『猫と針』を読んだあとに
恩田陸の小説が好きだ。
それは高校生の頃に『六番目の小夜子』と出会った時からずっと変わらないし、新作が出る度に大体の作品は読んでいると思う。
とはいえ、中にはいまいち好きになれないものもあるし、そもそも作者本人のことはよく知らないし、冒頭だけ読んで放っているものもある。ましてや新刊の発売をチェックしているわけでもない。
本屋に寄って新刊の棚で気付かなければ読んでいないことはままある。そして、映像化などのメディアミックスにもほとんど気付いていなくて、直前に誰かから聞いて知るし観には行かない。あとからチェックしたりもしない。
それは言い訳で、この『猫と針』もそんなわけでほんの数年前まで知らなかった。
好きな作家の作品を10年以上知らないままだなんて、本当に好きなのだろうか。
好きだからといってそれが義務化したら苦痛になるわよ。
この作品は15年ほど前にキャラメルボックスという(有名で大きな)劇団がちょうど経営的に風向きが怪しくなる直前あたりに上演した戯曲?台本?を書籍化したものだ。
ちょうど私もごく短期のなんちゃって劇団員として稽古と巡業に勤しんでいた前後なので、無くてもいい偶然が無くてもいい必然を感じさせるとしても、キャラメルボックス自体には興味はない。
知ったきっかけは電子書籍アプリのサジェストだ。津原泰水の小説を購入した際に出てきたのではなかったか。
セール中だったかポイント還元だったかで安かったのでそのうち読もうと思って買い、初めの方だけ読んですっかり忘れていたのだった。
たぶん、そのときはピンときてなかったのだと思う。
いや、違う。近しい人の死を扱っているのがわかったから読むのがつらかったのかもしれない。きっとそう。
葬式の後、あるスタジオに集まった喪服の男女5人による会話劇(?)である。
誰の葬式なのか、なぜスタジオなのか、5人はどういう関係なのか。おおよそ三題噺のようなシンプルな設定だが、中身としては恩田陸らしい“閉じた”“居心地の悪い”“違和感のある”情景描写が遺憾なく発揮されている。
葬式の後に男女が集まるという設定は、同作者の短編の中にもあった。
「楽園を追われて」というその小篇は、確か同じ高校の文芸部だった同級生たちが、同じく同級生の故人が残した小説の原稿を騒がしい居酒屋で読むというようなあらすじだった。
痛快とはいかないが、じんわりと温かく、ぞわぞわとする過去の掘り返しに苦笑いの似合う作品だった。
どちらが先に書かれたんだろうか。
こういうシチュエーションを描く創作物は少なくないのかもしれないが、他の作者のもので似たようなものを今すぐ思い出せない。
むしろ、葬式の後に集まるシーンは「シーン」として一つの要素でしかなく、その状況のみを描くことが目的である物語は少ないのではないか。私が知らないだけだとは思うのだけど。
この『猫と針』は、感触としては小劇場向けの台本だった。
そして、実に恩田陸の書く小編らしい。
舞台を見ていない以上なんとも言えないので思い込みで言うと、おそらく舞台装置も最低限のものしかないだろうし、小道具もそうだろう。
と言っても、キャラメルボックスの動員数を考えるとそれなり(?)に大きなホールや劇場でやったのだと思う。想像がつかない。
恩田陸は世界に見えないガラスの壁を丁寧に立てて、うっすらともやのかかった箱庭を作る。
ミステリー用語としての密室はミステリー作品における大テーマのひとつだが、それをいくらか拡張した概念としての箱庭。
恩田陸にかかればアパートの小部屋も、ホテルや国際空港も、島も、遮るものなどなさそうな街一つでさえも密室≒箱庭になる。
そして、それは実に演劇的だと思う。
箱庭の中を色んな角度から覗いて、そこからいろいろな事情で「出られない」人たちの足跡を追いかける。
それが観客席からの距離のフラットさと似ている、とでも表現したら良いのだろうか。
観客からは舞台が見えるが、舞台から観客は見えない(ことになっている)し、小説の登場人物からは読者は見えない(ことになっている)ところも似ている。
表情がつぶさに観察できるほどには近寄らない。しかし顔の見分けがつかないほどに遠ざかるでもない。曖昧で適切な距離感。
演劇にはその性格上クローズアップが存在しない。代わりにあるのがスポットライトだ。
スポットライトを当てられた人物は独白をするのがセオリーだ。それが本当のこととは限らないし、表情はもやに遮られてよく見えない。
しかし、その独白を頼りに観客は物語を手繰っていくしかないのだ。手繰った先に望んだ答えがあるとも限らない。
恩田陸の作品でよく出会うテーマのもうひとつに「死」がある。
ミステリー作品と死は切っても切れない関係にあるので、おおよそすべてのミステリーは死と関係があり、テーマではある。
しかし、過去の誰かの死が未来にどういう影響を及ぼすのか。一見本筋とは関係なさそうな死がドミノ倒しのように登場人物たちの今に染み込んでゆき、見えなかったもの、見せなかったものを顕にする。
映画のワンシーンで一瞬映る壁にかかったドクロの絵のように、直接の死を描くだけでは醸し出せないグロテスク。
学生の頃の友人が死ぬというのは、それ以外の人の死とは少々違った趣きを持っている。
もちろん親兄弟や子供、現在の友人、同僚などの仕事関係、伴侶、パートナーなどそれぞれ死は違う意味を持つが。
しかし、中高生の頃に若さという得体の知れない衝動を、部活や趣味を通じて強く共有した(と勝手に思い込んでいる)仲間の死は、歳を取るごとにその意味を増すように感じる。
例えるなら、戦友や同志という言葉が限りなく近いかもしれない。
連絡を取り合っているかどうか、近況を知っているかどうかは関係がなく、心の奥深いところでいつまでも繋がっているような淡く根拠のない確信。
ある日訃報を受け取り、その確信が幻想であったと理解する。そして、“あの頃のあいつ”の存在が突然思い出の中から消えるように重さを失う。
同時に“あの頃の自分”の重みは増し、普段は寝たふりをして部屋の隅に転がっている死の恐怖が目を覚まして襲ってくる。
長く生きることは、過去に意味を見出したがる病を患うことだと知る。
話が長いよおじいちゃん。
恩田陸といえばもうひとつ「ノスタルジー」という、世界観を語る上で重要なキーワードがあるのだが、今回は割愛させていただく。
次があるかはわからない。
一人の友人の死を媒介して集まれば、近しい人の死、思い出の中にある死の記憶を呼び起こす。
「実はあの時」という告白が良い報告であったためしはなく、それは思い出さなくてもよかったことかもしれないし、知らなくてよかったことかもしれない。
ではなぜ告白するのか。
一人で抱えるのは辛いからだろうか。
違う。思い出さねばならないからだ。
この中に、それを思い出さねばならない、知らねばならない人がいるからだ。
知らないふり、知らなかったふりをしていたその表情を丁寧に、時に強引に剥がす。
そこには驚きと怒りとで見開かれた目が。
感情も僅かな光も失せた眼が。
過ぎ去った過去を精算するには遅すぎる。
だとしても、なかったことにはできない。
私たち誰しもが、前に進むためだけに生きているわけではないのだ。
この記事が参加している募集
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?