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『推察』より「ガチ恋オタクは他者を知る あるいは夜半の明星」

ある朝、目を覚ましたら、あなたがいなくなっていた。

さようならの手触りははじめからそこにあったし、手を伸ばせば伸ばすほど、熱が高ぶれば高ぶるほど、別れの確信は強まっていった。
あんなに近くにいたはずなのに、生きながらにして、手の届かない場所に行ってしまった。いや、はじめから二人の間には圧倒的な距離があった。
別れの確信が強まるにつれ、その事実から目を逸らすために手を伸ばしてきたのだろうか。今となっては思い出せない。

あなたと共にあった自分の心までもぎ取られたような心地がする。あなたと共に、私の一部も死んでしまった。
残酷なのは、この明白な喪失が、側から見たら「何を言っているんだ?」の一言で済まされてしまう事態だということ。頭がおかしいのは私で、世界は変わらなくて、あなたは生き続ける。
あなたは「推し」で、私は「オタク」で、私たちは初めから赤の他人だから。

推しは他人である。
その事実に気がついた時、あんなに近くにいたはずのあなたが、どこにもいなくなっていた。

推し、と呼ぶことは、推す側ー推される側という関係性に自分と相手を固定する。それは、オタクとして一線を守るための大切な振る舞いだ。その一線(いくらそれが存在しないかのように向こう側が振る舞ってくれていたとしても)を踏み越えれば、そこに待っているのは果てなき一体化の欲望だ。

私は    に出逢ってから、彼を「推し」と呼べたことがなかった。フルネーム、かつ敬称を省いた、苗字+名前の漢字四文字。それが私が    を認識し、呼びかける上で必要な呼称だった。その固有性と絶対性を保持したままに相手を呼ぶための呪文。
たった一人のあなた、絶対で唯一のあなたを、どうしても「推し」という代入可能な一言に変換することができない。

「推し変」という派生語があるように、「推し」という言葉には常に互換性がある。相手が変わっても、同じようにその相手に「推し」と呼びかけている未来の自分を想像する。今はあなたを推しているけれど、来年はどうなっているかわからない。もしかしたら別の誰かを推しているかもしれない。
「推し」という言葉は、現在のこちら側の状態に基づくからこそ、こちら側次第で「推さなくなる未来」へ分岐する可能性を常に孕んでいる。それは今、目の前にいる    に対して誠実でないような気がして、迷いに迷った挙句、結局フルネームを連呼することになった。

「推し」は、その相手を指す言葉であると同時に、そこに第三者の存在を感じさせる言葉でもある。誰かに、あるいは世界に向けてあなたを「推薦する」。皆に知ってもらいたい、もっと評価されるべき。私だけが知っているのはもったいない。素晴らしさを分かち合いたい。この熱狂が「布教」と呼ばれる行動を生み出す。

だが私は、できることならば、    を誰にも知って欲しくなかった。私だけが見つけた魅力(少なくともそう思い込んでいる)は私にしか分からないものでよかったし、むしろ誰も気づいて欲しくなかった。たった一人の私が、たった一人のあなたを発見した。その事実、物語こそが唯一で、絶対であってほしかった。だから、「推し」と呼ぶことができなかった。
この感情を表現するにあたり便利な言葉がある。「同担拒否」。そして、以上の私の過剰な状態は「ガチ恋オタク」という一言で片付け..........片付けていいのだろうか?

「ガチ恋」という言葉には「現実の恋愛とは異なり、成就可能性はないにもかかわらず本気(ガチ)で恋をしてしまっている」という含みがある。しかし「叶うことのない恋に本気でのめり込む」ことは、推しとオタクの関係のみに起こることとは限らない。
「現実」の恋愛においても成就不可能な相手に恋をすることはあるし、逆にありとあらゆる偶然が重なった結果、ガチ恋の相手である<推し>と「現実」の関係に発展する可能性も(程度の差こそあれ)全くないとは言い切れない。

「ガチ恋」と「恋」。本当に線引きは可能なのだろうか。「ガチ恋」の文脈では、しばしば「結婚しよう」「付き合って」といった二者合一志向の呼びかけが行われる。その呼びかけには既に一種の型ができている。

しかし、そうした定型文の反復により、かえって己の内面を、欲を直視することができなくなっている側面はないだろうか。果たして本当に、私たちは推しと「結婚」したいのか?ガチ恋オタクとは誰なのか。
これを語るには、そもそも「恋とは何か」という問いに向き合わねばならない。ガチ恋オタクだけでなく、他者に強烈に惹かれた経験のある全てのあなたと一緒に、この問いに取り組んでみたい。

恋とは、他者と自己に、同時に出会す体験である。

宮野真生子『なぜ、私たちは恋をして生きるのかー「出逢い」と「恋愛」の近代日本精神史』(ナカニシヤ出版、2014年)は、他者を求めること、他者とともにあることを「恋愛」という現象から細かく分析した哲学書である。

宮野は本著の中で次のように述べる。「恋のはじまりにおいて、人は決して自己の形など求めていない。むしろ、それを壊すことこそが喜びなのだ」(宮野 2014:198)。
決まりきった日常によってがんじがらめにされた既存の自己を壊し、新たな可能性、新たな未来を見出す契機となるのが、「異物」である他者との出逢いである。
不安や嫉妬、陶酔をもたらし、自己をかき乱す存在としての他者。恋のときめきは、出会う「以前」の自分が崩れ落ちていくことへの不安と期待である、と、宮野は指摘する。
しかし、その不安定な状態は永遠には続かない。恋の陶酔を味わったあとの自己は、破壊をもたらした他者を再び必然性へと取り込むことで、日常の崩落を避けようとする。他者の持ち込んだ偶然性を喰らい、自己の必然の物語に取り込もうとする行為。   その裏にあるのは、相手の他者性を「この私」という存在と結びつけることによって短絡的に理解しようという試みに他ならない。
それにより、他者の「他者性」は色を失い、偶然は必然となり、目の前の相手のかけがえのなさに目を開くことができなくなる。

『なぜ、私たちは恋をして生きるのか』では、他者を自己の物語に取り込み同一化しようとする振る舞いが批判される。私が    に対し抱いていた執着と投影もまた、私自身の形と物語を完成させんとする欲望に他ならなかった。

    は、散々だった日常に突如として現れた彗星だった。眩暈のようなときめきを何度も経験し、受け止めきれない感情にたびたび頭を抱える。転げ落ちるような加速度で私は    に惹かれていった。その過程で生じていった執着。あなたを知りたい。あなたが考えていることを、言葉の裏側を、これまで生きてきた過去を、現在を、未来を知りたい。画面越しでなく、この眼であなたを見たい。網膜に焼き付けたい。イヤフォン越しでなく、鼓膜で直にあなたの肉声を感じたい。その手に触れてみたい。もっと、もっと、と際限なく他者を求める欲望の果てのなさ。業の深さ。探していたのはこの人だ、という理由のない確信。

どんどん深みに嵌っていく。
暴走していく私は、    本人を直視することを、次第に忘れつつあった。現在や未来の活動を応援することよりも、過去の発言やこれまでの歴史を収集することで、自分の中での    の解釈を深めることに注力するようになっていった。そうすると不思議と、この人と出逢うべくして出逢った、という確信が深まっていった。己と    の共通点ばかりが見えてくる。

あなたの全てを知りたい。いや、全てを知りたくはない。都合の悪いことはできれば知りたくない。都合よく解釈できる情報のみに意味を見出し、興味のない情報には目を瞑る。身勝手に、自分に引き寄せて考えることで、手癖で肖像を描いていく。
そんな当時の私の状態を目撃していた友人の象徴的な一言がある。「なんかもう、“せなさん“なんだよな     氏」。私が描いていた    の肖像は、限りなく私自身を投影した自画像だったのだ。

私がはじめ    を「推し」と呼ぶことができなかったのは、「推し」という呼称によって失われる唯一性、絶対性を保持せんがためであったはずだ。にもかかわらず、私はいつしかその唯一性を見失い、自分の物語の登場人物としての    に執着し始めていた。相手への想いが自己愛へとすり替わっていく。あなたは私だ、という感覚。

    を「推し」と呼ぶことができないのは「推す側にいる自分」、ひいては二者の間に明確に引かれたラインを直視したくない、という拒否反応でもあった。
    が私の中で死んでしまったのは、つまり過剰な加速度と熱量を保ち続けることができなくなったのは、そのラインを無視し続けることがとうとうできなくなった時だった。私とあなたの間には、圧倒的な隔たりがある。私は    のことを毎秒考え続けているが、向こう側からこちらは見えていない。問いかけに答えは返ってこない。当たり前だ。生きている世界が違うのだから。私の中にあなたはいるが、あなたの中に私は存在しない。
距離、時間、全てが圧倒的に遠いこと。同じ景色を見ることはできないこと。光に心を奪われている間は何も見えないから、その隔たりは存在しないものとなる。すぐそこにあるように見える夜半の明星。冬の空に焦がれて飛び続け、冷気に身を焼く宿命の果てに、よだかは青く燃える星になった。星にも鳥にもなれない私は、空からあっさり墜落し、血まみれでこの文章を書いている。

とある一人の他者と出会い、ひたすらに考え続けたこの数ヶ月間の中で、私は何度も何度も自分と出逢い直した。人は赤の他人にここまで夢中になることができるのか、という新鮮な驚きがそこにはあった。
「現実」の恋愛においては、相手と顔を合わせたり、見つめあったり、言葉を交わしたり、関わり合っていくことが可能だ。その過程で成就したり拒絶されたりを経て、欲はだんだんと昇華・消化されていく。しかし「ガチ恋」においては、基本的には関係性自体の変化は見込めない。だからこそ欲が欲のままに留め置かれる。伸ばした手が届かないことに、声が返ってこないことに、全てを知ることは到底できないという諦観に、決して一つになれないこの身を思い知らされながら、それでもガチ恋オタクは推しに思いを馳せる。

この身はまだ満たされない。
私たちはもっと、自らのどうしようもない欲を直視すべきだ。それは単に欲に忠実に生きることとは違う。直視することでしかその暴走を止めることはできないからだ。もしかしたら、他者に向ける欲望をもっとも鋭く差し出してくるのが「推し」という存在であるかもしれない。現実の間柄に依らない、むきだしの他者性に触れた時、私もまたむきだしの私になる。そうなった時、私たちは「あらねばならない」を手放さずには居られない。正常か異常かを手放した先でしか、あなたと私は出会えない。

「推しに元気をもらった」「推しに救われた」「推しは最高」という綺麗な物語を、私はここでは書くことができなかった。この文章は、定型文を手放し、血と欲に塗れた私と、あなたが生きるこの世界ごと、できる限りそのままに捉えようとする試みだ。どろりとした欲がそこに確かに存在するなら、心ごと見つめるほかに道はない。引き出してくれたのは目の前のあなた。その出逢いだけが真実である。

世界は、まだ出逢っていない、出逢うかもしれない他者で満ちている。いつの日か「推し」になるかもしれない無数の「あなた」と共に、私は今日を生きている。数ヶ月前の私にとって、    はまだ出逢っていない他者だったのだから。獲得したのは、この世界への信頼だ。

    が私にくれたもの。シャガールみたいな青い夜。夢にまで見た淡い夢。互いに他者であるという諦観。

推しは他者である。しかし他人ではない。かけがえのない、唯一無二のあなたである。

私はこれからも、その了解の元で、自他の思い通りにならなさを悟りながらも、その光に何度でも飛び込んでいくだろう。圧倒的な輝きにあてられたり、言葉の棘に引きずられたり、醜く矮小な自己を突きつけられたり、自分自身を取り戻そうともがいたりしながら、その時々で心地よい距離、正しい距離を探っていく。変容しながら。あなたの言葉や、笑顔や、歌声や、陰翳に、何度も胸をかき乱されながら。

世菜「ガチ恋オタクは他者を知る あるいは夜半の明星」『推察』(共著・ナルミニウム)2021年 より


zine『推察』は、2021年10月31日に福岡の舞鶴公園で開催された「さらけだすZINEピクニック」にてお披露目されました。

「推しとは」「推すとは」という問いに、共著者のナルミニウムさんとの二人がかりで、それぞれのやり方で挑んだ、約9万字の両A面zineです(現在は絶版です)。この『推察』を読み返すと、心をおろそかにすることと大切にすることを高速で往復しながら、ままならない恋を生きていた当時の記憶が、あざやかに蘇ります。

また、2022年4月23日(土)「さらけだすZINEピクニック vol.2」では、続編となる『推察の推察』をお披露目しました。


画(左):世菜 グラフィック(右):ナルミニウム
「さらけだす、ふたたび。女や男やそうじゃないひとたち。」
キャプションはなかむらみさきさん(主催)


推しを「推し」とも素直に呼べず、拗れ切り、疲れ切っていたガチ恋オタクに差した一筋の光明が、K-POPアイドルグループ「SEVENTEEN」でした。
『推察の推察』は、「推察・その後」を生きる私たちが、自分に、そして互いに出逢い直していく物語となりました。

 こちらは岐阜で築100年の古民家で(古)本屋と宿を営まれている庭文庫さんで、まだお求めいただけます。オンラインショップでも購入できます。


庭文庫店主の百瀬雄太さんによる紹介文を、ここに、大切に引用させていただきます。
⁡書いた当時がどんどん飛び去って、過去になっても。
百瀬さんのこのレビューを読むたびに、あの時の気持ちを思い出すことができます。

「「推し」をめぐる」という言葉で一括に記号化してしまうのは憚れるほどの、強靭な〈恋〉や〈愛〉や〈尊敬〉や〈畏敬〉や、誰かを大事に思うことや、誰かがこの地上に存在してくれていることで救われるという事実や、誰かと誰かという関係それ自体にまつわる問いかけや、思わず溶け合い一体化してしまうような恋愛の秘儀にまつわるはなしやなんかの、とにもかくにもどうしようもなく突き動かされ、どうしようもなく惹かれ、動かされ、どうしようもなく「推し」てしまう…人間というものの、その不思議さを、簡潔になにかを分析して終わるというのでなく、全身全霊で、さらけ出し、剥き出し、なんというのか、生きて思考すること、感ずることをやめない、変わり続けるふたりが共に語り出す、そういうこう、紹介文を書くにしても思わず熱くなってしまうような、そんな対話や、剥き出しの文や、愛する対象のことを思う思考や、それを愛してしまう自分自身たちをともに考える。そういう熱量のものすごいものが、『推察』というかたちで、さらけだすZINEピクニックという場所で、販売され、そちらはもう売り切れとなっているのですが、最後の1冊を僕が買わせていただき。読んで。とにかく熱にあてられてしまい、ぐだっとした。
⁡(中略)
今を生きていて、なんだか生きるのが辛くて、文章書いたり絵描いたり歌ったり踊ったりしてる人たち。誰かへの想いが断ち切れない人。誰かを愛する人、恋する人たち。そうだ。愛を知るすべての人たち。それを生き、それをもっともっと深く考えてみたい、感じてみたい、そうしてついにはそういうZINEまで出しちゃう彼女らに、なんだか惹かれてしまう方々へ贈ります。

これは生きる書物だ。僕はそう思う。

zine『推察』は100部ほど作って、完売しました。再販の予定はないのですが、庭文庫さんに最後の1冊があるはずです。
岐阜に行かれる機会がある方は、ぜひ手に取って、触れていただけたらうれしいです。

改めて、『推察』シリーズに出逢ってくださったみなさまに、こころよりのお礼を申し上げます。

2024.02.21 世菜

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