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聖徳をまとう_九/神域に騙る(2)
前話はこちら
◇
古来、女性は勇猛で果敢だった。
仲哀天皇の妻であり、また、古代日本を代表する女武将として知られる神功皇后は神託に従い新羅国へ軍を率いて渡海したおり、その腹には天皇の御子――のちの応神天皇を宿していたという。異国の戦場では、腹に石を当ててさらしを巻き、冷やすことによって出産を遅らせながら出陣したとされている。
神功皇后誕生の地として伝わる科長神社――その境内の擁壁から腰を起こした私は静謐のなかにたたずむ拝殿を一瞥し、かの女傑の伝承に思いを馳せる。
意中の男と権力との両方を求めた横谷香苗。自身の欲望のために河下美月を排除した彼女のことを私はどう評するべきだろう。それでも悪女とは呼びたくない。人のさがは多面的だ。香苗のたおやかな一面を知る私は彼女のことを女傑とも呼べない。つまるところ、私にとっては、気さくな幼友達だった――としか言えない。
「もう一度、河下美月が死んだ一年前に時間を戻そう」
横谷肇は憮然とした表情で中空を見つめている。乾いた唇を舌で湿して私は続けた。
「美月の死からしばらく経って、八城は渡辺澄子という女性と突如結婚した。さて、渡辺澄子はどこから来たのか。もういいやろう。肇くんは香苗さんからこれについてどう聞かされていたかな」
「――あんなぽっと出の女にって」
かすれた声が肇の口からこぼれた。艶のある前髪の奥で落ち窪んだ瞳が闇をたたえている。
「やろうな。難しく考える必要はなかった。はじめから澄子はキャッスル・インフィニティの泡沫会員として遠巻きに八城や香苗さんや河下美月のことを眺めていた」
思えば、香苗は学生の頃からとかく目立つ存在だったように思う。小学生のときの記憶――黒板の前で笛をくわえた彼女はクラスメイトから注目されることを面映ゆそうにしていたが、人は変わる。経験を重ねるうち、耳目を集めることに多幸感を見出していったのだろう。そして、香苗や美月のような女性の周囲には必ずいたはずだ。たとえば、学生時代、教室の一隅から華やかな級友を眩しそうに眺める娘が。
八城宗光の築いたコミュニティのなかで、渡辺澄子はそんな華美に憧れる側にいる女性のひとりだった。
「河下美月の死を知ってから一念発起した渡辺澄子は今が千載一遇の機と八城にアプローチした。顔を変えて、女性としての自信を得てね」
「それも想像ですか?」
薄笑いを浮かべる肇に、
「いや、これは裏を取った。澄子の両親の前では惨めな思いもしたけれど、今回、貴重な情報源として利用させてもらったから良しとするよ」
そう返すと後輩は頭をかいて嘆息を吐いた。
「美月に似た女性が突如目の前に現れたことに八城は戸惑ったんじゃないかな。でも、結果的に八城は澄子を受け入れるしかなかった。言葉を選ばずに言うと、澄子の実家には金があったから。パトロンの先細りに悩んでいた八城に選択の余地はなかったやろう」
「そうやってやつはどこまでも自分を取り巻く女たちを利用してきたわけですね」
繰り出される怨嗟の言葉に私は応じない。
「良好な夫婦関係は長続きしなかったらしい。自由人と言えば聞こえはいいけど、拘束されることに耐性のない男は結婚に向いていない。徐々に澄子との関係はこじれていった。八城の気持ちが離れていくのを感じるうち、夫に隠れて澄子は風俗で働き始める。金に困っていない女性がそうする心理は俺には見当もつかない。単純に異性の人肌が恋しくなったのかもしれないし、夫に対する内心での反駁だったのかもしれない。ちなみに、澄子は店ではユミを名乗っていた。こういう店では、客に対して自分のプライベートを開示しないことは一般的やろうけど、彼女はひときわ特殊で河下美月のプロフィールを自分のこととして騙っている」
すえた匂いのする日本橋のホテルの一室。糊の効いた純白のシーツのうえで指を絡ませながら聞いた艶やかな声は今も耳朶の奥底に残る。
「欲望むき出しの客に自分の本当なんて言いたくないのは当然として、かと言っていちいち適当な嘘を散りばめるのが面倒くさかったのか、あるいは――」
「あるいは、なんでしょう」
肇の疎ましげな声音がわずかな間隙さえ許さずに私を促した。
「あるいは、自由奔放に生きながら八城の心を掴んだ河下美月という女性への純粋な憧れかな。美月の顔と、彼女のたどった半生――それらをオーラのようにまとうことで澄子は自分を奮い立たせていたのかもしれない」
「オーラをまとう――ですか。後付けの顔と嘘っぱちの略歴が後光にも護符にもなるとは僕には思えない」
「後光に、護符、ね。ご利益があるかどうかはさておき、それならむしろここは――聖徳とでも言うべきだったかな」
胡乱な顔をする肇に構わず私は続けた。
「いずれにしても、澄子の新しい顔と彼女のついた嘘は俺に大きな混乱と迷走をもたらした。なにしろ一年以上前に事故死した同級生が自分の目の前に現れたようにしかそのときの俺には思えなかったのやから。そして、俺の混乱と迷走はその後のアクシデントの引き金になった」
おりからの風がひときわ強く吹き抜けて砂塵を巻き上げた。鎮守の森が作る濃い樹影が境内のあちこちで揺らめく。石鳥居を背に力なく立つ横谷肇の長身は陽炎のようだった。
「話を戻そうか。婚姻関係を解消したくともパトロンとしての渡辺家との関係を失いたくはない八城は苛立っていた。隣の住人に聞こえるくらい声を荒らげての夫婦喧嘩もあったらしい。俺がトラブルを起こしたのはそんなときやった。澄子のあとをストーカーさながら自宅までつけた」
「しかもバレたんですよね」
「ああ。我ながら最低の行為やな」
「ほんとうに。自覚はあるようでなによりです」
「弁解の余地は無いよ。バカなことをしたと思う。前後して同じ頃、八城は澄子の仕事のことに気が付いたのやと思う。これは澄子の同僚から俺は聞いた。夫にバレたかもしれない。そう彼女が言っていた、と。隠れて風俗勤めをしていた妻を強く非難する八城に対して、澄子は必死で弁解したやろう」
――ごめんなさい。だけど、信じて。もう辞めようと思っていたの。このあいだお客さんにあとをつけられて、それで怖くなって。だから本当に
「対して、八城は、いや、そんな不貞は絶対に許せないと、たとえば離婚を仄めかす発言をしたのかもしれない。そして、澄子はみずからの首を吊った――」
私は言葉を切って、頬を伝る汗を拳でぬぐった。うんざりするような熱気のなか、降り注ぐ蝉時雨に肇の陰鬱な声が境内に重なり響く。
「八城澄子さんの自殺の原因はなんだったのでしょう。というか、彼女が自殺する前、ほんとうに秀太さんが言うような会話があったのでしょうか。澄子さんは夫である八城宗光の存在に依存していた。だから彼から向けられた拒絶に絶望して自殺した。秀太さんの立場としてはそう言いたくなるのかもしれませんが、やはり身バレを苦に自殺したのかもしれない。だとしたら秀太さんのストーカー行為が原因ですよね。自分の責任じゃないとしたいがために詭弁を弄しているだけじゃないんですか」
「香苗さんは――君の姉さんはこうも言っていた。いまどき、風俗稼業とは言っても、どこの馬の骨とも知らない客に家がバレたくらいで自殺なんてするかねって」
「それだって、姉ちゃんの感想にすぎない」
そう言う肇は苦虫を噛み潰したような顔をしている。
「確かに。実際のところ自殺の動機は誰にもわからない。事実としてあるのは澄子が実際に自殺したということ。それと――」
「それと――?」
「八城が俺を利用しようとしたこと。さっき肇くんは言った。八城夫妻のあいだで俺が言ったような会話がほんとうにあったのか、と。その疑問に対する論拠でもある」
「澄子の自殺を知って、八城は焦ったことやろう。夫婦仲は悪かったとはいえ、本音として離婚までは考えられなかったから。言うまでもない、失いたくなかったのはお金やな。自分が追い込んだことが原因で娘が自殺したとなれば義両親との関係も終わる。そこで八城は俺を利用することにした」
目をすがめると、木漏れ日を受けて輝く塵芥の向こうにあのときの澄子の横顔が浮かんだ。私の視線に気が付いた彼女が背を丸めて鉄扉の先に消えた瞬間こそ、この奇妙で歪んだ一連のほんとうの始まりだったのかもしれない。
「あの日、澄子が家のなかに駆け込んだあと、立ち尽くしていた俺は誰かの視線を感じていた。いま思うと、騒々しく帰宅した妻の姿を横目に八城は窓外の様子を――つまり、俺の姿をそのとき見ていたのやろう。その後、澄子から客にあとをつけられたことを聞かされる。そして、時をおいて、澄子の自殺後に現れた怪しい男。八城はこれらの情報を脳内で瞬時に照合した。ストーカーはこの男だった、と。そして、これは使える駒だ、と。忘れもしない。八城は初対面の俺のことを見るなりすぐさま糾弾した。澄子から相応の事前情報を得ていないとそんなことはとてもできないよ」
「秀太さんとしては、あくまで自分が八城に良いように利用されたと主張するわけですね」
「八城は、夫婦仲が悪化していたという自分にとって不都合な事実は取り上げず、一方で、妻の自殺はストーカー行為が遠因であるというストーリーを喧伝し、それを既成事実化することに成功した。君の言うとおり、澄子の自殺のほんとうの動機は誰にもわからない。だけど、八城が片方の可能性を強調して利益を得たことは事実や」
「自殺の原因は、夫の拒絶か、あるいは身バレのショックか。死者に口が無い以上、可能性としてはあくまでイーブンだと。今はいいでしょう。それからどうなりますか」
しかつめらしい口調でまとめると、肇はもの問いたげなまなざしを私に向けた。
「いずれにしても、澄子の自殺をきっかけにして、事態は八城にとって思わぬ方向に進み始めた。それは、自分と縁を持つ女性が二度死んだ不思議に囚われた俺が一年前の河下美月の事件を掘り起こし始めたこと」
「――ようやく繋がりましたね」
「ああ、ようやく繋がった。君のお姉さんの話に」
オウムがえしに言葉を紡いだ私に肇は目を伏せたまま口の端を持ち上げて応じた。
「香苗さんとの再会は偶然やった。古市の居酒屋で飲んだとき、俺は自分の置かれている境遇を洗いざらい君のお姉さんに告白した。香苗さんは驚いたことやろう。俺が八城にとって、キャッスル・インフィニティにとって不都合な動きをしていることに。そして、その情報はすぐさま八城にも伝えられた。翌朝、あまりにも早かった八城からの呼び出しは彼と香苗さんが通じていたことがわかってしまえば不思議でもなんでもない」
「秀太さんが八城や渡辺澄子の両親と天王寺で会食しているあいだに姉ちゃんはいもこさんで――小野妹子廟で死んだ。八城にはアリバイがあります。じゃあ、誰が姉ちゃんをあんなところに呼び出したんですか。八城がアリバイ工作をした可能性だってきっと――」
長身から伸びる影がにわかに怒気を帯びて昂然と揺らいだ。
「香苗さんは知りすぎたんや。八城のスキャンダル――河下美月の事故死の真相や、妻である澄子の自殺の裏側を。だから八城に疎まれた。うん、あの日、いもこさんに香苗さんを呼び出したのは八城で間違いないやろう。タイミング的に他の人物が想定できない。でも、八城が最初から香苗さんを殺すつもりやったかと言うと、それはどうかな。俺から得た情報の報告あたりがあの日の会合の目的だったんじゃないやろうか。が、図らずも、結果としてふたりのあいだで口論が起こった」
「どうしてそう言えるんですか――は、あとにしましょうか。どうして口論になったんでしょう」
微かに震えた語尾が内心の苛立ちを隠さない。もともとクールな印象のある肇だが、揺れ惑う情緒をいまは理性が抑えられないのか。顔を伏せて私は苦笑を漏らした。
「香苗さんに自分のアキレス腱を握られていることを八城は自覚していた。当然、香苗さんもそう思っている。いまの八城の社会的地位のいくらかが自分が尽くしてきた結果としてあるのだと。そこに、俺が起こした新しいトラブルをたまたまとは言え、早期に把握してまた進言する。きっと見返りを求めたんやろう。それに八城が応じなかった」
「見返りって――」
「まぁ、男女の仲のことやから想像どおりやないかな。そして、愁嘆場で激昂した女性が取る行動としてどんなことがあるか。大きな声を出そうとする――というのはどうかな」
目を剥いた肇の喉が大きく上下した。私は境内の南側を覆う樹葉を振り仰ぎ、
「この神社も、この上の妹子廟も静かな場所やけど人家はすぐそこや。静かだからこそ声はよく響く」
言って、石鳥居の向こうの坂道を掌で示した。
「香苗の口を塞ごうとした八城やったが、思わず拳が出た。なかば故意だったのか、それとも感情が高ぶっていたがための事故か、香苗の前歯を折るほどの勢いで。あの夜の会食の席で俺は八城の右手の甲に絆創膏が貼られているのを見ている。カウンセリングと称して呼び出されたときには無かった生々しい傷や。会食の直前にそんなことがあったという蓋然性は認められるやろう」
「手に怪我を――」
「歯が折れたのやから口内から相当量の出血はあったと思う。それを見て動揺した八城は会食の時間が迫っていたこともあり、現場から駆け逃げた」
「それじゃあ、歯はどこに。秀太さんの言うとおりだと八城が持ち去ったわけでもないんですね」
「――その場に残された香苗さんがどうしてそんなことをしたのか、いまはもう想像するしかない」
「姉ちゃんがしたことってなんですか」
「恐らく澄子のときと同じことが起きた。八城に拒絶された香苗さんは――」
間を置くことなく核心に触れようとして、やめた。私をまっすぐに見つめる肇の血走った目を見て微かに気後れしたのだ。
八城との将来がないことを確信させられた香苗は発作的に絶望をおぼえたのだろう。この時点で彼女の心境は自宅で首を吊る前の澄子と似通ったものだったはずだ。だが、香苗は澄子ほど弱い女性ではなかった。走り去った八城の背中に香苗はこう言いたかったのではないか。あなたの望みどおり消えてあげる。ただし――
「香苗さんは八城に対して自分の死後、呪詛にも通じる謎を押しつけたかったんやないかな。折れた歯には八城の血がついていたはずや。血はたとえ拭ってもその痕跡までは消えない。歯は妹子廟の丘上から麓に広がる林野に投げ込んだ。こうすれば、よほど大規模な捜索がされない限り見つかりようがない。警察だってそこに重要な遺留品があると高い確度で見込まれなければそんなことはしない。そして、しばらく身をひそめ、八城の食事会の時間にあわせて香苗さんはみずから命を絶った」
小野妹子廟の拝所に至る長い石段の頂に、胸に刃物を突き立てた女性の遺体が仰臥している。遺体は顔を殴打されており、血まみれの口内では上顎中切歯が二本欠損。警察は殺人も視野に捜査するも、生前の死者と交友の深かった八城宗光にはアリバイが確認された。
「君は香苗さんから聞かされて当然ご存知なんやろうけど、ネットで八城を批判する手合いの中心に平塚もえぎという女性がいてね。昨日、昭和町まで彼女に会いに行ったところで八城とばったり遭遇した。どうしてこのタイミングで八城が平塚さんのもとへ向かうのか。最初は理解に苦しんだけれども、香苗さんの不可解な死を巡る事象を八城がまるで掌握できていないと考えれば一定の説明がつく。まさに香苗さんの仕掛けた呪詛の効果はてきめんで、八城は不安だったんや。いったいなにが起こっているのか。自分の知らぬ場で自分を陥れようとする力学が働いているんじゃないか、と。だから、自身に向くアンチの急先鋒である女性と押っ取り刀で腹の探り合いを試みることにした」
見上げると暗緑色の樹冠が風にあおられながら揺れていた。空は夏のきらめきに満ちみちて、雲間から差す光芒はさながら光の刃だった。
「そう、ナイフのことやけど、洋服の裾で包み持てば自分の指紋はつかない。もともと付着していた指紋も先に拭ったんやろうな。ただ、そもそもどうして香苗さんがそんなものを持っていたのかはわからない。場合によっては、八城と決裂することを想定して、彼を刺すつもりでいたのか」
「――証拠はあるんですか」
向かい合う陽炎はひとのかたちをしているが、その表情は能面のように色は無い。
「秀太さんの話には、ところどころ傍証と言えそうなものはありましたが、大半はあくまで想像でしょう。確かにひとつひとつの出来事とその繋がりに整合性は取れていました。でも、証拠は無い――んですよね」
「そういえば、匂いって、しばらくかぎ続けて鼻が慣れると最初どれだけ不快だったとしても気にならなくなってくるよね」
「なにを言ってるんですか。秀太さん、ふざけてるんですか」
「いや。今日、俺のことを最初くさいって――肇くんが」
私は、肌に貼りついた薄汚れたシャツの裾を指先でつまみ上げて自分の鼻先に寄せて見せた。その様子を眺める肇の眉間に縦皺が数本寄った。
「謝れと言うなら、いま謝りましょうか。昨夜、この上で野宿したんですよね。それがいったい――」
「汗と土にまみれて野宿したのには理由があってさ。君に電話をしたあと、いちおうやるだけやってみようと。徒労になるのは覚悟のうえで、君にはそのままを伝えようと思ってたんやけど――でも、うん、これは奇跡って言うのかな」
ショルダーバッグのなかから折り畳んだハンカチを取り出して、それをゆっくりと開いて見せた。
「こんなこと狙ってできるわけがない。ほんとうに偶然やった。昨日、陽が暮れるまでの時間では収穫は無かった。まぁ、それが普通やわな。でも、明け方に再開したらさ。たまたますぐに目にとまった。草木の密集した丘陵の斜面で、落ち葉の上に――」
――血の付いた歯があった。
肇の両の目がこれ以上ないほどに見開き、ハンカチに載った小さな薄片を穴が開くほどに凝視している。
「見つかったのは一本だけやけど上等やろう。付着した血液は香苗さん自身のものだけじゃなく、八城のそれも検出されるはず。この歯の存在が明らかになれば八城の周辺は騒がしくなる。香苗さんとの関係がさらに深掘りされるとなれば河下美月の事故も見直されるかもしれない」
歯の載ったハンカチを再び丁寧に折り畳んで、私はそれを呆然とする肇に差し出した。
「これは肇くんに預けるよ。好きにしたらいい。香苗さんへの――お姉さんへのいまの気持ちに素直に」
◇
手水舎に響く清冽な水音に耳をすますと束の間うだるような暑さを忘れられた。柄杓から零れ落ちる冷水に手を浸す肇の横顔はくすんだままだ。
「秀太さん、もう一度教えてください」
「なんやろう」
水盤の波紋に映る後輩の歪んだ顔を見て私は応じた。
「河下美月の事故現場で、秀太さんは歯のような欠片を踏んだと言いました。同じ場所で街灯柱に花を手向けている女性を見たとも。でも、それは秀太さんが見た白昼夢のようなものだったと、そういうことでしょうか」
「悪いけどそうとしか言えない」
「だったら、秀太さんが僕に託してくれたさっきの歯は――」
柄杓を戻そうとする後輩の手は震えていた。私はスンと鼻をすする。
「今度は、幻じゃない」
蝉時雨がやんだ。
――続(十/✕✕✕✕✕✕ へ)