【実録】ASD同士で友情が形成され、崩壊するまで
※この話は、限りなくノンフィクションに近いフィクション。
導入
「ASDは他者の気持ちを想像することが苦手で、空気が読めない障害なので、友達を作るのが下手です」
ネットの記事に限らず、発達障害を解説する本でもASDはこんなふうに書かれている。専門書はさすがにここまでチクチクした言葉では書かれていないが、ざっくり意訳すると大体 上記のような意味のことを言っている。
ASDはミラーニューロンの働きが弱いと言うし、他者の感情の機微に疎いというのも、事実の一面ではあるだろう。しかし、発達障害者の生きづらさには、少数派であることに起因するものがある。例えば、ASDの人たちは空気が読めないとされるが、ASD同士であれば決してそうとも限らない。彼らには彼らなりの会話の作法があり流儀があって、それを理解する者同士なら会話もスムーズだったりする。このことを支持する論文もあるし、僕はそれを信じていた。信じたかった。
「ほらみろ、ASD同士でも仲良くなんかなれないじゃないか。少数派とか多数派とか関係ない。誰が相手だろうとASDは空気が読めない障害者なんだ」みたいなネットの声を否定したかった。多数派の驕りを糾弾して、ASD世界の共感があることを証明したいという思いがあった。
「画面の向こうの人たちに、僕たち(ASD)の友情を見せつけてやりましょうよ!」
僕はあのとき確かにそう言った。
Yさん
同僚にASDのYさんがいる。彼はおしゃべり好きなのにもかかわらず、人と会話するのがお世辞にも上手いとは言えなかった。きっと一人で喋る漫談とかが向いているのだと思う。彼の自信過剰ぎみで客観的視点を欠いた言動は僕をしばしば不快にさせる。しかし僕だって(Yさんよりメタ認知能力があると自負しているとはいえ)同じASDだ。ある程度Yさんの抱えている生きづらさがわかるつもりだった。同じASDとして感じるシンパシーと、少しの同情心から、Yさんの会話に応じてあげているうちに僕はYさんに好かれてしまった。Yさんは昼休みになると必ず僕の席までやってきて話しかけてくる。
正直に言うと、初めのうちは快感だった。ちょっぴり非常識なYさんに “大人の対応” をする自分という構図が好きだった。Yさんを嗜めていると、まるで自分が定型発達の人間になったような気がして快感だった。その点で僕はYさんを舐め腐っていたと言える。でもYさんはYさんで僕を舐め腐っていたのかもしれない。
正論を言う人
Yさんは正論を言う。「良い人間関係を築きたいのであれば、相手の意見を頭ごなしに否定してはいけない」「他人を変えようとしても上手くいかないから、変えるなら自分を変えよう」「努力していれば、誰かがそれをきっと見ててくれている」
言ってる内容自体はもっともだと思うのだけど、Yさんは、なんだか表面的な理解で喋ってる気がしてならない。僕の言葉を頭ごなしに否定した後、「これはあなたの意見の否定ではありません。事実の指摘です」とか言うし……。
恥と客観性
Yさんと僕は、帰り道が途中の駅まで一緒だった。道を歩いているときも、電車に揺られているときも、Yさんはひっきりなしに喋りかけてくる。初めは好ましく思っていたけれど、ほどなくして嫌になった。想像してみてほしい。シンと静まり返った電車の中でYさんは唐突に「ガチャピンとムックどっちが好きです?」とか聞いてくるのだ。特徴的な喋り方の、デカい声で。つけ加えて、Yさんは話に熱が入ると身振り手振りが激しくなり、喋り方が選挙演説になる。これは僕にも似たような部分があり、よく親に注意されているところだ。電車の中で話すのが恥ずかしいので小声で喋ってほしいと僕は何度もYさんに頼んだのだが、しばらくすると必ず大きな声に戻ってしまう。本当に不思議でならなかった。Yさんには恥という概念がないのか? Yさんには客観性がないから恥を感じとれないのか? それとも、恥を感じないから客観性を獲得できなかったのか? あんまり辛かった僕はChatGPTに相談していた。
LINEとコトの始まり
YさんとLINEのやりとりをするようになった。電車の中で我々がお喋りするのは色んな意味で難しいので、声ではなく文面で会話しようという話になり、LINEの連絡先を交換した。
しかしこの数日後、LINEで議論が白熱し過ぎ、Yさんの方から「お互い距離をおきましょう」と提案される。Yさんとのやりとりに疲れていた僕はこれ幸いと提案に応じた。Yさんはそれっきり僕のLINEのメッセージを読まなくなった。僕にとってYさんと距離をとれることは喜ばしいことなのだが、どうにも釈然としない。心にわだかまりが残る。しかも精神的な距離はとれても物理的な距離がとれない。同じ職場にいるからだ。
事の発端は、僕が自分の作った動画をYさんに見せびらかしたことだ。Yさんは聞かれてもいないのにチャンネル登録者数を伸ばすアドバイスを僕にしてきた。鬱陶しく思った僕は意趣返しのつもりでYさんに言った。
「そんなに言うならYさんがネタを考えればいいじゃないか。僕はそれを動画にするよ」
冗談まじりのアイデアだったが、Yさんは昼休みの度にその話をしてきた(後で聞いたところによるとYさんも話半分だったようだが)。
僕は少し考えた。僕の置かれた状況を客観的に見たら、けっこう面白いことになってるのではないか? あしらっても、受け流しても、話題のつきないYさんの奇妙な会話術と、二人のASD的な関係のあり方は、見ようによっては、僕が喉から手が出るほど欲しがっていた上質な “発達障害者の日常” コンテンツになり得るのではないか? そう考えた日から、僕は動画制作に本気になった。Yさんと共同YouTubeチャンネルを作るのだ。形式はラジオにしようと思った。作業用BGMとして、手が塞がってるときでも気軽に聴けるコンテンツが僕は好きだったからだ。この計画にYさんはノッてくれた。ただし、新しく発売される『サティスファクトリー』というゲームを使ったゲーム配信を二人でやることを交換条件として。
翌日、何を思ったのかYさんはこんなことを言い出した。
Y「素人が今から始めたって、YouTubeチャンネルは伸びない。それに動画制作も素人がやるには手間暇がかかって大変だ。俺らにとって一番大事なのは無理なく続けられることと、モチベーションを保ち続けること。俺は前々からブログを書きたいと思っていたんだ。共同ブログにしないか?」
僕「動画を作るのが大変ならプロに依頼する手もあるよ。幸い僕の弟は動画編集が上手いし、お金を払えばやってくれると思う」
Y「それは反対だ。お金をかけ始めると収益を出すことが俺たちの目標にすり替わってしまう。俺たちの活動はあくまで趣味としてやるものだ」
僕の計画はこのあたりから既に雲行きが怪しくなってきた。
とりあえずYさんの言い分にも一理あるなと納得した僕は、この提案をのんだ。僕の頭の中には、「何か実績になる動画を作れたら、それをポートフォリオに加えて、映像制作会社に入るための足掛かりになるかも……」なんて腹算用があったので、だいぶ食い下がったが、Yさんには関係のないことだ。Yさんの動画をやらないことへの決意は固く、僕は泣く泣く計画を封印した。今から考えればYさんにこのことを伝えていればよかったのかもしれない。
もちろん動画制作は一人でもできるけれど、僕の計画はあくまでYさんとの会話ありきで始まったラジオだったので、Yさんが動画に出演したくない、声すら載せたくないと表明した時点で白紙に戻った。そもそも、ブログなら既に僕は一人でやってるから、わざわざ二人でやる意義が見出せないというのも僕のやる気を削ぐ理由だった。それでもnoteには共同マガジンという機能が用意されているし、Yさんに素晴らしいブログ執筆の才能が眠ってることを信じて僕は共同ブログをやることにした。
その日、『サティスファクトリー』のマルチプレイ機能を使ってYさんと遊んだ。僕にとって苦手なジャンルのゲームだとすぐにわかった。でも口にしなかった。Yさんが悲しむと思ったから。僕はコツコツ素材を集めたり、地道にレベル上げしたりを楽しめない性分だ。『サティスファクトリー』はまさにその部分がキモになるゲームで、とても辛い。僕は努力が嫌いなのだ。僕の中のADHD要素が一因だと思っている。しかしYさんはASD単体の発達障害者で、ADHD要素をたぶん持っていない。この辺がYさんと僕の決定的な感性の差異を生んでいる。
逆鱗 or 地雷
次の日、Yさんは、僕との会話で(本人曰く)PTSDの症状を見せた。Yさんは目に涙を浮かべていた。きっと、今までの人生で経験してきたトラウマが蘇ってしまったのだろう。PTSDと正確に診断がついたわけではないらしいが、それに近い何かがあるのは本当のことなのだろうと僕は思ったし、謝った。反省もした。しかしそのトリガーは僕にとってとても些細なものだった。
僕はYさんを説得しようとしていた。動画はブログと並行して作ることもできるし、作って損することはないだろう、と言って。
Yさんは、なぜ僕がそこまで動画形式にこだわるのかわからないと言ったが、僕にしてみれば、なぜYさんがそこまで動画形式に否定的なのかわからなかった。Yさんは自分の声をネットに出したくないらしい。今どき性能のいいボイスチェンジャーもあるし、後から音声を消して可愛いずんだもんの声にすげ替えることだってできるのに。
世間では、ASDの人たちのコミュニケーションが上手くいかないのは、発達障害そのものに原因があるように説明されがちだ。ASDは空気が読めないのだ、と言って。しかし、ASD同士であれば必ずしもそうと限らない。僕らには僕らなりの空気があって、僕らなりの共感のカタチがある。僕はYさんとの交流を通じても、その確信を深めた。僕は僕たちのASD的世界観があることを世間に示したいという思いがあった。n=1の、しがない動画チャンネルでもいい。
僕「画面の向こうの人たちに、僕たち(ASD)の友情を見せつけてやりましょうよ!」
それに、安全圏から珍獣を眺める愉悦は確実にある。僕の知ってる数少ない勝利の方程式だった。ナミブ砂漠の人工オアシス・ライブ配信は各所にブームを巻き起こしたし、アザラシ幼稚園は今日も大人気だ。
そして人々はいつの時代も過激さを求めているから……
僕「僕たちの友情が形成され、その後、崩壊していく様をコンテンツにしましょう! きっとウケますよ!」
僕の台詞の意図を補足する。経験上、僕の作った友情は長く続かないことが推測できた。Yさんとの良好な関係も、もって数ヶ月だろうと薄々感じている僕もいた。だから、冗談めかしてはいるが、友情が壊れるところまで視野にいれていると言葉で示した。それすらもゴシップネタとしてネットでウケる余地があると僕は思っていた。
僕「ジャンルとしてはドキュメンタリーになりますね!」
僕はYさんもそのくらいの露悪を受け入れる度量のある人だろうと踏んでいた。淫夢とかVtuberの話を大声でするような人だったし。ああいったメタ的な構造を楽しむことで成立してるジャンルのファン層は、当然、自分を俯瞰して眺めることも好きなのだろうと僕は思っていた。
おおよそ、そのようなことを言ってYさんの説得を試みた。
しかしYさんがあまりにも頑なに声の出演を拒むので、僕は理由を尋ねた。
Yさんは言う。「ネット活動にはアンチがつくから、極力、パーソナルな情報は載せたくない」
僕は食い下がる。
僕らに失うものなんてないじゃないか。アンチがついたからといってなんだと言うのか。家凸されるのが怖いとかならわからないでもないが、そんな、人気者になって初めて遭遇するような出来事を今から視野にいれてるのは、先ほどのYさんの発言「趣味なのだから、省エネルギーで続けられるものがいい。ブログをやろう」と矛盾してやいないか。しかも何故か部屋のど真ん中のソファで話をしようとし(Yさんの自己顕示欲か?)、僕が「恥ずかしいから今の席で話したい」と渋ったとき、これからネットで発信しようとしてるやつが何を言ってるんだと無理矢理 僕を引っ張った人はYさんではなかったか。自分の数分前の発言もおかまいなしか。
しかし何を言ってもYさんの意思は変わらず、僕は諦めた。この場合、どちらかと言うと “良識的” なのはYさんの感性だとも思った。必要以上にネットに露出したくない気持ちは理解できる。
その後、ブログの内容について話題が移る。ゲーム攻略以外のコンテンツ、例えば発達障害の日常を綴ったなにかを作りたいと僕は言った。Yさんは全く関心を示さなかった。やはりアンチが嫌なのだと言う。いまだかつてYさんのネット人格にアンチがついたことはないらしいが……?
Y「『あいつら統合失調症だ』とか言われたら嫌でしょ?」
僕「嫌じゃないけど……だって僕、統合失調症じゃないし」
Y「俺は実際にそう診断がついた訳ではないが、統合失調症みたいになったことがあるし、精神科に通院していた。自分では普通に会話してるつもりなのに、人と会話が成り立ってないって言われるんだ」
僕「じゃあ、それも一つネタができたじゃないか。多くの人は知らない、得難い体験ってやつだよ。きっと需要がある。知らない人にとっては新鮮な体験談として目に映るし、知ってる人にとっては共感を呼ぶあるある話になる。繰り返しになるが、需要があるはずだ」
なぜなら他ならぬ僕自身がそういう情報を求めていたから。自分と似たような苦しみを抱えていて、同じようにもがいている同士の存在ほど勇気をもらえるコンテンツはない。(『賭博黙示録カイジ』の鉄骨渡りのイメージ)
Y「共感できないな」
僕「どうして?」
Y「本当に絶望してるとき、自分と同じような辛い体験談を読みたいとは思わないはずだ。辛いのは現実だけで充分だから」
僕「絶望のドン底にいるときはそうかもね。ただ、通院して薬をもらって、回復の兆しが見えてきたときに見るコンテンツとしては最良だと思うよ」
Y「あなたは本当に苦しんで絶望した経験がないんだろ? 本当に心から死にたいと思う状態になってみ? PTSDになると……」
僕「(少しムッとして)僕も毎日死にたい死にたいと思って毎日を過ごしてる。ASD特有のフラッシュバックに襲われることが一日のうちに何回もあるから、僕にもなんとなく理解できる。確かに死にたい、は少し違うな。消えたい、と思ってる。消えたい消えたいと思って毎日を過ごしている」
僕だって人生の辛さを少しはわかってるつもりだから、そんな風に言われるのは心外だ。
Y「本当に絶望の底にいるときに相応しいコンテンツってのは、バカにして笑えるものなんだ」
僕「じゃあ、Yさんの統合失調症になったエピソードも笑い話にしたらいいじゃない」
Y「俺の体験はつい三年前のことなんだ。まだ傷が癒えてないんだ。笑われたくないんだ」
僕「Yさんはトラウマを乗り越えたから笑い話になるんだと思ってるかもしれないけど、逆に、笑い話にすることで乗り越えられるトラウマもあるのではないかと思う。僕はそう思ってるよ。もちろん全部が全部そうだと言ってるわけではない。生涯癒えない傷もあると思うけど……」
あと僕のうつ病だって、なんの因果かちょうど三年ぐらい前のことだ。
僕「例えばね。僕は小学生のころ教室でウンチを漏らしたことがあって、以来 そのことを思い出すたびに情けなさと羞恥にもだえ苦しんでたんだけど、あるとき失敗談として人に話して聞かせてから不思議とラクになったんだよね。ウンチを漏らすなんて可愛い失敗じゃん! と思えるようになって……」
Y「この話はもうやめよう。俺の逆鱗だ。なにか違う話をしよう」
僕「逆鱗に触れたらどうなるの?」
Y「俺がこの部屋から出ていく」
地雷じゃなくて逆鱗? 「虎の尾を踏む」の類語の? Yさんを怒らせてしまったのか? と思った僕は怒りを宥めようと言葉を重ねて失敗談を語りYさんを泣かせてしまった。僕は「逆鱗に触れる」という慣用句は知っていても、「逆鱗」(意味:弱点)単体で使う用法を寡聞にして知らず、Yさんとアンジャッシュ的すれ違いが起きていた。あと、逆鱗の生えている範囲が思ったより広かった。僕は逆鱗を避けて喋ったつもりだったが、避けたところにも地雷のように大量の逆鱗が埋まっていた。
崩壊
その後の展開。
僕は違う話を展開して、そこそこ話が広がった(と思った)ところで昼休み終了。解散。
Y「あの人は自分の失敗談を話してるつもりなんだろうけどねぇ……」
A「でも彼も悪気があったわけではないでしょ」
……なんだか不愉快な会話が後ろの方で聞こえてくる。
僕が帰り支度をしているとき、Yさんは僕の席までやってきてこう言った。
Y「許してあげる。お互いさまだからね」
僕「(ここにあったのは不幸な行き違いであって「許してあげる」は言葉のチョイスとしてなんか違う気がするけど)ありがとう」
〜ここからLINEでのやりとり〜
Yさんが一緒にゲームをやろうと誘ってくる。僕はアニメを見るのに忙しいという理由で断る。Yさんは「貸し」が残ることになるぞと言う。借りを返さないのなら利子が雪だるま式に増えるぞとYさんは言う。「お互いさま」って言ってたではないかと僕がブーたれると、「貸し」を返して初めてお互いさまになるのだとYさんの返答。なんでそんなに上から目線なのか。むしろ僕の認識だと、僕がYさんにつきあってあげてるつもりなのだが。それがYさんに伝わってないのはいいことなのか悪いことなのか。
アニメの解説文を書けば許してやると言うYさん。僕はアニメの解説文を書く。Yさんは、ネットの「素人質問で恐縮なのですが構文」をコピーしようとして微妙にコピーしきれていないような洒落臭い文調で、指摘にもなってない指摘をしてくる。回答はゲームの中で受け付けるとのこと。僕はYさんが討論をしたがってるのだと早合点して反論する。Yさんは普段から「ディベートをしよう」だとか「多議争論が民主主義の基礎」だとか「日本人は議論を嫌うのがよくない」だとか言ってるので、きっと僕と同じで議論好きの人なんだと思ってメチャクチャ反論していたらアニメの話がなぜか努力論争になり、努力論争がいつのまにやら宗教の必要性の話(Yさんは宗教を心底バカにしている)になって、Yさんは不機嫌さを隠さなくなり、しまいには「俺の機嫌をとらないと友達関係リセットするぞ」とまで言ってきたから、機嫌をとる? そんなの願い下げじゃとオブラートに包んで僕が言い返すと、Yさんの「俺たちは互いに距離をおこう」という言葉。その提案自体は願ってもみないことなのだが。僕にとって降ってわいた幸運とでも言えることなのだが。なんだろうこのモヤモヤは。
『サティスファクトリー』……一回しかプレイしていないのに、総プレイ時間が4時間を超えていた。あの一回で……? Steamは買ってすぐなら返品が可能なのだが、プレイ時間が4時間を超えるとダメ、という但し書きがつく。僕の『サティスファクトリー』の総プレイ時間は4時間19分。ダメ元で返品リクエストを送ったけど、にべもなくお断りメールが返ってきた。うぐぐ……。
まとめ
「いじめられる方にも理由がある」
よく聞く言葉だ。なにはなくともいじめる方が悪い、とされる風潮へのカウンターに使われている。これについてもう少し考える時間のあった人なら、付け加えてこう言うだろう。
「いじめられる理由があったとしても、いじめていい理由にはならない」
ここまでで一般論。これでようやく話のベースラインだと思う。
「積極奇異型ASD」なんて身も蓋もない呼ばれ方をされてしまう人々がいる。彼らはまさにいじめられる理由を自ら作り出してしまう。僕は、僕に対するYさんの言動がそれだと思った。僕はYさんにハッピーでいてほしいと思う反面、なんらかのアンハッピーにあってしまえばいいのにと思っている。Yさんに対する苛立ちが払拭できない。心がふたつある。
「Yさんって圧がありますよねー」
「Yさんの相手は大変そうですね……」
これらは実際に僕がかけられた言葉だ。
放っておくと、どんどん僕の味方が増えていくようでなんだかよろしくない傾向だと感じる。僕の立場が「Yさんの被害者」として完成しつつある。僕が完璧な被害者に近づけば近づくほど、Yさんが完璧な加害者になっていく。Yさんが悪者扱いされる。逆説的だが、僕がいじめの加害者でYさんがいじめの被害者の、典型的な構図だ。
僕はYさんみたいな人たちと、どうやって付き合っていけばいいのだろう。物理的に距離をとるのが正解なのだろうか。でも物理的な距離をとれない場合は? Yさんは男性だが、実は僕は、Yさんの女性バージョンみたいな人に出会ったこともある。みんな総じて客観性がないのか恥がないのか、とにかく鬱陶しい。そして、僕の中にも多かれ少なかれそういう部分があるのだろうなと思って凹む。
だが僕は「ASDは友達を作るのが下手」を完全に受け入れたわけではない。
考えてみれば、定型発達のひと同士だってソリの合わない人もいればソリの合う人もいる。ASDのひと同士だって馬の合う人もいれば、馬の合わない人もいるだろう。結局、人と人の相性の問題かもしれないのだ。
はじめに書いた通り、この話は事実を元にしたフィクションで、本当にあった出来事とは異なる点がある。話を整理するために意図的にいれたフィクションもあるし、個人情報をボカすためにまぜたフェイクもある。それによって本筋に大きく影響が出ることはないはずだが、自信はない。
僕は、僕の一方的な視点でしかものを語れない。Yさんからはまた別の世界が見えているのだろう。あまりに事実とかけ離れているとYさんに言われたら、「そもそも現実なんて、互いの脳が生み出したフィクションを持ち寄ってつくる共同幻想なんだぞ」と哲学チックな回答でお茶を濁そうと思う。
ちなみに本当のYさんの一人称は「俺」ではなく「ワイ」。そのまま書くとあまりに読み苦しく、ノイズとなるので改変した。そんなところがフィクション要素。