失くした日々をとり戻す
ずっと遠くを見ていた。いつまでも見ていた。遠くの水平線のもっとずっと遠くを、いつまでも見ていた。飽きることはなかった。 ときおり帆船が通った。帆布は風をいっぱいにはらんで、もっと強く吹いたら、とうてい持ちちこたえられないだろう、ぼくにはそう思えた。その破裂は、この世の破滅を意味していた。
胸は防禦の要。中世の頃、世界のあちこちで、武士や騎士たちが十分な機能を誇る鎧、甲冑をまとい、大義を掲げ、戦場を駈けまわった。命の火を死守する麗しいデバイス。
一枚の頑丈な布がぼくたちを守ってくれる。ならば、ぼくたちも守らなくてはいけない。
理科の授業があると、たまに実験室に行った。そこは西校舎のいちばん端にあって、閉門の時刻になると、つよい西陽にいじめられた。教室の片隅に一体の人体骨格模型――ぼくたちは〝こころ君〟と呼んでいた――が置かれていた。身長1メートルほどの無口な少年だった。大人の背丈があったら、子どもたちはお化け屋敷に迷いこんだつもりになり、わくわくと怯え、勉強なんて手につかなかっただろう。
模型は自らから進んでその場所に立ったわけではなく、だれか人間によって置かれた。当り前だけれどね。左胸の肋骨三本にかけて、クレヨンで赤いハートが描かれていた。「こころ君=ぼく」の方程式がすぐに浮かんだ。
授業中おしゃべりをしたり、いたずらをして、先生にとがめられ、廊下に立たされた。ぼくの胸のなかも赤く染まっていく。ぼくはこころ君に同情した。向きあって立った。胸を合わせ、肋骨に肋骨を押しつける。この瞬間をどれほど待ったことだろう。虐げられた者同士。自然に近づきたい感情がわいていた。胸を掻きむしりたくなる欲求と興奮。鼻梁のわきで、眼窩が古井戸のように深く闇の溜息を立ち昇らせている。
ぼくはきっと降りていくだろう。夢につづく道をしずかに歩む人のように。現実か、幻覚か、定かではないけれど、どっちにしても、他人を傷つけるようなことはない。
この世界に生まれたときから人は、論理と曖昧と他者との関わりの板挟みだ。その真実を知ったのもあの夏だった。
水平線のはるか彼方から、母さんの声が今も聞こえる。「妹さえいなかったら、このまま河に飛びこんでしまううのだけれど」父さんが勤め先の金銭を使い込む事件を起こした時のことだ。
――ケアハウスを見学に行った日の夜、少年の頃の写真を見ながら考えた。
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