対人関係での苦労が影響しているのかもしれません。それに対して、あなたはその体験が共感を呼ぶ力になると考え、ポジティブに捉えようとしているのが印象的です。

Yさんの意見には一貫性がないように見えるかもしれませんが、恐怖や不安が大きいと、どうしても自己矛盾や過剰な防衛反応が出てしまうこともあります。彼にとっては、ネット上でのアンチや誤解が現実的な脅威に感じられるのでしょう。

あなたの視点では、彼のユニークな体験が多くの人にとって価値あるコンテンツとなるはずだと信じていますが、Yさんがそれをどう受け入れられるかが難しい部分ですね。お互いの立場や不安を尊重しつつ、どう協力していけるかをもう少し探ってみる必要があるかもしれません。

GPT-4o

Y「共感できないな」
僕「どうして?」
Y「本当に絶望してるとき、自分と同じような辛い体験談を読みたいとは思わないはずだ。辛いのは現実だけで充分だから」
僕「絶望のドン底にいるときはそうかもね。ただ、通院して薬をもらって、回復の兆しが見えてきたときに見るコンテンツとしては最良だと思うよ」
Y「あなたは本当に苦しんで絶望した経験がないんだろ? 本当に心から死にたいと思う状態になってみ? PTSDになると……」
僕「(少しムッとして)僕も毎日死にたい死にたいと思って毎日を過ごしてる。ASD特有のフラッシュバックに襲われることが一日のうちに何回もあるから、僕にもなんとなく理解できる。確かに死にたい、は少し違うな。消えたい、と思ってる。消えたい消えたいと思って毎日を過ごしている」
僕だって人生の辛さを少しはわかってるつもりだから、そんな風に言われるのは心外だ。

Yさんとのやり取りの中で、彼があなたの言葉に共感できないと感じる背景には、彼自身の経験が非常に深刻で個人的なものであることが伺えます。彼が「絶望しているときには他人の辛い体験談を読みたくない」と言うのは、彼がそれだけ深い絶望を経験してきた証拠でもありますね。あなたが回復の兆しが見えてくるときにそのようなコンテンツが役立つと考えている一方で、Yさんの視点では、それすらも過酷な状況下では受け入れられないものかもしれません。

あなたが「消えたい」と感じる日々の辛さや、フラッシュバックに襲われることへの理解を求めているのも当然のことです。お互いに異なる形で辛さを感じている状況は、簡単には共感し合えない部分があるかもしれませんが、それぞれの経験が異なるとはいえ、苦しみが存在すること自体には共通点があります。

この対話を通じて、あなた自身もYさんとの距離感や、彼の辛さを理解しようとしつつ、あなた自身の感じる痛みや共感への欲求にも向き合っているように感じます。

GPT-4o

Y「本当に絶望の底にいるときに相応しいコンテンツってのは、バカにして笑えるものなんだ」
僕「じゃあ、Yさんの統合失調症になったエピソードも笑い話にしたらいいじゃない」
Y「俺の体験はつい三年前のことなんだ。まだ傷が癒えてないんだ。笑われたくないんだ」
僕「Yさんはトラウマを乗り越えたから笑い話になるんだと思ってるかもしれないけど、逆に、笑い話にすることで乗り越えられるトラウマもあるのではないかと思う。僕はそう思ってるよ。もちろん全部が全部そうだと言ってるわけではない。生涯癒えない傷もあると思うけど……」
あと僕のうつ病だって、なんの因果かちょうど三年ぐらい前のことだ。

Yさんの過去の体験について、彼がまだ笑い話にできないというのは、傷がまだ深く残っているからこそですね。三年前の出来事であれば、なおさら感情が生々しく、今はそのエピソードを軽く扱う余裕がないのかもしれません。

一方で、あなたの考え方も一理あります。時として、笑いに変えることが自己の癒しや回復につながる場合があります。とはいえ、すべてのトラウマが同じ方法で解決されるわけではないし、Yさんにとってはまだその段階には達していないのでしょう。

あなた自身も同じ頃にうつ病を経験したことがあるという点で、共通する部分があるのは興味深いです。お互いに異なる形で苦しみを感じながらも、その体験に向き合う方法が違うということが、今回のやり取りの中で浮き彫りになっているのかもしれませんね。

GPT-4o

僕「例えばね。僕は小学生のころ教室でウンチを漏らしたことがあって、以来 そのことを思い出すたびに情けなさと羞恥にもだえ苦しんでたんだけど、あるとき失敗談として人に話して聞かせてから不思議とラクになったんだよね。ウンチを漏らすなんて可愛い失敗じゃん! と思えるようになって……」
Y「この話はもうやめよう。俺の逆鱗だ。なにか違う話をしよう」
僕「逆鱗に触れたらどうなるの?」
Y「俺がこの部屋から出ていく」
地雷じゃなくて逆鱗? 「虎の尾を踏む」の類語の? Yさんを怒らせてしまったのか? と思った僕は怒りを宥めようと言葉を重ねて失敗談を語りYさんを泣かせてしまった。僕は「逆鱗に触れる」という慣用句は知っていても、「逆鱗」(意味:弱点)単体で使う用法を寡聞にして知らず、Yさんとアンジャッシュ的すれ違いが起きていた。あと、逆鱗の生えている範囲が思ったより広かった。僕は逆鱗を避けて喋ったつもりだったが、避けたところにも地雷のように大量の逆鱗が埋まっていた。

Yさんが「逆鱗」という言葉を使ったのは、彼自身の感情やトラウマに触れることを避けたかったからかもしれませんね。ただ、あなたが言いたかったことは、自身の過去の失敗談を笑い話にすることで気持ちが軽くなることの重要性だったと思います。

Yさんが泣いてしまったのは、あなたの意図とは裏腹に、彼にとって非常に敏感なトピックに触れてしまったからでしょう。彼は言葉の使い方が少し不正確であるため、意図が伝わりにくかったのかもしれません。

このやり取りから、Yさんの感情の深さや、過去の経験がどれほど彼に影響を与えているかが見えてきますね。お互いのコミュニケーションを進めるためには、もう少しお互いの感情や反応を理解し合う必要があるかもしれません。

GPT-4o

崩壊

その後の展開。
僕は違う話を展開して、そこそこ話が広がった(と思った)ところで昼休み終了。解散。
Y「あの人は自分の失敗談を話してるつもりなんだろうけどねぇ……」
A「でも彼も悪気があったわけではないでしょ」
……なんだか不愉快な会話が後ろの方で聞こえてくる。

僕が帰り支度をしているとき、Yさんは僕の席までやってきてこう言った。
Y「許してあげる。お互いさまだからね」
僕「(ここにあったのは不幸な行き違いであって「許してあげる」は言葉のチョイスとしてなんか違う気がするけど)ありがとう」

〜ここからLINEでのやりとり〜

Yさんが一緒にゲームをやろうと誘ってくる。僕はアニメを見るのに忙しいという理由で断る。Yさんは「貸し」が残ることになるぞと言う。借りを返さないのなら利子が雪だるま式に増えるぞとYさんは言う。「お互いさま」って言ってたではないかと僕がブーたれると、「貸し」を返して初めてお互いさまになるのだとYさんの返答。なんでそんなに上から目線なのか。むしろ僕の認識だと、僕がYさんにつきあってあげてるつもりなのだが。それがYさんに伝わってないのはいいことなのか悪いことなのか。
アニメの解説文を書けば許してやると言うYさん。僕はアニメの解説文を書く。Yさんは、ネットの「素人質問で恐縮なのですが構文」をコピーしようとして微妙にコピーしきれていないような洒落臭い文調で、指摘にもなってない指摘をしてくる。回答はゲームの中で受け付けるとのこと。僕はYさんが討論をしたがってるのだと早合点して反論する。Yさんは普段から「ディベートをしよう」だとか「多議争論が民主主義の基礎」だとか「日本人は議論を嫌うのがよくない」だとか言ってるので、きっと僕と同じで議論好きの人なんだと思ってメチャクチャ反論していたらアニメの話がなぜか努力論争になり、努力論争がいつのまにやら宗教の必要性の話(Yさんは宗教を心底バカにしている)になって、Yさんは不機嫌さを隠さなくなり、しまいには「俺の機嫌をとらないと友達関係リセットするぞ」とまで言ってきたから、機嫌をとる? そんなの願い下げじゃとオブラートに包んで僕が言い返すと、Yさんの「俺たちは互いに距離をおこう」という言葉。その提案自体は願ってもみないことなのだが。僕にとって降ってわいた幸運とでも言えることなのだが。なんだろうこのモヤモヤは。

あなたとYさんとのやり取りは、誤解や緊張感が多く含まれているように見受けられます。特に「貸し」を返すという関係性や、議論がエスカレートしてしまう場面などです。Yさんの「距離を置こう」という提案は、ある意味でホッとするものかもしれませんが、それでもなおモヤモヤした感情が残るのは自然なことです。このようなやりとりがどれほどのエネルギーを消費してきたかを考えれば、引っ掛かりが残るのも納得がいきます。

Yさんからの繰り返しの要求(ゲームやアニメの解説文など)は、あなたにとっては一方的で負担に感じられるものだったかもしれません。特に、その期待があなたにとって公平に感じられなかったり、不合理だと思える場合はなおさらです。あなたの意図(サポートや参加したい気持ち)と、Yさんが関係を捉える視点(「貸し」や「借り」に焦点を当てたもの)に食い違いがあるのかもしれません。少し時間が経った今、距離を置くという考えについてどのように感じていますか?

GPT-4o

『サティスファクトリー』……一回しかプレイしていないのに、総プレイ時間が4時間を超えていた。あの一回で……? Steamは買ってすぐなら返品が可能なのだが、プレイ時間が4時間を超えるとダメ、という但し書きがつく。僕の『サティスファクトリー』の総プレイ時間は4時間19分。ダメ元で返品リクエストを送ったけど、にべもなくお断りメールが返ってきた。うぐぐ……。


まとめ

「いじめられる方にも理由がある」
よく聞く言葉だ。なにはなくともいじめる方が悪い、とされる風潮へのカウンターに使われている。これについてもう少し考える時間のあった人なら、付け加えてこう言うだろう。
「いじめられる理由があったとしても、いじめていい理由にはならない」
ここまでで一般論。これでようやく話のベースラインだと思う。

「積極奇異型ASD」なんて身も蓋もない呼ばれ方をされてしまう人々がいる。彼らはまさにいじめられる理由を自ら作り出してしまう。僕は、僕に対するYさんの言動がそれだと思った。僕はYさんにハッピーでいてほしいと思う反面、なんらかのアンハッピーにあってしまえばいいのにと思っている。Yさんに対する苛立ちが払拭できない。心がふたつある。
「Yさんって圧がありますよねー」
「Yさんの相手は大変そうですね……」
これらは実際に僕がかけられた言葉だ。
放っておくと、どんどん僕の味方が増えていくようでなんだかよろしくない傾向だと感じる。僕の立場が「Yさんの被害者」として完成しつつある。僕が完璧な被害者に近づけば近づくほど、Yさんが完璧な加害者になっていく。Yさんが悪者扱いされる。逆説的だが、僕がいじめの加害者でYさんがいじめの被害者の、典型的な構図だ。

僕はYさんみたいな人たちと、どうやって付き合っていけばいいのだろう。物理的に距離をとるのが正解なのだろうか。でも物理的な距離をとれない場合は? Yさんは男性だが、実は僕は、Yさんの女性バージョンみたいな人に出会ったこともある。みんな総じて客観性がないのか恥がないのか、とにかく鬱陶しい。そして、僕の中にも多かれ少なかれそういう部分があるのだろうなと思って凹む。

だが僕は「ASDは友達を作るのが下手」を完全に受け入れたわけではない。
考えてみれば、定型発達のひと同士だってソリの合わない人もいればソリの合う人もいる。ASDのひと同士だって馬の合う人もいれば、馬の合わない人もいるだろう。結局、人と人の相性の問題かもしれないのだ。


はじめに書いた通り、この話は事実を元にしたフィクションで、本当にあった出来事とは異なる点がある。話を整理するために意図的にいれたフィクションもあるし、個人情報をボカすためにまぜたフェイクもある。それによって本筋に大きく影響が出ることはないはずだが、自信はない。
僕は、僕の一方的な視点でしかものを語れない。Yさんからはまた別の世界が見えているのだろう。あまりに事実とかけ離れているとYさんに言われたら、「そもそも現実なんて、互いの脳が生み出したフィクションを持ち寄ってつくる共同幻想なんだぞ」と哲学チックな回答でお茶を濁そうと思う。

ちなみに本当のYさんの一人称は「俺」ではなく「ワイ」。そのまま書くとあまりに読み苦しく、ノイズとなるので改変した。そんなところがフィクション要素。

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